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14年ぶりに新作を出した伝説の作家「原尞」に若者たちが質問攻め
提供:早川書房
「原尞」。この名前はハードボイルド小説界の生ける伝説です。デビュー30周年を迎える直木賞作家でありながら、これまで発表した長編作品はわずか4作のみ。そんな原尞さんの14年ぶりの新作『それまでの明日』が刊行される前日の2月28日、原さん本人を招いての特別な読書会【はじめての原尞】が開催されました。14年を費やして執筆した理由を、原さんは若者たちにどう語ったのでしょうか?
ネットで本を買う際には「原りょう」で検索してみてください。検索には不向きなペンネームということもあって、小説を普段読まない若い人は初めて見る名前かもしれません。
そもそも原さんが書くハードボイルド小説とは何でしょうか?ハードボイルド小説とは1930年前後にアメリカで確立した探偵小説の一ジャンルで、感情表現を抑えたシニカルな文体を用いたものです。
そこで、まず「小説家・原尞」を紹介します。
1988年に第1作『そして夜は甦る』で作家デビュー。翌年の第2作『私が殺した少女』で第102回直木賞を受賞。1990年の短編集『天使たちの探偵』を経て、1995年に長編第3作『さらば長き眠り』が刊行されます。その9年後の2004年に第4作『愚か者死すべし』を発表。そして今年3月1日に第5作『それまでの明日』が発売されました。長編小説5冊と短編集1冊、それにエッセイ集『ミステリオーソ』、『ハードボイルド』が、刊行された原さんの全作品(すべて早川書房刊)です。ちなみに、タイトルはすべて7文字。
原さんが書く全小説の主人公は、私立探偵・沢崎。読者に知らされているのは苗字のみというのもユニークです。そしてこの「沢崎シリーズ」は累計140万部。つまり、日本の風土にハードボイルド小説を定着させるきっかけを作った作品群と言えるのではないでしょうか。
普段は地元・佐賀県鳥栖市でフリージャズのピアニストとしてライブ活動もこなし、かつては黒澤明監督の事務所の仕事をしていたなど、ユニークな経歴も持つ原さん。待望の新作が14年ぶりに発売されたとあって、各方面で原尞ブームが再燃しようとしています。
今回の読書会の会場は、小説でも主人公が探偵事務所を構える東京・新宿にあるジャズ喫茶「DUG」。かつて原さん本人も通っていたという「DIG」の系譜を継ぐ名店です。
モデレーターは今回はじめて原尞作品を読んだという、ベンチャー企業 ハピキラFACTORYを経営しながらソニーでも働く“パラレルキャリア女子”の正能茉優(しょうのう・まゆ)さん。集まったのは、正能さん同様はじめて原尞作品を読んだというIT企業社員、エンジニア、接客業、ジャーナリストなど幅広い職種の十数名の若者たち。午後7時すぎ、課題図書の『そして夜は甦る』を片手に、読書会がスタートしました。
心地よいジャズが流れる店内。沢崎と同じショートピースをくゆらせる原さんに、冒頭、正能さんは「タバコを吸っている渋い原さんを拝見していたので、めちゃくちゃコワい人かとドキドキしていました」と、著者近影を見せながら切り出しました。原さん苦笑い。
そして参加者は「新宿へのこだわりは?」「(ジャズの曲で)衝撃を受けたのは?」「原稿は手書きですか?」「書いていない時は小説から離れるのですか?」など、著者本人と課題図書に対する質問を原さんにぶつけていきます。ファンによる読書会ではないので、質問も容赦ないのですが、原さんはひとつひとつ丁寧に答えていきます。
担当編集者として、原さんの原稿を14年間も待った千田さんは、その間、校閲部勤務を経て現在の肩書きは秘書室長。「失礼な言い方かもしれませんが、原さんは職業作家ではない。職業作家は生活のためにどんどん作品を書くのですけど、原さんは本当に時間をかけて、納得のいくまで考えてお書きになる」と、敬意を表しつつも、チクリ。全員爆笑。
実は、原さんは大学卒業後にCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社し、2カ月で退社しました。現在ソニー社員である正能さんは「そんなに書くのがお好きなのに、どうしてソニーに入っちゃったんですか?」と尋ねます。原さんは「新卒の募集に作文があって、これは書くのが好きな僕にもできるなと…。僕はジャズのレコードが作りたかったけど、基本ジャズは売れないから、担当できない。それに気づいてすぐにやめました。要するに間違えて入ってしまった…」と語りました。若い参加者が深くうなずいたシーンです。
