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演歌の「伝統」ってまがいもの? 生き残り戦略が生んだ保守性
流行歌の一部が変容して生まれた演歌が、時代とともに「保守性」を帯び、いつの間にか「日本人の心」を代表する存在に。そんな演歌の「伝統」は、まがいものなのでしょうか?
今のJポップとも言える昭和初期の流行歌が変形した演歌。当初の「アウトロー」「重い情念」といった特徴から「伝統」「日本の心」へと変容し、保守性を帯びていきます。それが業界不況の中で、体制側への保護・振興を求めるようになり、今年3月23日には「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」が設立されるまでに。
この数奇な歴史を知ると、そもそも演歌がまとう「伝統」って何なんだろうという気がしてきます。
五木寛之さんの小説「艶歌」などによって1960年代後半に流行歌が再定義された行為や、今の議連が伝統をことさら強調する動きは、「伝統の意図的な創出」ともとれます。
ともすれば「演歌はまがいもの」「伝統を捏造するな」と議論を先に進めたくなってしまいます。偽りのアイデンティティーがはげ落ち、本性が現れた、といった調子で。
東京大学大学院の渡辺裕教授(文化資源学)にその辺りの話をうかがいました。
「まがいものだとか、偽の伝統だとかいった議論は、どこかで、自前の純粋な文化があると信じて疑わないからでしょう。けれども、文化というのは、時代ごとの人々のまなざしや、外部からの要素が入り込むことで、一つどころにとどまらず、絶えず姿を変え続けるものです」
演歌以外の音楽を例に挙げるとすれば、「唱歌」があります。
「故郷」「春の小川」など、今では日本人の心の原風景として親しまれている音楽は、渡辺教授によると、明治時代、日本が近代国家の道を歩むにあたり、政府が人々に「日本人というアイデンティティーを持たせるため」「日本という国に帰属しているんだという意識を持たせるため」に生み出した、「国民づくり」のためのツールだったと言います。
現代社会では音楽を「芸術の下位ジャンル」とする考えが主流ですが、当時は、そうした前提ではとらえられていませんでした。渡辺教授の著書「歌う国民」では、そうした歴史が丹念にひもとかれています。同時に、その中で、渡辺教授は、こうも述べています。
文化が創出される背後に見え隠れする国家イデオロギーを暴き糾弾するのではなく、そもそも文化は流動的であるという、ある種、相対化する視点を読み手に提供しているわけです。
それは演歌にも当てはまるでしょう。
「60年代後半に、演歌が生まれたのも、時代の要請、社会の要求があったから。それを頭ごなしに否定することに意味はありません」(渡辺教授)
誤ったイメージの皮をはぎ取れば、真のルーツにたどり着けるというのは幻想である――。ルーツと言えば、渡辺教授はこんなことも話していました。
「米国の文化人類学者のジェイムズ・クリフォードの言葉を借りれば、文化のルーツというのは、一般的に根っこという意味でのrootsというよりは、道路の方のroutesです」
「あたかもどこかに根っこがあるように捉えられがちですが、実際には、様々な道をたどってきてのいまなわけです。シャレといえばシャレですが、演歌という音楽文化を見ていく上でも、そんな視点が大事です」。
その上で渡辺教授は「音楽は決して『音楽そのもの』ではありえません」と付け加えます。音楽は「さまざまな歴史や文化的背景を背負ったもので、そうした奥行きある視点を持つことで、文化は成熟し、豊かなものになってゆく」と。
そうした視点を踏まえると、今回の議連の動きはどう見えるでしょうか。60年代後半に、社会の声をすくい上げ、深い洞察、理論付けを行い演歌を産み落とした時のようなダイナミズムが果たしてそこにあるでしょうか。演歌という音楽文化は、豊かに変容していくのでしょうか。
大衆音楽史に詳しい大阪大学の輪島裕介准教授はこう指摘します。
「過去の音楽を、誤解も含めて再解釈した上で現代の新しい音楽スタイルをつくる行為は、悪いどころか、ほとんどの音楽のイノベーションの根幹にあるもの」
「問題なのはそのやり方。演歌の場合、お上に訴えるやり方をとっているわけですが、それは五木寛之さんが60年代に行ったような文化的なやり方、当時の言葉でいえば『ヒップな』といえるようなやり方とはほど遠い」
「例えば、黒人音楽のブルースの人気がなくなってきたとして、ブルースマンが、議員団に陳情に上がり、『テレビやラジオなどで、一定の放送枠を強制的に確保してほしい』と懇願したらどうです?それは明らかにかっこわるいじゃないですか。そういう話だと思います」
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