連載
#56 コミチ漫画コラボ
先生に突き返された画用紙「オレンジ色のぞう」描いた反抗期マンガに
芸術に正解はありません。
小学校3年生の少年が、校外学習で動物園にスケッチ遠足に行ったときのことです。少年は象を描きました。目の前の象は「ねずみ色」です。しかし、少年の画用紙に表れた象は、「オレンジ色」。少年は振り返ります。
「別にねずみ色の絵具がなかったわけでないし…夕日に照らされていたわけではないのに」
「無性にオレンジ色で塗りたかった…」
絵を先生に提出すると、「もっとよく観察してごらん」と返されました。むきになってそのまま提出した少年。保健室で「色覚テスト」をさせられましたが、結果は「問題なし」。納得いかない様子で帰路に就きました。顔は真っ赤っか。まるでタコのようです。
当時、なぜ無性に「オレンジのぞう」にこだわったのか。その答えは、大人になり、商店街を歩いていて突然わかるときが来たのでした。
筑濱さんは、妻・和子さんとの漫画家ユニット「筑濱カズコ」(@chittukun)として大阪を拠点に活動しています。マンガ「オレンジ色のぞう」は、筑濱さんの経験が基になっています。
小さいころから絵を描くことが好きだったという筑濱さん。描くとみんながほめてくれました。しかし、小学校3年生のとき、先生が初めてほめてくれなかったのがこの「オレンジ色のぞう」です。
「それまでも自由に描いていましたが、先生から指導されることはありませんでした。先生に『象はオレンジじゃないよ』と言われ、少しむっとしたんです。マンガのように差し戻したんですが、思い起こせば、社会や学校に対する初めての反抗だったかもしれません。しばらく納得がいきませんでした」
当時を振り返り、「自意識が芽生えたのではないか」と話す筑濱さん。内面が育ち始め、自身と社会とのあり方を考えるようになったそうです。
マンガでは薬局の前にいる「オレンジ色のぞう」が謎を解いてくれますが、筑濱さんにはそれ以前に印象に残っている場面があると言います。
幼いとき小児ぜんそくで、ちょうど小学校3年生まで市民病院に通っていた筑濱さん。注射を打たれる時間は恐怖の時間でした。
「自分なりの解決方法として、針を打たれる瞬間に横を向くわけです。目をやった先に、サトちゃん(佐藤製薬のキャラクター)の人形があり、『オレンジ色のぞう』からパワーをもらっていました。恐怖の中で、『オレンジ色のぞう』を見るとリラックスできたことが頭の中に残っていたのだと思います」
「後付けかも知れませんが、象を無性にオレンジ色に塗りたかったのは、印象派の画家たちが自由な色彩で個性を出したのと同じような気持ちだったのかもしれません」
一方で、子どもながらに葛藤もありました。
「先生は嫌いではないし、先生の言う通りにやったほうがいいのかなとも思いました。でも、自分にうそをついてはダメだという気持ちもありました。なぜオレンジ色に塗りたかったのか当時はわかりませんでしたが、先生の言う通りに色を塗り替えるのは違うんじゃないかなと思っていました」
「先生はおそらく、きちんと観察して正しく色を塗ることを指導するように言われていたと思いますが、子どもに先生の都合は全く分かりません。先生は絶対直せというわけではありませんでしたが、世の中にはそう考える人がいると学びました。色に関しては、考えれば考えるほど様々な視点や考え方があるんじゃないかと思い、マンガで表現しました」
「色の付け方は、間違いではない時代が必ず来る」。筑濱さんは当時の自分にそう伝えたいと言います。「今は先生に指摘されても、その時代のこととして受け止めて。自分の考え方を合わせてしまうのはおもしろくない」。そう考える背景には、1970年の大阪万博があります。
近くに住んでいた筑濱さんは、開会式から閉会式まで11回訪れ、太陽の塔やパビリオンを間近で見ました。全てが新鮮で、印象的な体験です。大人たちの反応からも感じたことがありました。
「大人が、太陽の塔を見て『何を表現しているかわからない』というわけです。パビリオンを見た大人が驚いている様子を見て、『大人にもわからないんだな』と心の中で思いました」
芸術に正解はありません。子どもながらに「相手は相手の感じ方だし、自分は自分の考え方でいい」と悟ったそうです。
マンガの最後で「ぞうはねずみ色よ」と言った女性は、「現実的な人」として描きました。先生と同じように、正面から常識を示す存在です。「これも一つの現実だと思いますし、先生の言うように修正して描くやり方もあるというメッセージも込めました。芸術家や漫画家など、現実への疑問を呈する方もいます。僕もそんな作品を描きたかった。人間って、反抗することによって成長していくのだと思います」
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