お金と仕事
「俺…何もなかったんだよ」阪神一筋の和田豊、今だから話せる処世術
1試合平均で4万人を超えるお客さんが駆けつける甲子園球場での阪神タイガース戦。そこは、虎ファンの耳をつんざくような声援が球場を支配し、選手や指導者の一挙手一投足に注目が集まる異質な空間です。担当記者という立場で接するそのプレッシャーたるや、想像の域を超えています。そんな環境に、選手時代から数えると31年間も身を置き、2012年から4年間は監督として指揮を執った和田豊さん(54)。15年シーズン限りでチームを離れた今だからこそ話せるタイガースの一員としての「処世術」を、じっくり聞いてみました。(朝日新聞スポーツ部記者・井上翔太)
――活躍すれば喝采を浴びて、結果が出ないと「やめろ!」などと痛烈なヤジになって跳ね返ってくる。どんな心境なんですか?
「平常心を保つのが、すごく難しい状況の中で野球をやらないといけない。いい方にも悪い方にも。ただ冷静に考えると、それだけファンはタイガースの野球を愛してくれているし、(ヤジは)その裏返しなんだよね」
――精神的に参りそう。
「だけど、それがここで野球をやる条件、環境の一つだから、受け入れないと。そこに神経を費やしている時間はもったいない。いろいろ言われるけど、絶対に味方だから。ただ自分は相手と勝負しているからいいんだけど、家族は大変だよね」
――それだけ熱狂的なファンというのは、どんな存在ですか?
「(お茶を一口すすり)俺ね、選手として秀でたものが何もなかったんだよ。『すべてが足りない』『何もない』という選手を、ここまでしてくれたのはタイガースファンなんだ」
和田さんは、日大を出るまで、ずっと関東暮らし。1985年、阪神に入団しました。1年目。キャンプで軽々と本塁打を打つ先輩たちの姿を見て、「うわー、大変な世界に入っちゃったな」と衝撃を受けたそうです。
――85年は日本一になった年。「史上最強の助っ人」と呼ばれたバース、「ミスター・タイガース」の掛布、後に4番を打つことになる岡田と、そうそうたるメンバーでした。
「同じ内野陣が、そのメンバーでね。最初の1年は衝撃的だったわ。『こんなにレベルが違うのか』って。『どうやって割って入るんだろう』と。そこから『工夫』が始まったんだ」
――どう考えたのですか?
「掛布さんや岡田さんがホームランを1本打つんだったら、その間に俺はヒットを3本打って、初めて勝負ができる」
「どうやってバットを自在に扱うか。自分の判断でバットを短く持ったよね。速い投手なら、もう指1本分短く持っていた」
――頭を使ったのですね。
「投手の癖、配球の癖を探るのも、すごくやった。我々の時代は、誰もそういうことを教えてくれなかったんだよ。だから目で盗む。自分で見つけたものって、財産だから」
――レギュラーをつかんでから、最も優勝に近づいたのが92年。それでも野村克也監督が率いるヤクルトに及ばず、2位でした。
「データ重視の『ID野球』っていうのが出てきて、他球団の立場からすると『どんなミーティングをしてるのかな』って興味があった。そのときは野村さんの著書、すべて読みあさったわ。『ヤクルトに勝つには、どうしたらいいんだろう』っていう発想だね。ヒントでいいから、『何かないか』って」
――観察眼と探究心は、監督業にもつながってくるのでしょうか?
「チームとか組織って、環境とか、条件とか、ルールとか、みんな違う。12球団の戦力もばらばら。何がどう『足りない』か。補うためにどう『工夫する』か。ユニホームを脱ぐ日まで、それは続いていく」
――大事にしている人生観はありますか?
「野球と人生って、似てるところがあってさ。一度よくなっても、ずっとは続かないし、どこかで壁にぶち当たる。そのとき壁を押して突き進んでいいときと、一歩下がって冷静になった方がいいときがある。行き詰まったときに『もう一回帰ってみよう』っていう場所があることが大事なんだよ。技術的にも、気持ち的にも、人生におけるふるさとという意味でも」
和田さんは昨秋、高校時代に通った千葉県我孫子市で「第1回和田豊旗争奪少年野球大会」を開催。少年野球教室も行い、重圧の中で培った経験を故郷に還元しています。
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