エンタメ
志村けん頂点の後「3年半の低迷期」窮地でも貫いた「喜劇役者」の顔
国民的ギャグ生んだ「後輩芸人」への寛容さ
今年3月29日、日本を代表するコメディアン・志村けん(享年70)が新型コロナウイルスによる肺炎で急逝した。ザ・ドリフターズに途中加入し、『8時だョ!全員集合』の主力メンバーとして活躍。その後も「だいじょうぶだぁ」「アイーン」「だっふんだ!!」など数々のギャグを生み出し、名実ともにお笑い界の頂点を極めた。しかし、そんな志村にも3年半におよぶ低迷期があった。笑いにこだわり続けた志村が軟化し、バラエティー番組とコントの両輪で返り咲いた軌跡をたどる。(ライター・鈴木旭)
志村けんと言えば、1974年4月にザ・ドリフターズの正式メンバーとなって以降、『8時だョ!全員集合』(TBS系)の第二期黄金時代を支えたエースとして知られている。
同番組が終了してからも、メンバーの加藤茶とタッグを組んだ『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(前・同局)で人気は継続。1987年からは冠番組『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)がスタートするなど、この時期にコメディアンとして名実ともに頂点を極めたと言っていい。
数々の名物キャラクターを生み出し、志村は常に第一線で活躍し続けた。とはいえ、なぜここまでアイデアが尽きなかったのだろうか。それは、異常なまでの探究心があったからだ。
「ヒゲダンス」のBGMは、1970年代当時ソウルミュージックに傾倒していた志村のセンスによって音源化されている。
また、コント「変なおじさん」の「変なおじさん、だから、変なおじさん♪」というフレーズは、沖縄のミュージシャン「喜納昌吉&チャンプルーズ」の「ハイサイおじさん」の出だしを奇妙な踊りとともにアレンジしたものだ。
「だっふんだ!!」というオチのセリフは上方落語の伝説的なはなし家 ・故桂枝雀が得意としたネタ「ちしゃ医者」の大げさなせき払い に着目したもの。
「歌舞伎家族」「歌舞伎ラーメン」といったコントでは、本家が見てもしっかりとした歌舞伎の型や言い回しが使用されているそうだ (2016年1月に放送の『ダウンタウンなう』(フジテレビ系)より。四代目市川猿之助が『ドリフ大爆笑』(同局)のコントに触れた場面) 。
また、多感な時期にアメリカのコメディー映画を見て おり、とくにジェリー・ルイスやマルクス兄弟からの影響を色濃く受けている。
動きで笑わせるドタバタ劇や顔芸は、ここが原点と言っていい。また、2006年からスタートした舞台「志村魂」では、昭和の喜劇王・藤山寛美が演じた松竹新喜劇の名作喜劇に挑んでいる。
こうして見ただけでも、洋楽、沖縄民謡、歌舞伎、落語、洋画コメディー、松竹新喜劇など、ありとあらゆるジャンルに精通していたことが分かる。アイデアが豊富だったのは、常にネタになるものを探して足を運んでいたからなのだ。
そんな志村にも、実は低迷期がある。具体的に言うと、『だいじょうぶだぁ』終了後の1994年から1997年前半あたりまでの約3年半だ。若者を中心に、“志村のコントは古い”という扱いを受けていた。
お笑いの流れを見ると、実にわかりやすい。
1990年代前半は「お笑い第三世代」と呼ばれる、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンが台頭し、テレビのゴールデンタイムを席巻した。
その後、ナインティナインらを中心とした『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)、ロンドンブーツ1号2号の『ぷらちなロンドンブーツ』(テレビ朝日系)などがスタートして、企画性の高いゲームやロケが若者から支持を集めるようになった。
こうした潮流の中で、コントにこだわってきた志村も対応を余儀なくされた。
『志村けんはいかがでしょう』(フジテレビ系・1993年10月~1995年9月終了)では、舞台コントを続けながらもクイズコーナーを設けるなどしてリニューアルを施す。しかし、視聴率低迷は免れず、放送日や番組名を変更するなど苦戦を強いられた。
