お金と仕事
大塚家具“お家騒動” 久美子社長が語っていた父・勝久会長への思い
創業者会長と長女の社長が対立する大塚家具。久美子社長はかつて「(自分には)父と同じ反骨のDNAが流れている」と語っていました。
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創業者会長と長女の社長が対立する大塚家具。久美子社長はかつて「(自分には)父と同じ反骨のDNAが流れている」と語っていました。
経営方針をめぐり、創業者の会長と、その長女である社長が対立する大塚家具。騒動の背景には、経営者としての強烈な信念の対立があります。大塚久美子社長は過去に「(自分には)父と同じ反骨のDNAが流れている」と語っていました。
大塚家具は1969年、大塚勝久会長が父親の桐たんす店を経て埼玉県で創業しました。東京や大阪、名古屋などに16店あります。
その特徴は会員に様々な家具の「まとめ買い」を促す販売手法でした。来店客に名前や住所を書いてもらい、会員登録したうえで広いショールームで従業員が付き添って案内します。客にとっては、色やデザインなど、それぞれの家具の組み合わせを総合的に提案してもらえる利便性がありました。
勝久会長が93年から取り入れたこの手法は元々、「価格が不透明な家具販売の商習慣を打破したい」という反骨精神で、メーカーと対立しながら築き上げたものでした。
「交渉次第で価格が違うなど、実売価格が分かりにくいという不便さがあった」ため、どの客にも価格を安く表示したいと創業当時から思っていました。しかし、値崩れを恐れるメーカーの力が強く、なかなかできなかったといいます。
「安い表示価格をつけたら、メーカーから出荷停止を通告され、『今後はしません』という始末書を書いたことが何度もあった」と、99年の取材に勝久会長は答えています。
そこで、業界内で「特定の会員だけが相手だから」という説明がつくため、安い表示価格をつけられるようにする工夫として編み出したのが、会員制販売でした。
こうした異例の手法で業績を伸ばしたものの、近年は、安価な家具を自由に見て回れる「IKEA(イケア)」「ニトリ」などに押されて低迷。
売上高は03年の730億円をピークに、14年12月期には555億円まで落ち込みました。
久美子社長は一橋大を卒業後、富士銀行(現みずほフィナンシャルグループ)を経て26歳で大塚家具に入社。04年に退社し経営コンサルタントに転じた後、父親に請われて09年に社長として復帰します。
そして落ち込む業績を回復させるため、父親が築いてきた経営手法を次々に変えていきます。既存店では会員制を見直し、都内には北欧家具などを扱う路面店を相次いで出しました。
久美子社長は「消費者の購買スタイルは単品買いに変わった」「受け付けや接客に客が抵抗を感じている」と理由を語っています。
そんな久美子社長ですが、対立が表面化する前の13年9月、取材に「父と同じ反骨のDNAが流れている」と語り、父親への思いを明かしていました。
「(父が始めた店の)隣の倉庫の一角が私たち家族の住まいだった」という久美子社長。「お金は事業に使うため、贅沢はしない」という両親の方針で育てられたそうです。
「夏の家族旅行に行きたい」と頼むと、家具メーカーの工場見学に連れて行かれました。
「『(値下げを嫌う)メーカーが商品を売ってくれない』と、悔し涙を流す両親を見て育ったんです」
苦労して事業を大きくした父親の思いを継いだ社長就任。しかし、父親の手法を否定する改革が対立を招きました。
久美子社長は自身の人生訓について、こう語っています。
「人生は計画通りにいかない。でも、どう生きるかは自分で決められる。そっちを大事にしてきた」
2月26日に開いた記者会見で久美子社長は、「創業者から離れなければならない、ぎりぎりのタイミング」と話し、あらためて勝久会長の退任を求めました。
勝久会長はこれを受けて、「非常に残念。経営を安定化させるため決意を新たにした」とコメント。25日の会見では、「悪い子どもを持った」とまで言っています。
今後、大塚家具の経営の主導権はどちらが握るのか。双方とも大株主の説得に動いているとみられ、決着は「委任状争奪戦」に持ち込まれる見通しです。