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123便に搭乗予定だった東ちづるさん「自分のキャンセルで…」
父が乗る予定だった記者が話を聞き、感じたこと

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父が乗る予定だった記者が話を聞き、感じたこと
520人が犠牲となった日本航空のジャンボ機墜落事故から40年。俳優の東ちづるさん(65)は、墜落した日航123便に搭乗予定でしたが、直前に予約を変更しました。犠牲者や遺族への申し訳なさから、これまで多くを語ってきませんでしたが、ある思いが芽生え、当時の記憶を初めて語りました。父と祖父が搭乗予定だった記者が、日航機墜落事故から40年の取材を振り返ります。(朝日新聞記者・玉那覇長輝)
1985年当時、芸能界のデビュー前だった東さんは、大阪に住んでいました。
事故が起きた当日は、友人と会うために上京。午後6時発の日航123便で大阪に戻る予定でしたが、別の友人に会うため、一つ遅い便に変更し、事故を免れたといいます。
「私がキャンセルしたことで、犠牲になった人がいるかもしれない」
東さんは事故を知った直後から、これまで40年間、自責感にさいなまれてきました。
事故があった年に芸能界デビューし、大阪の放送局で情報番組の司会を任され、初回の生放送で特集したのが、日航ジャンボ墜落事故でした。
搭乗予定だったことは、事務所のごく一部の人にしか打ち明けることができず、それ以降、事故関連の仕事は避けるようになりました。
犠牲者や遺族の申し訳なさから、これまで多くを語ってきませんでした。しかし今回取材に応じたのは、「事故を風化させてはいけない」という思いが芽生えたからだといいます。
それを強く感じたのが、事故から37年目となる3年前の8月12日でした。事故を知らない世代が多くなり、迷いつつも、初めて当時の記憶と追悼の言葉をSNSで投稿しました。
しかし、想像以上に反応がなく、「風化の怖さ」を痛感したといいます。
そして今回、事務所の後押しもあり、「語ることで、空の安全に目を向けるきっかけになれば」と思い、取材を承諾したといいます。
取材中、時折言葉を選びながら、事故への思いを語る姿が印象的でした。東さんが背負ってきた自責感は想像以上で、覚悟を決めて取材に応じたことがひしひしと伝わりました。
今回、東さんの取材をした記者(26)の父と祖父も、墜落した日航機123便に搭乗予定でした。
沖縄に住む父は当時小学3年生で、37歳だった祖父と2人で「つくば万博(国際科学技術博覧会)(茨城県開催)に行き、2日後に大阪府に住んでいた叔父と会う予定でした。
ツアー会社が計画していた当初の旅程では、8月12日に123便で東京から大阪へ移動する予定でしたが、ツアーの応募者が少なくキャンセルになりました。
2人は1週間前倒しで別のツアーに参加し、事故に遭うことなく、つくば万博へ行き大阪にいる叔父と会って沖縄に帰ったといいます。
私は事故から13年後に沖縄で生まれました。
事故を知ったのは、小学生のころ。祖母から「おじぃとお父は、あの飛行機に乗る予定だったんだよ。本当に乗っていたら、今のあんたはいないさ」と言われました。
家族が搭乗予定だった衝撃を受けて、テレビで流れる事故映像を見ていたのを覚えています。それから日航機墜落事故が、どこかそう遠くないような出来事だと感じるようになりました。
記者となって3年目となる今年、私は東京へ転勤となり、初めて日航機墜落事故の取材をしました。
企画に携わるにあたって、搭乗予定だった人にも話を聞きたいと思い、さまざまな人に取材を申し込みましたが、断られることも少なくありませんでした。
東さんも「ご遺族のことを考えると記事になることも複雑な思い」と心境を語り、事故を語ることの難しさを感じました。
東さんの取材を通じて、犠牲者や遺族だけでなく、さまざまな人の人生に影響を与えた事故だったと身にしみて感じました。
また、誰が事故に巻き込まれてもおかしくなかったのではないかと考えるようにもなりました。
日航機墜落事故の原因は、1978年に大阪空港で「しりもち事故」を起こし、その修理ミスで圧力隔壁の強度が低下したとされています。修理後に定期運行へ復帰し、その間に圧力隔壁の疲労亀裂が進み、墜落事故につながりました。
そこで驚いたのが、このジャンボ機が復帰後に、7年間で1万2319回(1万6195分)も、飛行していたことでした。いつ起きてもおかしくなかったと思うと、誰にでも事故に巻き込まれた可能性があったのではと考えてしまいます。
事故から40年となった8月12日、墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」で、遺族を取材しました。
この日、父を亡くした内野理佐子さん(65)は、娘夫婦と、2歳と5歳の孫2人の3世代での慰霊登山をしました。
尾根にある慰霊碑「昇魂之碑」の前では、孫2人がシャボン玉を一生懸命飛ばしていました。内野さんは「いつか一緒に、山に登ってシャボン玉を飛ばしたことを思い出してくれたら。またみんなで来たい」と涙ながらに答えました。
内野さんは、事故を知らない人が多くなっていることに触れ、「事故のことを語り継ぎ、気に留めてくれる人がいれば、事故の防止につながると思う」と事故の教訓を伝える意義を教えてくれました。
搭乗予定だった東さんも「風化は歴史を繰り返させる」と訴えています。
科学技術の発展で、飛行機事故は格段に少なくなったものの、昨年1月には、羽田空港に着陸した日航機と、海上保安庁の航空機が衝突する事故が発生しました。世界に目を向けると、韓国やインドで航空機事故が起きています。
私たちにとって、公共交通はなくてはならないものであるからこそ、事故の教訓を伝えていく必要があります。
事故を自分に置き換えて考え、いつまでも、その教訓を共有していくことが、次なる事故を防ぐことにつながると信じています。私も搭乗予定だった祖父と父の話を心に刻み、日々の取材を続けていくと心に決めました。