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園田天光光さん死去 女性初代議士、餓死防衛、不倫結婚…波乱の人生
戦後、女性初の国会議員になった園田天光光さんが96歳で亡くなりました。同じ議員で妻子があった園田直氏との大恋愛の末に結婚、「白亜の恋」として世間を騒がせました。関東大震災や戦争、戦後の食糧難といった修羅場を生き抜いた波乱の人生でした。
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戦後、女性初の国会議員になった園田天光光さんが96歳で亡くなりました。同じ議員で妻子があった園田直氏との大恋愛の末に結婚、「白亜の恋」として世間を騒がせました。関東大震災や戦争、戦後の食糧難といった修羅場を生き抜いた波乱の人生でした。
戦後、女性初の国会議員になった園田天光光(そのだ・てんこうこう)さんが多臓器不全で亡くなりました。96歳でした。天光光さんは、同じ議員で妻子があった園田直氏との大恋愛の末に結婚、「白亜の恋」として世間を騒がせました。国会議員で初めて出産を経験し、国会に授乳室を設けるなど、女性の社会進出の道も切り開きました。関東大震災や戦争、戦後の食糧難といった修羅場を生き抜いた波乱の人生でした。
天光光さんは1919(大正8)年、東京都生まれ。実業家で教育熱心な父親のもとで育ちました。当時としては珍しく、父親は「これからの女性は男性と同じ理解力を持たないと生きていけない」という考えの持ち主。その思いを受け、4人姉妹の長女の天光光はさんは政治家に、妹たちも医者や公認会計士になり、「職業婦人」の先駆けとなりました。
「天光光」は本名です。男の子が欲しかった父親が、「明治維新の志士のように社会を変える人間になって欲しい」とつけたそう。「天は太陽、光は闇夜に人を導く星」を意味するそうです。ちなみに妹たちの名前も天星丸(てんほしまる)、天飛人(あまひと)と、ユニークでした。
天光光さんは東京女子大を卒業し、1940年に早稲田大学法学部に進みます。本当は政経学部に行きたかったところ、「女性は英語の勉強時間が少ないから原書が読めないだろう」という理由で大学側がなかなか願書をくれなかったそう。なんとか受験にこぎつけて筆記は通りましたが、面接では教師らと大げんかに。
「どこに就職するつもりか」
「早稲田なら人間一人が生きていけるように育てていただけると信じてきました」
「生意気をいうな。女なんか、かまどの前に引っ込んでいろ」
結局、政経学部は不合格に。しかしその後、女性の社会進出に対する理解者が多かった法学部に合格しました。それでも、学生300人のうち女性は3人だけだったそうです。
戦争が激しくなり、42年9月に半年繰り上げで卒業しました。戦争中は海軍の工場で働く若い女性の相談役に。空襲を受けた茨城県の土浦では、事前に割り当てられた防空壕(ぼうくうごう)に避難すると満杯で入れず、なんとか隣の壕へ走って転がり込みました。しかしその時、自分が入るはずだった壕を爆弾が直撃。多くの人が命を落としました。天光光さんは後に、当時の体験をこう振り返っています。
「私はただぼうぜんとしていました。割り当て通りなら、私が死んでいました。『自分の運命に逆らわない』。自然体の生き方を大切にしているのは、こうした経験からかもしれません」
26歳で終戦を迎えます。東京・巣鴨の家は空襲で焼かれ、川崎市の梨農家の納屋を借りて疎開生活に。食べ物がなく、近所の農作業を手伝って芋や梨を分けてもらって命をつなぎました。
ある日、ラジオで「上野駅の地下道では餓死者が放置されている」という話を聞きます。父親らと出かけてみると、地下道はひどい臭いで、本当に餓死者が目の前にいました。
天光光さんは帰る途中の新宿駅西口で、上野で目にした光景について演説し始めます。父親に促されたのがきっかけでした。「上野で餓死していく人を見たばかりですから。その様子が胸にうずまいていました。明日は我が身とも思えたのです」
演説ではこう訴えました。「餓死しないように自分で自分を守らなければいけない。私たちはあの戦争を生き延びたんです。ここで餓死しては相すまんと思いませんか」
そう語りかけると、街頭はみるみる黒山の人だかりに。翌日以降も繰り返ししゃべり、1千人以上の聴衆が集まったといいます。これが後の政治運動につながり、天光光さんは46年4月の衆院選に「餓死防衛同盟」から立候補、ほかの女性らとともに戦後初めての女性国会議員となります。
議員になってからは、牛乳の値上げを阻止したり、早場米の供出を促したりと、「食べること」に取り組みました。
その後、同じ国会議員だった園田直氏と知り合い、結婚します。天光光さんは独身でしたが、園田氏には妻子がありました。
「公人」の2人の不倫に世間の風当たりは強く、天光光さんはその後の選挙で落選が続きます。天光光さんは「自分の選んだ道だから」と弁解も謝罪もしませんでしたが、結局政治家の道はあきらめ、夫のサポート役に徹します。
「このままでは、あぶはち取らずになる。それで主人にただしたんです。『2人分の政治活動をやれますか』と。すると『よしやろう』と。それで、私はサポート役に回る決心がつきました」
直氏は厚相として1968年にイタイイタイ病や水俣病の公害病認定、78年に外相として日中平和友好条約をまとめます。天光光さんはその間、夫を公の場でも家庭でも、支え続けました。
84年に直氏が亡くなると、先妻の子で次男の園田博之氏(現衆議院議員)と議席を争いました。その選挙で落選した後は、「政治は息子に託しました」と政界を引退。世界平和のための社会貢献活動や、民間外交に力を尽くしました。
戦後、「餓死防衛」を訴えて国政に出た天光光さんですが、晩年は取材にこう語っていました。「いまは、心の餓死防衛が必要な時代ではないでしょうか」
そのだ・てんこうこう 1919(大正8)年、東京都生まれ。旧姓は松谷。著書に「女は胆力」(平凡社新書)など。