連載
#86 #となりの外国人
「ママのお弁当恥ずかしい」 外国人ママの和食勉強会から見えるもの
異文化の不自由さをパワーに
日本に暮らす外国人が増える中、「衝撃を受けた日本の食文化」を聞くと、よくイメージされがちな「納豆」「寿司」などよりも、さらに生活に密着したものへと、幅広い答えが返ってきます。日本社会で「暮らす」ために生じる切実な問題。特に学校生活など社会との接点が深くなる子育てでは、なおさらです。多様な日本社会の今を、食の観点で見つめました。
「サワラ? スーパーになかったんだけど、この魚は使えるの?」
ZOOM越しに映ったのは、鮮魚コーナーに並ぶ「カレイ」のパックでした。
1月末の夕方、日本に暮らすモンゴル人ママたちが、わいわい話しながら一緒に夕食を作る「ライブ配信」に参加させてもらいました。
この日のメニューは「サワラの照り焼き」と「お雑煮」。
これぞ「日本の家庭料理」という献立で驚きますが、モンゴル人ママたちは、日本の家庭料理をひらがなで紹介している「ひらがなレシピ」というサイトを見て、挑戦するのだと言います。
レシピが読めるなら、作れる――。それほど簡単ではないことは、ママたちの会話を聞いていて分かってきました。
この日の参加者は約10人。
まだスーパーの売り場にいるママは、カメラ越しに、みりんや、魚の種類など、必要な食材・調味料を確認して、買っています。
材料は「みりん」などと書くだけでなく、パッケージの写真も撮って、事前に共有していました。「調味料は似たようなボトルばかりで、特に難しい」
傍聴していた筆者に、スーパーで買い出し中のママから突然、質問が飛んできました。
「すみません。初めて食べるのに良い魚って何ですか?」
聞けば、モンゴルは海がない国。食事は肉料理が主で、魚は手に入りにくい食材だそうです。ライブ配信に参加したママたちの中には、魚を料理するのも、自分で買うのも初めて、という人もいました。
そこまでしてなぜ、魚料理を作ろうと思ったんですか?
私が聞き返すと、切実な答えが返ってきました。
「子どもが日本の給食を食べられるように、魚の味に慣れさせたいんです」
ライブ配信で、一緒に夕飯作りをしようと呼び掛けたのは、モンゴル出身で来日15年のザヤさんです。
日本で、2人の娘(16歳、13歳)を育て上げました。この日のライブ配信は、第三子の出産を控えた中で、企画。
献立に、積極的に魚料理を取り入れるようにしたのも、「生まれてくる3番目の子には魚好きになってほしい」との目標があったからでした。
ザヤさんは日本に来る前、魚を食べた回数は「たぶん2回くらい」と、魚料理の初心者。
日本に来た当初は、もちろん魚料理は作れませんでした。
作るのは、モンゴルの肉料理。
長女の離乳食も、モンゴル流に、細かくしたお肉を小麦粉と混ぜて、塩で味付けしたもの。
離乳食をあげている間、長女はおなかを壊しがちでした。もし、モンゴルだったら、周りに家族や友人がいて、相談できましたが、日本では夫以外に頼れる人がいませんでした。
「すごく悩んでいたんですけど、相談できる人がいなかった」
夫が仕事に行っている間は、家で娘と2人きりでした。
日本のスーパーに行けば、たくさんのレトルトの離乳食が並んでいました。でも、それが何かはわからず、理解できない情報が溢れる売り場は「恐怖でしかなかった」と言います。
12年前の日記をめくると、当時の孤独がよみがえってきます。
「子どもを連れて、公園に行くこともできない。ほかの子と遊べない子どもたちはかわいそう。申し訳ない」
公衆電話でモンゴルの母に、泣きながら電話しました。1000円のテレホンカードを買って、通話できるのはたった4分。「もう、帰りたい」と訴えるだけで、4分は過ぎてしまいます。母は「自分で決めたんでしょ」とぴしゃり。
当時の自分を振り返って、ザヤさんは「主人のことが大好きだからここまで来れたなあと思います」と笑います。
ザヤさんが食生活に危機感を覚えたのは、娘が幼稚園に入ったときでした。
肉料理ばかり食べていた長女は、野菜や魚が苦手でした。幼稚園の先生から「給食を全部食べられていない」と聞きました。
決定的だったのは、幼稚園にお弁当を持っていく日。
ザヤさんは、皮から手作りした定番の家庭料理「ボーズ(小籠包のような料理)」を6つ、弁当箱に詰めて娘に持たせました。
すると帰宅した娘はしょげ返り、「みんなのお弁当箱には、いろんなものが入っていた。とても恥ずかしかった」と訴えられました。
子どもが「周りと違ってしまう」ことが、自分自身が恥をかく以上に、つらく思いました。
それからは、弁当の要領が分かっている日本人の夫が、弁当作りをやってくれました。
日本人の夫の実家に行くと、醤油にみりんにお酢…、台所に並ぶボトル入りの調味料の多さに驚きました。
モンゴルの味付けは、塩が基本。
手間のかかる料理を1品作るモンゴル料理。
一方の日本の家庭料理は、品数を多く作って複数の皿が並びます。
姑の料理の手早さは魔法のようでした。
「たくさんの調味料を使って、いろんな味付けができる。楽しい料理風景でした。毎日、違う料理が出てくるのも、すごく不思議でした」
和食の家庭料理に、あこがれるようになりました。