「ところで、どうして今回、14年かかったんですか?」と、正能さんはみんなが一番聞きたかったことを参加者代表としてズバッと切り出しました。
「年齢に応じた小説というものがあると思います。今回、自分でも思いもしないことを書いていて、あとで、自分で読んでも面白い。小説にはこんな面白さもあるのかと気づきました。70歳の僕にしか書けないものもあるし、100歳になっても100歳の僕にしか書けないものを書けたらいいなと思っています」
原さんは正能さんの質問をはぐらかしながら、「それでも14年は相当長い。これほど長くかけようと思ったことは一度もないんですけどね」と、千田さんの顔をチラ見しながら語りました。千田さん苦笑。
「僕は1のものを1.1とか1.2にするために、時間をかけてしまうようなところもあってね。それ以外の書き方はできない。時間をかけて書くことがいいとは思わないけど、好きなものにするために、やっぱり時間がかかってしまいます」と答えました。
続いて、正能さんは「ソニーやハピキラで何かをつくる時は、買ってくれる人の目線に立つことが多いのですが、原さんも読者を意識して書くことはありますか?」と尋ねました。「読者を意識しないことはけっしてないですけれども、一番最初の読者はあくまでも僕。自分を納得させられないものをどんどん書こうとは思わないですね」と、原さんの強い信念を聞くことができました。
原さんの作品は、主人公・沢崎の人物像があまり明らかになっていないのも特徴です。読書会では、沢崎に対する原さんの強いこだわりも披露されました。
昔からの読者は、沢崎のモデルを原さん本人と想像して読む人も少なくないそうです。この日も参加者から「沢崎は原さんとっての憧れですか?」という質問を受けて、原さんは「理想でもないし、現実にこういう人間がいるとは考えてない」と答えました。
「沢崎は僕の中から見つけようとしても、全く見つからない人間です。僕のしゃべることを沢崎に言わせたり、僕の考え方を反映させても、ちっとも面白くないからです。極端な言い方をすると、沢崎以外の人物は僕がモデルです。僕の考えや感覚を見つけ出すことができる」
では沢崎とはどんな男なのでしょうか? 「究極の常識人だと僕は思っています。あまりにも完璧な常識人で、私たちからすると、なんでそんな対応をするのかと思ってしまうような人。世の中のものに何の予断も偏見も持たない人物に設定しています」と原さんは明かします。
「沢崎を出さないで小説を書いたら、2カ月で書ける気もしますよ」と、原さんは冗談っぽく笑いました。もしかすると、『それまでの明日』に14年を費やした最大の理由は、そこにあるのかもしれません。作者が自身の中にないものを追求しつづける作業は、過酷で想像を絶します。でも、このこだわりこそが、原さんの作品の面白さを高めているのではないでしょうか。
参加者のみなさんからは「没入感があり、作品の中に入りやすい」「情景描写などが新鮮で、引き込まれた」など、課題図書の感想が語られました。超人的なヒーローや名探偵ではなく、“究極の普通なのにカッコいい”。読者が世界にスッと入ることができるのが原さんの作品でもあります。
そんな伝説のハードボイルド作家「原尞」の5冊の長編小説をあなたもチャレンジしてみてはいかがでしょうか?
“自分を納得させられない仕事はしない”という原さんの生き方も知ることができるかもしれませんよ。
11月初旬のある日、渡辺探偵事務所の沢崎のもとを望月皓一と名乗る紳士が訪れた。消費者金融で支店長を務める彼は、融資が内定している赤坂の料亭の女将の身辺調査を依頼し、内々のことなのでけっして会社や自宅へは連絡しないようにと言い残し去っていった。沢崎が調べると女将は六月に癌で亡くなっていた。顔立ちのよく似た妹が跡を継いでいるというが、調査の対象は女将なのか、それとも妹か? しかし、当の依頼人が忽然と姿を消し、いつしか沢崎は金融絡みの事件の渦中に。切れのいい文章と機知にとんだ会話。時代がどれだけ変わろうと、この男だけは変わらない。14年もの歳月を費やして遂に完成した、チャンドラーの『長いお別れ』に比肩する渾身の一作。