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「難病や障害について社会の理解を」ムコ多糖症患者の父がつなぐ思い

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Getty Images
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目次

毎年2月の最終日は「世界希少・難治性疾患の日」(Rare Disease Day=RDD、レア・ディジーズ・デイ)です。患者数が少なく治療の研究が進みにくい希少な病気と生きる方々の生活の質(QOL)向上を目指し、2008年から活動が始まりました。そうした希少な難病を抱える当事者や周囲の人々は、どのような生活をおくっておられるのでしょうか。希少疾患の一つ、ムコ多糖症患者のよりよい未来のために、30年以上にわたって患者会の活動をされてきた村田修二さん(75)にお話を伺いました。

■病院を訪ね歩く日々

「目に混濁(こんだく)がありますね」

村田さんのお子さんが乳幼児健診でそう言われたのは、1歳半ごろのことでした。1976年に授かった女の子。肋骨(ろっこつ)の一番下が少し外へ反っているように感じていたものの、初めてのお子さんで、村田さんとしてもよくわからずにいたのです。

それから約2年半の長い検査入院を経て、村田さんのお子さんはムコ多糖症のモルキオ症候群(ムコ多糖症ⅣA型)と診断されました。その時のことを村田さんは今も鮮明に覚えているといいます。

1978年、「こどもの日」に撮影された村田さん一家の記念写真=村田修二さん提供
1978年、「こどもの日」に撮影された村田さん一家の記念写真=村田修二さん提供
サノフィ提供
病名がわかった2歳のころ、長女が、母親にソフトクリームをねだる=村田さん提供
病名がわかった2歳のころ、長女が、母親にソフトクリームをねだる=村田さん提供

ナースステーションの片隅で医師から告げられたのは、「ムコ多糖症に治療法がない」という厳しい現実でした。「精神が錯乱するほど驚きました」。不安と恐怖、焦燥感。村田さんはとても一言では言い表せない気持ちに襲われたと振り返ります。平静でいられるはずもありません。しかし、診断されるまでの間にもお子さんの症状は進行していました。骨の障害が出ているため、いわゆるX脚になっていき、少しずつ歩くことが難しくなっていったのです。

村田さんは夫婦でお子さんを連れて全国各地の病院を訪ね歩きました。それでも、治療法はなく、お子さんの病状が少しずつ進行していく現実は変わりませんでした。

オンライン取材で話す村田修二さん。(新型コロナ感染予防対策を実施の上、撮影しました)
オンライン取材で話す村田修二さん。(新型コロナ感染予防対策を実施の上、撮影しました)

「嘆き悲しむだけではいけない」

そうした全国行脚を続ける中、1986年に岐阜大学医学部小児科の折居忠夫教授の尽力で患者会が発足した事を知り、早速入会しました。まもなく大阪市立大学医学部小児科の田中あけみ助教授(当時)も加わり、患者家族が集まるようになったのが、現在の「日本ムコ多糖症患者家族の会」の始まりです。「でも、最初はとても暗い会でした」と村田さんは当時の様子を振り返ります。互いに近況を話し、泣き悲しみ、希望が見えない現実に苦しみ、時には医療関係者に患者家族が罵声を浴びせることもあったそうです。

「もっと前向きに、患者会としてやれることはあるのではないか」。そう考えた村田さんは、ムコ多糖症のことを広く知ってもらう啓発活動に取り組むことを決めました。悩み抜いた結果、自分のプライバシーを明かしお子さんの病気について公表し、新聞やラジオの取材を受け、全国の病院に啓発のためのチラシも配りました。チラシには、村田さんの自宅の住所が事務局として記載されていました。

さらに、村田さんたちは、厚生省(現厚生労働省)にムコ多糖症をはじめとしたライソゾーム病の特定疾病治療研究事業への追加を求めた要望書を持って毎年粘り強く通い続けました。その結果、約10年かけてライソゾーム病の追加が実現したのです。