ついには、後続番組『けんちゃんのオーマイゴッド』(同局・1996年4月~同年9月終了)の打ち切りが決まってゴールデンから撤退。
ここから、つい最近まで放送されていた『志村でナイト』まで続く、深夜のコント番組がスタートした。「志村が死んだ」といううわさ が世間に広まったのもこの時期である。
私には忘れられない記憶がある。志村の低迷期に、ニュースキャスター・関口宏との特番が放送されたのだ。内容は、何軒かの居酒屋をハシゴしながら対談するというもの。珍しい組み合わせだが、理由はシンプルだった。
『いかがでしょう』末期あたりから『関口宏の東京フレンドパークII』(TBS系)と放送時間が重なり、視聴率に苦戦して志村の番組が終了した経緯があった。関口はそれを気にかけて志村にオファーしたのだ。
番組では、「最後の喜劇役者」として志村が紹介され、“日本の宝を守れ”というムードがあった。それほど業界内では、志村が消えてしまうという危機感があったのだろう。
志村の経歴などに触れた後、話が佳境に入ったところで関口は「ドラマや映画は興味ないんですか?」という趣旨の質問をする。これに志村は、タバコをくゆらせ ながら「今は一切興味ないですね」と、はにかみ笑いで答えた。その姿勢に私はしびれた 。
人間の本質は、窮地に立たされてから出るものだ。
それまで多くを語らなかったシャイな志村だからこそ、「実は昔から興味があったんです」と答えるなど、うまく立ち回るやり方もあっただろう。もともとアメリカのコメディー映画にも影響を受けているのだから、いくらでも言い訳は立つ。コメディアンというプライドさえ捨てれば、役者業で遠くない先に評価を受けただろうし、本人もそれは一番分かっていたのではないだろうか。
しかし、志村はそんな小細工はしなかった。
愚直なまでにお笑いに向き合う姿勢を見せたどころか、『だいじょうぶだぁ』のオープニングコントで使用するばあさん のカツラを関口にかぶせて 、笑いどころまでつくった。仮にも、自分の番組を追いやった相手を持ち上げたのだ。視聴者だった私は、「こんな格好いい大人がいるのか……」と震えた。
関口宏だけでなく、ダウンタウンの2人が『いかがでしょう』に出演するなど、志村を援護する存在がいなかったわけではない。しかし、いずれも尊敬する志村をサポートする行為であり、状況に変化はなかった。
志村も思うところがあったのだろう。この頃、苦手だったトークバラエティーにも少しだけ露出している。正月特番の『さんまのまんま』(関西テレビ制作/フジテレビ系)では、途中までバカ殿の姿で登場。家老に扮した桑野信義を同席させ、キャラになり切ってしゃべっていたのが印象的だった。それほどにシャイだったのだ。
そんな志村の姿勢を軟化させた芸人が現れる。それが、ナインティナイン・岡村隆史だった。
もともと岡村は、志村けん、とんねるず、ダウンタウンにあこがれてお笑い芸人になったと公言している。ただ、岡村自身にフィットしたのは、間違いなく志村の芸風だ。
今年4月に放送された『岡村隆史のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)の中で、岡村は急逝した志村について振り返りながら「(岡村自身に)オリジナルなんてないの。7割が志村さんなんですよ。本当、そうだと思う。今、めちゃイケを見たら『この顔もこの動きも、このパッケージも』って、全部がドリフにつながっているかもしれない」と語っている。それほど岡村の中で、志村の影響は絶大だった。
また、同番組の中で、はじめてしっかりと共演したという『ぐるぐるナインティナイン』(日本テレビ系)に話題が及ぶと「僕なんかホンマ普通のファンじゃないですか。勝手にこっちがもうまねして 、アイーンって。(志村が)「それ、オレのだよ!」みたいなのを言いながらやってくれはって」と笑い交じりに当時を回想している。
あくまでも岡村はファン目線で当時のやり取りを語っていたが、この“アイーン”によって志村は再ブレークした。
ジェスチャーだけだった 志村のギャグに、“アイーン”という擬音をつけて世間に広めた第一人者が岡村だったのだ。岡村は一時期、ことあるごとに志村のまね をして“アイーン”ポーズを見せていた。
今でこそ耳の不自由な人にも使用されるサインネームにまでなった “アイーン”だが、もともとそんな擬音はなかった。
