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オフコース、新ベスト盤が売れ続ける理由。ドラマーが語る音作り秘話
解散した今もなお、多くのファンに愛され続けるオフコース。 デビュー45年を記念して、2015年12月にベストアルバム「ever」がリリースされました。当時オフコースのドラムとして活躍された大間ジロー氏に今回のアルバム『ever』や当時のオフコースを赤裸々に語ります!
提供:ユニバーサル ミュージック
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解散した今もなお、多くのファンに愛され続けるオフコース。 デビュー45年を記念して、2015年12月にベストアルバム「ever」がリリースされました。当時オフコースのドラムとして活躍された大間ジロー氏に今回のアルバム『ever』や当時のオフコースを赤裸々に語ります!
提供:ユニバーサル ミュージック
解散した今もなお、多くのファンに愛され続けるオフコース。
デビュー45年を記念して、2015年12月にオフィシャル・ベストアルバム『ever』がリリースされ、発売後2か月たった今もなお好調に売れ続けています。
そこで、当時オフコースのドラムとして活躍された大間ジロー氏に今回のアルバム『ever』や当時のオフコースとしての活動、そして現在の大間ジロー氏個人としての活動についてお伺いしました。
――オフコースのベストアルバム『OFF COURSE BEST "ever"』は、オフコースファンによって選ばれた曲で構成されています。大間さんはお聴きになって、どのような印象をお持ちになりましたか?
大間 「ああ、この曲が入ってるんだな」と思う一方、「この曲が入っていてもいいのにな」と思う曲もあります。康さん(鈴木康博)の曲がもうちょっと入ってもいいんじゃない? とかね。
――18曲をお聴きになって、印象に残った曲は?
大間 「生まれ来る子供たちのために」ですね。これは1979年に発表された曲ですが、あらためて今のテクノロジーで再生したとき、とても今に即している曲だと思いました。楽曲の持っている世界観が、まったく古くなっていない。今、リリースしてもおかしくないぐらいだと思います。
――オフコースはサウンドも本当に凝っていますね。こうして最新リマスターされた音源を聴いて、あらためて実感しました。
大間 よくぞこれだけしっかりレコーディングしていたな、と思いました。一曲一曲、自分たちでアレンジを考えながらレコーディングしていましたからね。
――当時のレコーディングの思い出で印象深いものは?
大間 もう、ありすぎて(笑)。「ここまでやるのか!」というレコーディングでしたから。100人いたら99人は途中で諦めるでしょう。でも、そこを諦めない。小田さんは、自分の楽曲に対する飽くなき完成度の追求がとても高い人でね。最後のトラックダウンが終わっても、まだ「直したい」と電話が来るんです。(音源を)工場に送った後なのに、直しを入れたこともありました。僕もレコーディングは嫌いじゃなかったんですけど、辛かった思い出が蘇ってくる曲もありますね。曲名は秘密です(笑)。
――小田さんはレコーディングに厳しい方だったんですね。
大間 僕と清水仁と松尾(一彦)は最初、バックメンバーだったんです。僕はドラムだったので、レコーディングのときは自分のパートが終わったら、四六時中スタジオにいたわけではありませんでした。あるシングルが出来た後、小田さんに「どう思う?」と聞かれたので、「ちょっとドラムの音が小さいですね」なんて自分の意見を言ったら、猛烈に怒られましてね。「そんなこと言うんだったら、最後までスタジオにいてみろ! お前なんかにそんなこと言う資格はない!」って。
――本当に厳しいですね(笑)。
大間 でも、その瞬間から意識が変わりました。立場が何であれ、「食らいついていってやろう」と思ったんです。僕は負けず嫌いだったので、メラメラと燃えてね。小田さんより早くスタジオに入ったり、小田さんが帰るまでは帰らないでいたり。実際、レコーディングに立ち会い続けることで、プロデュースの仕方も学びましたし、コーラスワークの仕組みなども理解しました。音楽の成り立ちを一から学んだのがオフコースのレコーディングだったんです。
――当初はバックメンバーだった大間さんが正式加入されたのが1979年です。大間さんから見たオフコース像はどのようなものだったのでしょうか?