成長とともに変化する悩み

特定疾病治療研究事業に追加されたとはいえ、ムコ多糖症に治療法がない現実は変わりませんでした。さらに子供の成長と共に、生活していく上で新たな悩みが次々と生まれてきます。そのひとつが「就学」問題でした。普通学級へ行くのか、特別支援学級か、それとも、特別支援学校なのか。村田さん夫妻は悩んだ末に、普通学級への就学を決めました。

学校生活では、何かあった時のために備えて、村田さんの妻がお子さんを学校に送り、授業の間は廊下などで待機し、そして、一緒に帰ってくるという生活でした。母としてお子さんに付き添い続けた村田さんの妻は、お子さんが高校を卒業するまで、お子さんとほぼ一心同体でした。

村田さんのお子さんは幼稚園までは歩けていましたが、小学校に入ると松葉杖を使用するようになり、10歳ごろには歩けなくなり車椅子を使い始めました。「わかっていたことだし、覚悟もしていたけれど…」と村田さんは当時の心境を言葉少なに語ります。

好奇の目にさらされることも症状の進行にしたがって増え、時に差別的な言葉をぶつけられることもありました。

高校にも進み、大学進学を希望していましたが、症状が進行し、寝たきりの状態となったため、卒業はできたものの、大学入学という夢はかないませんでした。高校卒業から現在に至るまで、30年近い年月を在宅で過ごしています。

親なき後の不安

村田さんのお子さんは現在45歳。人工呼吸器をつけ、寝たきりの生活をしています。少し前までは読んでいた新聞も、骨の障害や筋力の低下もあり、新聞さえ持てなくなってしまいました。福祉サービスを除くと、家族以外との交流はありません。

お子さんは明るく暮らしていますが、自身の疾患やこれからのことについても、「察しているのだろうな」と村田さんは感じています。村田さん夫妻も高齢になってきたため、今後、お子さんをどうサポートしていくべきなのかについても考えるようになりました。

重度の障害や疾患を抱える人々が、生活を支えていた親の死後に直面する日々の医療的ケアや生活の場といった問題を「親なき後」問題といいます。村田さんのお子さんの場合は、生活の場と財産管理が挙げられます。特に、生活の場をどこにするのかは大きな課題のひとつです。

在宅で福祉サービスを利用するのか、療養型の施設への入居か、それとも病院へ入院するのがいいのか。それぞれに様々な課題があり、結論は出ていません。

「包括的に相談が出来る窓口を各自治体に設けていただけると大変助かります」。これが村田さんの願いのひとつです。

希少・難治性疾患とともに生きられる社会に必要なこと

「スロープをつけたり段差をなくしたりといったハードの整備はもちろん大切です。しかし、いくら法律や設備を整えようとしても、社会にいる人々が障害や疾患への理解を深めなければ意味がありません」

出かけたくても、出先に使えるトイレがない可能性があります。トイレがあったとしても、出かけていく先、つまり居場所がないのです。居場所があっても、そこに向けられる周囲の視線はどうでしょう。でも

「諦めず前に進むことです。世の中には、心ある人が多くいます。自分の状況を発信していけば、力になってくれる人が必ずいます。前向きに生きて、行動していくことが大切です」と村田さんは呼びかけます。

「社会にいる人々は皆、いずれ老いて、誰もが何らかの障害を持ち、亡くなっていきます。そのことに無縁でいられる人はおらんと思いますよ。障害や疾患について皆が理解を深め、優しくなることが大事です」

それが希少・難治性疾患や障害のある人々と生きる社会に欠かせないことだと、村田さんは力強く語ってくれました。

【プロフィール】
村田修二(むらた・しゅうじ)
1946年生まれ、広島県福山市在住。元福山市職員 「日本ムコ多糖症患者家族の会」に参加、会長などを歴任し、現在名誉顧問。福山人権擁護委員協議会に所属し人権擁護委員も務める
サノフィは希少・難治性疾患の認知向上のため、さまざまな活動をおこなっています
・RDDサポート RUN&WALK Project 
ライソゾーム病WEB市民公開講座
・ライソゾーム病の情報サイト LYSO Life(ライソライフ)
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