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志村けんとの7年、川上麻衣子が見た素顔「心許せる人と深めた笑い」
「家族が欲しい。でも1人になりたい」コントへのこだわりと矛盾
2020年3月、国民的なコメディアン・志村けんさんが、新型コロナウイルスによる肺炎で急逝した。2月に古希(70歳)を迎えたばかりの突然の死。誰もがあらためてその偉大さを痛感した。そんな志村さんの人となりをよく知る人物の一人が、女優・川上麻衣子さん(54)だ。1996年10月からスタートした深夜バラエティー『志村X』シリーズ、および後続番組『変なおじさんTV』(ともにフジ系)の途中まで約7年に渡って共演。ちょうどゴールデンから撤退し、しばらくしてトークバラエティーに顔を見せた時期と重なっている。当時、志村さんはどんな思いでコントに向き合っていたのだろうか? 昭和・平成・令和と、独自の笑いを追求し続けた「喜劇役者の素顔」について話を聞いた。(ライター・鈴木旭)
川上麻衣子(かわかみ・まいこ)
――川上さんが30歳の頃に、女優の故・可愛かずみさんを介して志村さんと出会ったそうですね。志村さんの最初の印象ってどんな感じでしたか?
当時、私がかずみちゃんと同じマンションに住んでいて。ある日、かずみちゃんが「今日、師匠(可愛さんが呼んでいた志村さんのニックネーム。後に川上さんもそう呼ぶようになった)と会うんだ」「今日から犬飼うみたいで連れてくるらしいよ。一緒に会おうよ」って言ってきたんです。
かずみちゃんは自分の部屋に人を入れるのが好きじゃないタイプで、「麻衣子ん家行ってもいい?」ってお願いされたから「別にいいよ」ってOKしたけど、内心は「えー、志村さんがくるの!?」と戸惑いもあって(笑)。
最初は緊張しつつ、「はじめまして……」みたいな感じでご挨拶(あいさつ)したんですけど、ふと見たら胸元にゴールデンレトリバーの子犬を抱えていて。後の愛犬・ジョンなんですけど、当時は本当にちっちゃくてかわいかったんです。師匠も私も人見知りなので、あまり面と向かって話はできなかったんですけど、お酒を飲みながら犬を介してちょっと会話してって感じでした。
――シャイ同士だと犬がいると助かったりしますよね。しばらくして、『志村X』のお誘いがあった時はどんなお気持ちでしたか?
師匠から「お芝居だけどコントの要素があるものをやりたいから、芸人さんじゃなく女優さんに手伝って欲しい」って言われたんです。結局、私はコントの道へズルズル引き込まれて、7年ぐらいやらせてもらったんですけど(笑)。やっぱり、師匠がうれしそうな顔で笑ってくれたりすると、私もうれしかったんですね。
それまでの私は、シリアスなドラマに出ることが多くて、ぜんぜんそういう畑じゃなかった。ただ、もともとコメディーにはすごい興味があったので、すごくやりたかったんです。そういう意味で、師匠との時間は本当に勉強になりました。
――『志村X』は、志村さんの番組がゴールデンから撤退してスタートした深夜バラエティーです。世間で「志村けんが死んだ」といううわさが出た時期でもあります。
スポーツ紙に出るって話があった日に、実は師匠と2人でご飯食べてたんですよ。事務所から電話がきたっていうので、師匠が一度席を立って戻ってきたら早々に「なんかオレ、死んだみたいだよ」って言うんです。私もよく分からなくて「え~!?」って驚いて(笑)。
当時の師匠は、自分の番組以外にはまったく出ていなかったので、世間の人からすると私生活が謎だったんでしょうね。本人はその時期を低迷とは考えてなかったと思いますよ。
それまでが忙し過ぎたから、逆に好きなことがゆっくりできるという感じで捉えていたんじゃないですかね。私とお仕事している頃から、「旗揚げして舞台をやるのが夢だ」っていうのはおっしゃっていましたから。
――そこは世間と温度差があったのかもしれませんね。志村さんは、バラエティー番組の主流がコントから企画モノに移っていった時代をどう見られていたんですかね?
基本的に師匠は、行き当たりばったりのものは嫌いで、つくり込んだものが好きでした。しかも、自分が信頼できるスタッフや共演者としかつくらないっていう。ただ、ある時からガラッと変わりましたね。いろんなバラエティーに出るようになって、そこから本当に忙しくなりました。
――視聴者目線からすると、ナインティナイン・岡村隆史さんが「アイーン!」をやっていたのがきっかけだったように思うのですが、川上さんはどう思われますか?
