話題
元消防官が明かす「すべり棒」のホント 出動シーンは過去のもの?
寝てても訓練中でも「1分で出動」の鉄則
時折、見かける交差点を猛スピードで走り抜けていく消防車ですが、中の人たちは、普段、どんな生活をしているのでしょうか? 火災や救急の現場で命と向き合う仕事は、外からうかがい知ることのできないプロフェッショナルな技術と心構えによって成り立っています。そんな消防のトリビアを、元消防官だった記者が経験談を交えて解説します。初回は……つぎつぎに「すべり棒」を伝って車庫に下り立つ、あの有名な出動シーンの「今昔」です。(元消防官の朝日新聞記者・仲程雄平)
レスキュー隊員に憧れていた私は、高校を卒業して消防官になりました。2002年に東京消防庁に入庁し、2010年春まで東京都北区の滝野川消防署で勤務しました。
その間に青山学院大学文学部第二部の英米文学科(夜間部、現在は募集停止)で学び、文章の魅力に取り憑かれた私は、お世話になった東京消防庁から飛び出し、見聞を広め、ペンで食べていきたいと考えるようになり、2010年春、新聞社に転職するために東京消防庁を退職しました。その後、2011年春に朝日新聞社に入社しました。
消防の仕事を離れてからよく聞かれるのが次の質問です。
「消防士って出動のとき、しゅるしゅるーって下りていくんでしょ?」
それは、あまりに有名なシーンです。思い浮かべるのは、映画「バックドラフト」(古い?)でしょうか……。
消防署内に響く出動指令。「すべり棒」を伝って、つぎつぎに車庫に下り立つ消防官たち―思わず胸が高ぶるシーンです。
ちなみに、東京消防庁の場合、出動ではなく「出場」と言いますが、なじみが薄いと思いますので、ここでは「出動」を使います。これもちなみにですが、「消防士」というのは階級(消防士→消防副士長→消防士長……)を指しますので、私は意識して、「消防官」や「消防吏員」という言葉を使うようにしています。
それはさておき、出動シーンの話です。
皆さんが、いま思い浮かべている出動シーンは、実際にそうでした。
「そうでした」からも分かるように、私が勤めていた消防署の「すべり棒」は私の在職中に撤去されましたから、「過去の話」となっています。
滝野川消防署は1階に車庫、2階に事務室、3階に仮眠室や食堂があり、その上に職員の家族寮が載っている、という庁舎です。
細かい話ですが、裏庭には、第5方面(東京消防庁管内は1~10方面に分けられています)の訓練場があります。
「すべり棒」は、2階事務室の端に設置されていました。事務室には不釣り合いな鉄扉を引くと、床に四角い穴のあいた狭い空間があり、天井から車庫へと伸びる1本のシルバーのポールがありました。
それが、「すべり棒」です。
「すべり棒」を下りたところには、はしご車が止まっていました。
気分としては、公衆電話に駆け込むスーパーマン(古い?)をイメージしてもらえばいいか、と思います。スイッチが入るわけです。「すべり棒」を使って出動し、サイレンを吹鳴させる車内で現場を見据える―あのときの緊張感は忘れることができません。
当時、私の自席は「すべり棒」のそばにある消防係にあり、はしご隊員だったときもありましたから、この「すべり棒」が便利で便利で、出動時に限らず愛用していました。扉を開けてポールにしがみつけば、すぐに1階に下りられますから、何度も言いますが、それは便利です。
が、私にとっては便利な「すべり棒」でも、ほかの隊員にとっては違います。車両の駐車位置によっては、「すべり棒」を使うことによって、逆にタイムロスになってしまうからです。
「1分」
これは、出動指令がかかって、防火衣や空気呼吸器などを着装して車両に乗り込み、車両が出庫するまでにかけていい、とされている時間です。
つまり、「1分以内に出動せよ」ということです。裏庭で訓練をしていようと、事務室で仕事をしていようと、3階の仮眠室で寝ていようと―いかなる状況に置かれていようと、「1分以内に出動せよ」ということなんです。
想像するだけでも大変ですが、火災は刻一刻と成長しますから、当然のことです。いや、火災に限らず、救急でも救助でも時間が経てば経つだけ、状況は悪化します。ですから、常日頃、この場所で出動指令がかかったら、と考えながら行動していました。
話を戻しますが、そもそも、出動指令がかかったときに、いつも「すべり棒」のそばにいるわけではありません。むしろ、いないことの方が多いです。
ということから、出動時によく使うのは、「すべり棒」ではなく、誰もが使う普通の「階段」なんです。
そうです。2階や3階にいた場合、みんなで一斉にダダーッと駆け下りるんです。踊り場で手すりをつかんで、グルッと回って、またダダーッと駆け下りるんです。出動指令の内容を耳に入れながら、です。
実際、「すべり棒」は、すでに珍しいものになっているようです。
東京消防庁管内に消防署は81署あります。本庁で働く、元同僚の男性消防官は「すべり棒」について、「もうないんじゃないですか。あるなんて話は聞いたことないですね」と言います。
京都府南部にある消防本部はこの春、庁舎を建て替えたのですが、新庁舎では「すべり棒」をなくしたそうです。というのも、私の弟がここの消防官なんです。「すべり棒」をなくした理由を聞くと、弟はさらっと言いました。
「階段の方が早いやん。『すべり棒』は危ないし」
それだけで言い尽くされているような気もしますが、全国の消防を統括する総務省消防庁にも聞いてみました。
消防・救急課の担当者は「『すべり棒』を含む消防署の中の仕様・様式については、市町村消防に任せている」と言いました。現況調査もしていないため、「すべり棒」が減っているのかどうかも「分からない」ということでした。
……あまりに素っ気ない回答と思いきや、担当者は「公式見解ではないですが……」と前置きして、「(現場のことを知っている)消防吏員に聞いたら、『すべり棒』はなくなってきているという認識だ、と言っていました。ケガが多いことから、少なくなってきているんじゃないか、ということでした」と答えてくれました。
「すべり棒」が普及した経緯も「分からない」ということでしたが、担当者は「訓練を兼ねてか……」「スピードを重視していたのか……」などと推察していました。
いつの間にか絶滅危惧種となった「すべり棒」ですが、今でも必ずと言っていいほど聞かれてしまうのは、現場へ素早く駆けつけるという消防の仕事を象徴しているからに他ありません。
たとえ、すべての消防署から「すべり棒」がなくなったとしても、あの「1分」の緊張感の中で仕事をする使命感は変わることはないでしょう。
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