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薩摩藩を勝ち組にした「昆布ロード」 明治維新へ情報・資金蓄える
薩摩藩を明治維新の雄へと押し上げたのは、人材などとともに、ある食材の交易が生んだ資金と情報網がありました。
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薩摩藩を明治維新の雄へと押し上げたのは、人材などとともに、ある食材の交易が生んだ資金と情報網がありました。
全国の百貨店で人気の北海道物産展、その売り上げ日本一を守り続けているのは実は鹿児島の百貨店「山形屋」。その中でも充実した売り場を設けているのが昆布です。鹿児島の家庭では古くからサバの昆布巻きを食し、19世紀前半には沖縄経由で昆布などを中国に輸出し、大きな資金源としていました。しかし、北海道でしかとれなかった昆布をどうして薩摩が手に入れ、輸出までしていたのでしょうか?
その答えは富山の薬売りでした。富山の売薬業は、胃痛や腹痛によく効く「反魂丹(はんごんたん)」が評判を呼び、北海道から大阪に至る北前船の寄港先という地の利にも恵まれて、全国に商圏を広げました。ただ、行商をして帰っていかれては、お金を領内から持ち出されることになる――売薬商人は「貿易摩擦」を引き起こして行商先の藩から出入りを差し止められないよう心を砕いたといいます。そして薩摩藩で商売を続ける見返りとして藩から求められたのが昆布でした。
薩摩藩は19世紀前半、傾いていた藩財政改革の一環として、沖縄経由で中国との密貿易にも手を出していました。中国では、昆布は甲状腺の病や高血圧に効く薬として珍重されているという情報を得て、その商機を逃さなかったようです。
薩摩は「昆布ロード」とも呼ばれる北前船の航路や鹿児島→沖縄→中国の輸出ルートを通じて、中国から麝香(じゃこう)や竜脳といった高価な薬種を輸入して大阪で売り、輸入品でも莫大な利益を上げました。こうした資金を元手に上海から1万丁規模の小銃を買い付けるなど、幕末の激動期に表舞台に立つ準備を整えたといいます。
日本近世・近代史が専門の原口泉・志學館大教授は富山の売薬商人の情報力も有益だったといいます。 「全国に散らばりますから各地の政治状況をつかめる。売薬さんたちの集めた情報を入手することで薩摩藩は幕末、政治の中心・京都でも的確に行動できた」。
実は薩摩藩主・島津斉彬は養殖も夢見ていたという昆布、薩摩経済と維新を支え、今は鹿児島の食文化を支えています。