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「死の鉄道」に全てを注ぐ男 「敵」だった元日本兵の心も動かす
「歴史」ときくと年号や人名の暗記が思い浮かび、重たい気分になる人も多いと思います。さらに「戦争」が加わるといろいろややこしそう。しかし、タイ中部に、その戦争の歴史を掘り起こすのにお金や時間、人生の全てを費やすオーストラリア人男性がいます。なぜそこまでするのか。彼は、「歴史が人に与える力を見たからだ」と言います。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太)
アカデミー賞をとった映画「戦場にかける橋」をご存じですか。
戦時中、日本軍が現地の人や連合国軍捕虜を使ってつくった、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道を描いた作品です。
ロッド・ビーティーさん(71)が人生をかけるのは、この泰緬鉄道の歴史です。
ビーティーさんの1日は、パソコンに向かうことから始まります。
イギリスやオランダ、オーストラリア、日本から集めた資料を元に、泰緬鉄道建設にたずさわった捕虜一人一人の記録をエクセルに入力するためです。
記録には生年月日、出生地からどこで捕虜になり、どう移動し、亡くなった日や死因、埋葬された場所まで全て入っています。
「25年で記録は10万6千人分を超えました。最近は目が疲れてしょうがない」と苦笑い。優しそうな笑顔が印象的です。
伯父らを戦争で亡くしたビーティーさん。オーストラリアでは6年間、陸軍予備役を経験しましたが、「別に戦争の歴史に深く興味があったわけではないんです」と言います。
転機は1993年、当時やっていた宝石の取引でタイを訪れたことでした。
たまたま次の年、オーストラリアの首相が、タイ中部カンチャナブリの泰緬鉄道の建設現場を訪れることから、友人に「式典の手伝いをしてくれないか」と頼まれました。
泰緬鉄道とはどんなものなのでしょう。
戦時中、ビルマを占領した日本が、インドにいるイギリス軍を攻めようと立てた「インパール作戦」を知っている人は多いと思います。
この作戦のためには、ビルマに大量の物資を運ばなければなりません。そこで、タイを拠点にする案が練られました。
タイは当時、日本の「同盟国」だったので、可能だったのです。
全長約400キロ。実はイギリス軍も以前計画したものの、「建設に何年もかかる」として見送った経緯もあります。
日本軍はイギリス、オーストラリア、オランダなど連合国軍の捕虜約6万人、現地労働者約20万人を動員し、1942年9月に建設を開始。なんと1年4カ月ほどで完成させました。
横浜市立大の柿崎一郎教授は、「日本にはもともと、中国や朝鮮半島で鉄道敷設経験があり、技術もあったが、人海戦術で大量の労働力を投入したことが短期間の完成の理由といえる」と説明します。
過酷な労働で少なくとも数万人が亡くなり、「死の鉄道」とも呼ばれました。戦後、連合国軍側から日本の残虐性を示す象徴として使われています。
特に、高さ10メートルほどの垂直の断崖で建設中に多くが犠牲になった「ヘルファイア・パス」にはオーストラリア政府が、いかに労働が過酷だったかを説明する博物館を建て、多くの欧米人が訪れています。
さて、ビーティーさんは首相来訪に向けて記念碑づくりの手伝いをしました。
その中で捕虜の生存者に話を聴き、この鉄道がいかに自分たちの国にとって重要なものだったかに気づきます。
次第に資料を読み込んだり、当時を知っている人に話を聴いたりして、歴史にのめり込むようになりました。
その活動を知ったオーストラリア政府などがつくる団体から、カンチャナブリにある約7千人の捕虜らが眠る「英連邦墓地」の管理を任されました。
当時の事で、「今でも忘れられない光景がある」と、ビーティーさんはいいます。
1995年10月ごろ。ある朝のことでした。80代くらいの男性が、息子に両脇を支えられながらこの墓地を訪れました。
「亡くなった友人の墓に手を合わせたい」。男性自身も捕虜として建設作業をしたといいます。「でも、場所が思い出せないんだ」
ビーティーさんは男性に、どこで捕虜になり、どのくらい移動して建設現場に行ったかを尋ね、それをもとに建設キャンプの場所を探し当てました。
すぐに現場に向かうことにしました。
うっそうとしたジャングルの中、草をかき分けると、今でも線路の跡がわずかに見えます。
突然、男性は息子の腕を振り払い、一人で一歩一歩、しっかりした足取りで歩き、「私は確かにここにいた。今、23歳のあのときのようだ」とつぶやいたといいます。
「これが、歴史の力だ」。ビーティーさんはそう感じました。
「犠牲者数万人」というデータではなく、一人一人が人生のストーリーを持っている。「それを掘り起こして伝えられないか」