大間 メンバーが(小田、鈴木の)2人時代はフォーク色が強く、僕は洋楽をずっと聴いていたので、ちょっとフィーリングに合わなかった。でも、『ワインの匂い』(75年)というアルバムを聴いて認識が変わりました。オフコースは「媚びない」。ファンにも媚びないし、業界にも媚びない。売れなくてもいいから、自分たちが納得する良いものを作りたいという信念が2人にはあったと思います。だから、評価は高かったけど、なかなか売れませんでした。アリスやチューリップやユーミンに比べると、オフコースはわかりにくかったと思います。そんな時期がしばらく続き、76年『SONG IS LOVE』、77年『JUNKTION』、78年『FAIRWAY』の3枚のアルバムは自分たちで「迷いの3部作」と呼んでいました。その後にシングル「さよなら」(79年)をリリースするんです。レコーディングのとき、「これは絶対に売れる」と思いました。「時が来た」という感じでしたね。
――ここからオフコースは一躍人気バンドの仲間入りをして、日本武道館での公演も成功します。
大間 5人のバンドにもどんどん化学反応が生まれていて、特に1980年のツアー「OFF COURSE CONCERT“We are”」ではバンドとしてのうねりを感じていました。1+1が4にも5にもなるんです。この頃の曲では、「きかせて」がとてもお気に入りですね(アルバム『We are』収録)。コンサートではニューヨークの夜景の映像を使っていて、それがとてもマッチしていました。
――そんな中、鈴木康博さんが83年に脱退されます。ファンにとっては衝撃的な出来事でしたが、大間さんにとっても青天の霹靂だったのでしょうか?
大間 そうですね。僕は、鈴木さんからいろいろな音楽を教えてもらいました。僕はロック一辺倒でしたが、鈴木さんがスティービー・ワンダーやモータウンのレコードをたくさん聴かせてくれて。だから本当に……ショックでしたね。でも、康さんは康さんの判断、価値観の中で決断したことですから、僕から言うことは何もないです。彼は一度決断すると、とても強い人なんですよ。実はつい先日も康さんのライブにゲスト出演してきて、いろいろな話をしてきました。でも、昔を懐かしむ話ではなく、今とこれからの話ばかりなんです。「ジローはどんどん進化しているし、俺もそうありたい」と言っていましたよ。
――現在、大間さんは津軽三味線とドラムという編成の「天地人」という音楽ユニットで活動されています。オフコース時代に学んだことは、現在の活動に影響を与えていますか?
大間 はい、しっかり結びついています。僕の中で「こうあらねばならない」「こうあるべきだ」という方程式がなくなりました。音楽のつくり方とか、芸能界のシステムとか、そういうことは僕にとってはどうでもいい。今は音楽で新しい世界観を作りたいと考えています。黒澤博幸という岩手の津軽三味線奏者と、秋田出身の僕が組んだからこそできる、東北の泥臭さ、粘り強さが出ていると思います。
――天地人というユニット名は、どのような発想だったのでしょうか?
大間 火坂雅志さんの小説『天地人』より、ウチのほうが早かったんですよ(笑)。天地人とは、すべての調和のことです。和太鼓が入ってもいいし、東フィルとも一緒にやらせていただきました。いろいろな方たちとコラボしながら、人と自然の調和のエネルギーを感じています。それを生きるエネルギーにつなげていきたいですね。
天地人 オフィシャルサイト。天地人は2003年、大間ジロー(元オフコース)を中心に結成された、打楽器と津軽三味線のユニット。
――2016年3月11日、12日、13日に東日本大震災復興支援イベント「よみがえれ、東北応援魂! 東北六県茶屋~TOHOKU Rock'n Cafe」を主催されます。大間さんの想いをお聞かせください。
大間 震災から5年経ちますが、被災地ではいまだに仮設住宅で暮らしている方たちが大勢います。そんな中で、僕も東北人としてできることをやっていきたい。2012年から被災地で演奏させてもらっていましたが、当初はあまりのことに言葉が出ませんでした。祈りながらドラムを叩いた体験は、このときだけです。今回、イベントが開催される渋谷はオフコース時代も大変慣れ親しんだ土地。日本のカルチャーの発信地であり、若い人も多い街です。ここから我々が想いを発して、来場していただいた方が次につないでいってくれればと思います。
東京都の物産展、よみがえれ、東北応援魂!東北六県茶屋~TOHOKU Rock'n Cafeのイベント情報です。
――当日は、天地人や東北出身のアーティストたちの演奏を含め、東北六県のスイーツなどが販売される賑やかなイベントになりそうですね。
大間 どんな風に感じていただいてもいいと思います。音楽とスイーツを楽しんでもらえれば、それで十分。復興支援は、できる人が、できるときに、できることを、できる範囲でやるべきだと思います。オフコースのファンの方たちにも、ずいぶん励まされました。とてもありがたいことですね。
本サイトはUNIVERSAL MUSIC LLCが運営するOff Course公式サイトです。