もともと仲のよかった(ビート)たけしさんから、師匠が東スポで賞をもらったことがありましたよね(1997年の「第6回 東京スポーツ映画大賞」で特別賞を受賞)。その頃は、まだトークバラエティーに出る前。たけしさんが「コントを追求し続ける最後の芸人だ」と評価されたあたりから、またクローズアップされたのかなという印象はあります。
当時は「カリスマ的な存在」としてゲストに呼ばれるような感じだったと思うんですけど、実際に出てみたら意外と師匠も楽しかったんじゃないですかね。若い芸人さんと話したりとか、いろんな出会いがあったりして。
――1999年に公開の『鉄道員』で、志村さんは役者として映画スターの故・高倉健さんと共演されています。ちょうど『志村X』シリーズの放送時期と重なりますが、オファーを受けた際の心境など、なにか伺っていますか?
ちょうどよく飲んでる時だったので、師匠から「オレ、やっても大丈夫なのかな?」って相談されたんです。びっくりして「当たり前ですよ! 絶対やらなきゃダメ!!」って(笑)。
でも、本人はぜんぜん自信がなかったみたいで「どうすりゃいいの。現場も知らないし」と言うので、私も熱くなって随分と説得した記憶があります。
もちろん自身の中では出るって決められていたのでしょうけど、私とかに話をすることで現場の雰囲気などを聞きたかったのかもしれませんね。
――気後れしている志村さんの表情が浮かぶお話ですね(笑)。ちなみに、志村さんがトークバラエティーでよく話していた「携帯電話の留守電に入った高倉健さんからのメッセージ」はお聞きになりましたか?
聞いたかな……。ただ、映画の現場ことをすごくうれしそうに口にしてましたね。「撮影の時にコーヒー入れてもらったんだ」とか、楽屋でどうしてくれたとか、ずっと健さんの話をされてましたよ。
――1989年からだいじょうぶだぁファミリーで舞台もやっていましたが、4年で打ち切りになっています。そういう流れもあったのか、『志村X』は舞台に向けたコントにシフトしていた気もします。
藤山寛美さんが好きでしたから、悲喜劇をやりたい、という意味では『志村X』もそういう考えがあったのかもしれないですね。ただ、スタジオコントよりも、生の舞台が師匠はずっと好きだったみたいです。
飲んだりしてる時は、お笑いの根本的な考え方みたいなことを真剣に話してくださいました。覚えてるのは、師匠が酔っ払い役をやる時の演じ方について語ってくれたこと。
台本には「電柱でつまずく」ぐらいしか書かれていないんですけど、お笑いにするには「その人が会社でなにがあったのか」「なんでこうなったか」を考えないと面白くならない。「人は酔っている姿を見ただけじゃ面白いとは思わない」っておっしゃっていたのが印象的でした。コントの奥深さをたくさん教わりました。
――「喜劇役者」という言葉がしっくりくるエピソードですね。志村さんの著書『変なおじさん』の中で、「コントは、やってる連中同士が仲よくないとできない」と書かれていましたが、オフの関係性こそコントにいきるという考え方が強かったんでしょうか?
そういう気心知れている人とじゃないと、できないタイプだったとは思いますね。「はじめまして」というところから、できるような人ではないので。
『志村X』でも時間が経つにつれて、「この人になにをさせればこうなる」というのが見えてくるんでしょうね。ネタも、だんだん循環してくるんですよ。前にやったような流れのコントだなとか。そんな時、師匠の好き嫌いがはっきりと分かった気がします。
師匠はそんなにいろんな人と仕事をしなかったように、本当に信用して心を許せるような関係性の中でコントをつくっていたように思います。限られた人たちとの中でしか、深め合えない笑いだったんじゃないですかね。
――故・太地喜和子さん、柄本明さんなど、そうそうたる名優が志村さんの大ファンだったことで知られていますが、川上さんはどんなところに志村さんのすごさを感じましたか?
師匠が納得してつくり上げる世界って、「わー面白いな」とか「腹抱えて笑う」という感じではなかったですね。どちらかと言うと、ちょっと寂しげでちょっと暗い感じもするんですけど……ただ、その大元の世界観をつくって、ご本人が立って演じるっていう師匠の力は、ものすごいものがあると感じました。
一緒に飲んでいた時に、過去のコントの話をしてくれたことがあるんですけど、「ブラインドの影をどうするか」とか「音楽は切ないのを使って、ここで落として」とか、そういう演出まで含めて考えるのが好きでしたね。
――『志村X』シリーズでは、そういったこだわりを感じるところはありましたか?