初めてザヤさんが作った魚の照り焼き。
「おかわり!」。食べ終わった娘たちが声を上げました。
ザヤさんは「魚が食べられるんだ」と驚きました。自分が魚料理を作らなかった間にも、娘たちは日本の学校に通いながら、いつの間にか日本の食文化に適応していました。
それでも長女は、時々、「ママのボーズ(小籠包)が食べたい」とリクエストしてきます。ザヤさんは理由を聞かなくてもピンと来ます。
何か落ち込むことがあった時、娘たちはモンゴル料理が食べたくなる。
「それは、とってもうれしいことなので、張り切ってたくさん作ってあげるんです」
異なる文化で育ってきた親たちは、子育てを通じて、日本の文化に突然、深く関わることになります。
自治体では、外国にルーツのある親たちに向けた、分かりやすい情報提供を進めています。
食事は特に、命に直結する問題。
「離乳食」というテーマを、多言語にしている自治体があります。
約70カ国にルーツのある人が暮らしている神奈川県大和市です。
乳幼児健診で配布するパンフレットを、日本語だけでなく、ベトナム語やタガログ語など5つの言語に訳して、ホームページでも無料で公開しています。
乳幼児健診は、普段は見えない家庭内のSOSを、行政が察知できる、重要な機会です。
ザヤさんが悩んだ「離乳食」もその一つの切り口。
離乳食には出身国でさまざまな違いが出ます。
大和市の健診担当の栄養士は「いろいろな国の文化があり、日本のやり方を押しつけることはしていません」と話します。
一方で、発育不良などの相談をきっかけに話を聞いていくと、周りに相談できる人がいなくて、孤立している母親たちの様子も浮かび上がると言います。
離乳食を窓口に、さらに幅広い子育ての相談を受けるきっかけを作りたいと期待しています。
大和市ではベトナム語で母親教室をやるなど、早いうちから孤立を防ぐための取り組みも進めていると言います。
日本の食文化について意見を募集すると、こんな言葉が寄せられました。
信仰上、アルコールや豚肉など口にできないものがあるイスラム教徒からは、「困ったことは数え切れないが、コンビニで『ツナマヨ』のおにぎりを買おうとした時、材料を見ると『豚肉』が入っていた。なぜ『ツナマヨ』に豚肉を入れるのだろうかと驚いた」。
商品名からは想像もできない原材料。「全ての原材料を正直に表示しているのは、日本の素晴らしいところ」とも評価します。一方で、別のムスリムからは「日本で初めて覚えた漢字は『豚』」というほど、一つの商品を手に取るにも気が抜けないようです。
食事風景についての異文化経験を、別の女性が話してくれました。
「私の国では、一つの皿でスープもおかずもご飯も食べます。日本の友人を家に招いて食事を振る舞ったとき、その光景に驚かれました」
女性の母国では、指でご飯を食べる習慣もある中で、「このときはスプーンにしておいて、良かった。指だったら、もっと驚かれただろうから」。
意外な「おもてなし」にショックを受けたエピソードも寄せられました。「『おどり食い』。新鮮なうちに食べたいという気持ちは分かりますが、生きたまま食べるなんて……」
信仰上、生きたまま食べることを禁じている宗教もあります。「日本で、自分の考え方が当てはまらないのも、十分理解しています」と、日本社会に歩み寄る大切さについても触れながら、おどり食いを目にした衝撃を語りました。
日本には約300万人の外国人が住んでいます。そして、出身国は年々多様になっています。
海外の輸入食材はスーパーやインターネット通販でも手に入るようになり、食の選択肢は、広がっています。
筆者は、日本の家庭料理の勉強会をのぞいた当初、「なぜそこまでして、和食を?」と不思議に思っていました。
慣れない食材、調味料、調理器具を使って、異国の味を日々作る大変さは想像できました。
それでも、ママたちの話を聞いて、そこに込められた「覚悟」を感じました。
ママたちが向き合っていたのは、一時の離乳食や、弁当作りだけではなく、これからも暮らして行く日本社会そのものに思えました。
ママたちのすごいところは、異文化の不自由さを、楽しみに転換しているところでした。
「せっかく日本に来たんだから」
ママたちから、何度も出たこの言葉。違いを楽しむことで、自分のパワーに変えようとしている、強さを感じました。
一方で、取材をしながら、私たち日本側は合わせてもらっているだけでいいんだろうか?とも考えました。
小籠包だけが詰められたお弁当を持ってきた女の子。「ほかの子と違うから恥ずかしい」と、弁当を隠さなければいけない空気が、もし教室にあるとしたら、それはほかの誰かも苦しめている空気なのかもしれません。
異なる文化から来た人が感じた「生きづらさ」から日本を見つめることは、国籍に関わらず、いろいろな人の生きやすい社会を考えることになる気がします。
食事はアレルギーなど命にかかわる事情も内在しています。合わせてもらうことが当たり前になってしまうと、有事に「配慮はできない」からと、誰かを「門前払い」してしまう事にもつながります。
多様なことは不自由なことではない。「せっかく多様な隣人がいるんだから」、そう教えてくれた人たちと一緒に、誰にとっても暮らしやすい社会をつくっていけたらと思います。
1/8枚