それ以来、ビーティーさんは各国政府などに掛け合って泰緬鉄道建設に参加した人のデータをかき集めます。
実は、日本軍も捕虜1人ずつに克明な記録を残していました。それを照合し、それぞれの人生をたどります。
自分でジャングルにも入り、遺品もさがしました。鍋の一部、壊れたラジオ、爆弾の破片。
「政府が発表する『歴史』に疑問を感じていた」とビーティーさんは話します。
調査をする中で、それまで「定説」とされていたことが覆ることもありました。
例えば、ヘルファイア・パスでは、オーストラリア政府は当初、日本軍の暴行でオーストラリア人捕虜60人ほどが死亡したとしていました。
しかし、ビーティーさんがその全ての人について記録をたどったところ、実は死因は病死などで、「暴行死」は一人もいませんでした。
「私がするのは、日本人の悪事を証明するのではなく、証拠に基づく事実をみつけることだ。真実は、勝者に都合のよいものばかりではない」と、ビーティーさんはいいます。
ビーティーさんの元には年間数十組の家族が訪れます。「私の祖父の最期を知りたい」という捕虜の子どもや孫たちです。
そのたびに丹念に資料をめくり、その人がどんな道を歩んだか、できる限り調べ、家族を連れていきます。
建設中に亡くなった祖父の作業現場を訪れ、「今日、家族としての祖父の存在を感じることができた」と涙を浮かべる人もいました。
「歴史は国や政府がつくるものではない。人間一人一人のストーリーが積み重なったものだ」
2003年、ビーティーさんは友人らと協力し、3年かけて博物館をつくります。
「自分で集めた、信頼できる情報に基づく博物館をつくりたかった。誰が悪い、どこに責任があると追求するものじゃない。戦争がいかに愚かな行為かわかってもらいたい」
記者も何度か博物館を訪れました。ビーティーさんがジャングルで拾った遺品、自分で描いた詳細な路線図とともに、過酷な労働の様子を人形で伝え、犠牲者の数も明示します。
その中に、日本語が刻まれた小さな石碑を見つけました。「これはレンイチがくれたものだ」とビーティーさんは言います。「彼は大切な日本の友人だ」
菅野廉一(れんいち)さん。鉄道連隊の中隊長として当時、建設の指揮を執っていました。
戦後、捕虜になりましたがその後帰国。タイから泰緬鉄道の機関車返還の活動を進めました。
今年で100歳の菅野さんは今、東京の養護施設にいます。高齢で長くしゃべるのは難しいということでしたが、何とかお願いして会ってもらうことにしました。
菅野さんとビーティーさんが出会ったのは、1999年、泰緬鉄道の日英合同慰霊祭。
自分で集めた機関車の部品などを見せながら突然話しかけてきたビーティーさんに「驚いた」と菅野さんは言います。
ビーティーさんは菅野さんに、自分がどんな活動をしてきたか、説明しました。
2年後、ビーティーさんは資料をめくり、菅野さんが戦時中にいた現場を突き止め、連れていきます。
菅野さんはその場所を見たとき、電気に打たれたようだったといいます。
自分の足で歴史をたどり、「真実」をさがし続けるビーティーさんを、菅野さんは「信頼できる人だ」と言います。
菅野さんは、持っていた建設当時の品のいくつかをビーティーさんの博物館のために寄付しました。
「捕虜の敵とされる日本側のレンイチが博物館に協力してくれたことは、ここが連合国軍側の一方的な主張の場所ではないと分かってもらえる大きな要素だ」とビーティーさんは言います。
しかし、ビーティーさんは、連合国側の人たちから「日本に好意的すぎる」という批判を浴びることもあります。
一方、博物館のノートには、来訪した日本人が、「日本の悪行を示すような偏った博物館に日本人は来るべきではない」と書いています。
今、ビーティーさんは家族をオーストラリアに残し、1人でカンチャナブリの博物館の近くに住んでいます。
遺族を案内する合間を縫ってデータ入力を続ける毎日。
批判を浴びてまで、なぜ歴史に全てを注ぎ込んだのか。
記者には理解しがたいものがありました。
「学校の授業で習う『出来事』ではない。その裏にはつらい思いをした多くの人の人生が積み重なっている。誰かの都合で一方的な物語にしてはいけない」とビーティーさんは言います。
なぜ、彼でなければいけないのか。
「その質問は、この人生で何度も考え、悩んだこと。でも、これは私にしかできないこと。歴史を前に感情を揺さぶられる人を見て、やめられるわけがない」
跡継ぎはいません。これから博物館は、捕虜の資料集めはどうするのか。
「目が見える限り、足が立つ限り続けたい。あと20年はやりたいんだけどなあ」と、ビーティーさんは少し遠くを見つめながら話してくれました。
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