基本的には台本を渡されるんですけど、本番の収録日の、前の週に1回出演者全員で集まるんですよ。会議室でシーンとしながら、いつ終わるか分からない感じが2時間ぐらい。
一応台本はあるんですけど、師匠がもっと練りたいっていう思いが強かったんでしょうね。師匠が「う~ん……」ってうなりながら、私たちに「なんか面白いことあった?」とか聞くんです。みんなとくになにを言うでもなく、またシーンって感じでしたよ、ずっと。
最終的に師匠が「じゃこんな感じで」って言うと終わりになって、ご飯を食べに行くという流れでしたね。あとで聞いたら、ドリフの会議でもそうだったそうで。だから、師匠にとっては普通だったんでしょうけど、私たちはもう本当にウワァ~って緊張の時間でした。
――ドリフのつくり方を深夜番組でも継続していたのはすごいですね! 志村さんってプライベートでもコントでも、ファミリーを軸に生きた人だと思うんです。『8時だョ!全員集合』から『となりのシムラ』まで、一貫して家族モノのコントが多いですよね。
ご自身が家族を持たなかったですからね。自分が成し得なかったものを反映するほうが考えやすかったという気もします。家族を一歩引いて見ていたから、その面白さを描けたのかもしれないって。でも、本人は家族がすごく欲しかったのかもしれないし、それは分からないですけど。
師匠って、閉ざしてしまうと本当に閉ざす印象があるんですよね。私なんかでも、「あ、今日は入り込めないな」っていう壁みたいなものを感じることは何度もありました。そういうクールさみたいなものを含めて、師匠の独特の雰囲気なんですよね。
矛盾はいっぱいあったんだと思います。「家族が欲しい。でも1人になりたい」みたいな気持ちとか。それとは別に、師匠はロマンチストなんですよ。すごく二枚目だったし、そういう部分が根本にはあるのかもしれないですね。
――2006年からスタートした舞台「志村魂」に川上さんは出演していません。すごく意外だったんですが、お誘いはなかったですか?
出たかったですね。地方公演も含めて、私がお客さんとして見に行くことは多かったんですけどね。「また一緒にやろうね」って言ってくださっていたので、実現できなくなってしまい本当に残念です。
最後にお会いしたのが、今から8カ月ぐらい前。私のセレクトショップが谷中(東京都台東区)にあるんですけど、師匠があの辺を散策する番組のロケでお店をのぞいてくれて。それっきりになってしまいましたね。
――それは悔やまれますね……。最後に、残念ながら亡くなってしまった志村さんに、なにか思うところ、伝えたいことがあれば伺えますか?
まだ実感がなくて。悲しみがあんまりこないんですよ、不思議と。コロナの危機感っていうのが、師匠からはじまったようなところがあって、すごく長い夢を見ているような感じ。「あれ? いつ師匠出てくるのかな」って思ってしまうというか。
もし魂があって、向こうで師匠が見てるんだとしたら「いや、参ったよ」「なんだかなぁ……きちゃったよ」って言ってる気もするし、その半面で「まぁしょうがないか」って言ってる感じもするんですよ。もしかすると、「意外によかっただろ」って言ってるかもしれないですね。師匠の芸は残ってますから。そう考えると、ある意味で格好いい終わり方だったのかなと思うこともあります。
私は子どもの頃、ドリフの公演に行けなかったクチなんですよ。だから、ずっとあこがれていて「志村魂」を見た時に「あ、これだ!」ってすごくうれしかった。昔と変わらず、今の子どもたちも「志村、後ろー!」って言うんですよ(笑)。師匠は言葉のいらないコントが好きで、世界に通じるようなお笑いをまっとうされたと思います。
映画も見たかったですね。NHKの『エール』も素敵でしたものね、余計なことしないからこその存在感があって。後半は、今までと違う人生が見られたかもしれないですね。もっともっと役者の師匠も見たかったな。
川上さんの口から「本人はその時期(ゴールデンから撤退した数年)を低迷とは考えてなかったと思いますよ」と聞いて、私は胸をなで下ろした。冷静になれば志村さんの著書『変なおじさん』(日経BP社)にも、「視聴率競争とかには関心がなかった」と書いている。はじめから本人は、テレビスターに興味などなかったのだ。
とはいえ、コントづくりには共演者とのチームワークを重視していて、「お互いが気をつかわない関係になるには時間がかかる」とも記している。そんな志村さんの思いとは裏腹に、番組が半年足らずで打ち切られたこともあった。テレビでコントを続ける難しさに骨を折ったことは間違いないだろう。
幼少期に大笑いし、思春期で一度離れ、大人になって改めてその偉大さに気づく。それが志村さんの笑いだ。人前に見せるのが気恥ずかしくなる、シャイでひょうきんな父親のように、振り返れば「当たり前にいる」という安心感があった。多くの人が志村さんの悲報に涙したのは、そんな「近しい存在であること」をまっとうしたからだと思う。
現時点でも志村さんは、NHK連続テレビ小説『エール』で役者としての新たな一面を見せている最中だ。川上さんだけでなく、誰もが亡くなったことを実感できないのは当然だろう。追悼番組で高木ブーさんが語ったように、まだテレビでは本当に志村さんが「ずっと生きている」のだから。
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