『全員集合』の中で、ボケ役の中心になった志村がいかりや長介から激しいツッコミを受けるようになり、なだめる体で逆上させる動きとして「あごをしゃくって寄り目にし、片ひじを前に突き出すポーズ」が生まれている。そこで「怒っちゃやーよ!」と添えられることはあったが、志村自身が擬音を発したことはない。
この件について、今年4月に放送された『特盛!よしもと今田・八光のおしゃべりジャングル』(読売テレビ)の中で、FUJIWARAの藤本敏史が「“アイーン”は、木村(バッファロー吾郎A)と原西(孝幸)が勝手に擬音をつけていたんです」「それを岡村が覚えていたんですよ」と明かしている。
つまり、吉本興業の芸人同士のじゃれ合いから生まれた擬音の1つが“アイーン”だった。
驚くべきは、志村がこの“アイーン”を受け入れて持ちギャグとしたところだ。そこから志村はトークに対する肩の力が抜けたのか、以前よりもトークバラエティーの露出が増えていった。
1998年前後あたりからは、すでに大御所となっていたビートたけしや所ジョージとも共演している。岡村によって知れ渡った“アイーン”の効果は絶大で、志村がひとたび披露すると、スタジオの共演者や観覧客は手をたたいて 爆笑した。
さらにこの流れは、思わぬところにも飛び火した。
2001年に放送された『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ系)で女性アイドルグループ「ミニモニ。」のメンバーである辻希美と共演したことをきっかけに、2002年4月にシングル曲「アイ〜ン体操/アイ〜ン!ダンスの唄」をリリース。“アイーン”は、楽曲を通して国民的なギャグとして浸透していった。
晩年まで志村は「子どもが欲しい」ともらしていた。「子ども世代」「孫世代」に寛容だったのは、そのせいもあるのかもしれない。
2004年4月には『天才!志村どうぶつ園』(日本テレビ系)がスタート。かねてより動物好きだった志村だが、このあたりから素の状態でテレビに露出することに違和感がなくなった。
2006年からは、舞台「志村魂」を毎年行うなど精力的に活動。バラエティー番組とコントの両輪で、充実した毎日を送っているように見えた。
しかし、志村の挑戦はまだ続く。
2014年からは『となりのシムラ』(NHK総合・2016年12月まで全6回)をスタートさせ、メイクやカツラは一切なしのコントに挑んだ。日常を生きるおじさんの滑稽さと切なさを表現した“あるあるネタ”で構成されており、志村には珍しく等身大のキャラクターを演じた。
2015年7月に放送の『スタジオパークからこんにちは』(同局)に出演した志村は、『となりのシムラ』で共演した西田敏行について「いつも会ってる人だと『あ、だいたいこうくるだろうな』って思ってるけど、『そっちからくるのか!』とかっていうのはね(ほとんどない)。非常に緊張するし、また楽しい」と語っている。このあたりで、「俳優と演じる」ことの面白さを再確認していたのかもしれない。
今年に入って役者業のスタートが報じられ、映画やドラマでも活躍が期待されていた。新型コロナウイルスによる死は、そんな矢先の出来事だった。
爆笑問題の太田光が『サンデージャポン』(TBS系)の中で「みんな、(志村の)遺族みたいなもんだから」と表現したように、志村が亡くなったことに対する国民の喪失感はあまりに大きい。それは、バラエティー番組で志村の人柄のよさが伝わっていたからでもある。
もしもあの時、志村がテレビの世界から本当に消えてしまっていたら――。そう考えると、喜劇役者の火を消さなかった岡村の功績もまた偉大だと思う。
最後に、2015年11月に放送された『SWITCHインタビュー達人達』(NHK Eテレ)の中で、テクノポップユニット・Perfumeと共演した志村が「理想の喜劇役者」について語った言葉を添えておく。
「(舞台に喜劇役者が)歩いて出てきただけでも笑って、『おー!(と、観客が笑顔で拍手して)頭下げたぜ、おい!(そのまま舞台袖へと退いて)へぇ~!(と、笑顔でうなずく)』っていうのが理想だね。それぐらい面白いってイメージが植えつけられてると、顔見ただけで笑っちゃうじゃないですか」
亡くなったあなたの追悼番組で、実際に私は顔を見ただけで笑い、涙した。今もどこかで、「だいじょうぶだぁ」とコッソリ現れるのを信じている。
1/12枚