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 朝日新聞社メディア事業本部

「手話の勉強が趣味なんて人生はやめましょう」型破り通訳士が説く、コミュニケ-ションの極意

橋本一郎さんは、いくつもの顔を持つユニークな手話通訳士です。あるときは踊る手話パフォーマー、あるときは大学の先生、ろう教育の専門家、さらには街のラーメン店員、結婚式の司会者、バスツアーの添乗員……。一見バラバラな取り組みに共通するものとは? 型破りな手話人生から見えてきたのは、聞こえない人たちの可能性を広げたいという揺るぎない思いでした。

「手話ができると、もてるらしい」とだまされて

橋本さんと手話の出会いは15歳、中学3年生の時でした。好きな女の子に誘われて参加したボランティアサークルで知り合った、演劇活動をしている仲間から「手話を学ぶと表現力がつくし、女の子にももてるらしい」とささやかれたのがきっかけで、東京都世田谷区の手話サークルに参加します。

「でも最初教室のドアを開けた瞬間、帰ろうかと思いました。そこにいたのは僕よりはるかに年上の方々ばかりで、同年代は一人もいません。だまされた!と思いましたね」と笑います。しかし、手話に興味を持つ中高生は今以上に貴重な存在で、「大先輩」たちから、とてもかわいがられたそうです。聞こえない人からも「偉いね、すごいね」と褒められ、悪い気はせず、どんどん手話にはまっていきました。

手話との出会いを振り返る橋本一郎さん

少年時代、橋本さんの両親は精神や知的に障害があり、経済的にも苦しい生活だったそうです。一人っ子だった橋本さんにとって、手話サークルは家とは別の居場所になったのかも知れません。

商業高校に進学した橋本さんは、高校2年生の時に出場した手話スピーチコンテストで、ろうの若者たちと交流するスポーツ大会に出場した時の経験を発表し、2位になりました。といっても実は出場者は3人だけ。橋本さん以外はろうの両親を持つ方々で、手話の技術は自分が格段に下でしたが、主催者の温情で3位なしの2位、努力賞にも輝きました。この実績が、亜細亜大学の一芸一能入試で合格することにつながりました。「自分のために始めた手話のおかげで、経済的にも学力的にもあきらめていた大学進学もできた。手話がなければ、今の僕はなかった」

人生を支えた米国でのマイノリティー体験とろう学校での教育実習

橋本さんには、手話とともに生きる上で支えになった体験がいくつもあります。

ひとつは大学時代のアメリカ留学です。経済的に無理だとあきらめていた海外留学ですが、大学に新設された奨学金制度のおかげで、オレゴン州立大学で半年間学ぶことができました。英語は、特段得意ではありませんでしたが、一対一で話す場面では、ほとんど困ることなく会話できたそうです。「手話を学んだおかげで、ジェスチャーや表情などの表現力が豊かだったからでしょう」。しかし英語で話す相手が3人以上になると、まったく理解できませんでした。

わからないまま、あいまいな笑顔で相づちを打っていると、伝わっていないことがわかり非難される繰り返し。このとき橋本さんは「これが聞こえない人が日々体験している日常なんだ」と気づきました。一対一なら相手がわかるように気遣って会話ができても、一人対多数の関係になると、少数派の理解は置き去りにされがちです。橋本さんは、聞こえない仲間には、聞こえる仲間同士で話しあった結果しか手話で伝えていなかったことなど、これまでの振る舞いを思いだし、愕然としたそうです。こうした言葉がわからない・伝わらないというマイノリティー体験や、アメリカの大学で手厚く保障されている手話通訳などの実態を目の当たりにしたことで、本格的に手話を学ぶことを決意したそうです。

「パラフェス」でパフォーマンスを披露する=日本財団パラスポーツサポートセンター提供

帰国後、20歳で世田谷区と大学のある武蔵野市で手話通訳者の試験に合格しました。手話サークルや、地域の聴覚障害者協会の青年部の活動に力を注ぎ、キャンプに行ったり、ろう者の野球大会やボーリングを見に行ったり、気づけば周りにいるのは聞こえない友人ばかりに。そこで手話の技術が自然に磨かれました。

目指していた教員採用試験には落ちたため大学卒業後は、1年間で特別支援学校の専修免許状が取得できる横浜国立大学教育学部の特別専攻科(当時)に進学しました。ここで教育実習に行ったろう学校での体験が、転機になりました。1994年のことです。

当時、ろう教育の現場では残された聴覚を活用し口の形から言葉を読み取る「聴覚口話法」が優先され、日常生活で手話に親しんでいても、校内では手話を禁止する学校が主流だったそうです。実習先のろう学校でも、手話を使わないよう指示されましたが、橋本さんは全校生徒を前に、手話で自己紹介しました。生徒たちには大受けでしたが、校長先生に1時間説教を受けたそうです。

1カ月の実習を通して橋本さんは「この子たちには自分が必要だ、と勘違いしてしまいました」と振り返ります。「本当は、僕の方こそ彼らの存在が必要だったんです」

ライブハウスで目の見えないシンガーソングライター栗山龍太さん(右)と共演=橋本一郎さん提供

生徒たちと手話で会話すると、話が通じることで学校生活が楽しくなった、勉強もわかるようになったと感謝されました。逆に手話をめぐって対立した生徒との出会いも貴重だったと振り返ります。

その生徒は相手の口の形を読むのもうまく、発音もきれいで、「自分は聞こえるから手話はいらない」と主張していたそうです。「聞こえないという事実を、自分で否定させてしまう教育やそんな社会のままでよいのだろうか?」。この体験がろう教育に関わっていくことを決心させました。

卒業を控えた1995年1月には阪神大震災が起きました。橋本さんは3月に約1週間、聴覚障害者支援の震災ボランティアに参加し、避難所などで聞こえない人たちの困りごとに向き合いました。出会った人たちはみな話したくて仕方がない様子だったそうです。

「被災地でも、障害がある人の存在がわかれば衣食などは配慮されるようになりますが、聞こえない人にとっては愚痴も言えない、雑談もできないといった孤独が続く。そんな状況下で、手話が通じることがどれだけ心強いか。改めて手話ができることが、僕自身の存在価値なのだとも気づきました」

東京に戻ると、横浜のろう学校から臨時教員として採用したいという話がきました。被災地で出会った聞こえない仲間から、「神戸で見たこと、感じたことを、あなた自身の手で生徒たちに伝えて欲しい」という言葉を胸に、ろう学校教員の道に進むことになりました。

経営学の実践として、聞こえない店主が経営するラーメン店でアルバイトも=橋本一郎さん提供

ろうの子どもたちの夢をあきらめさせたくない

「生徒たちには、いろんな体験をして欲しいと思っていました」

橋本さんはろう学校時代をこう振り返ります。聞こえない人たちが活躍している職場に連れていったり、一緒に字幕つき映画を見に行ったりと、学校の外に生徒たちを積極的に誘っていたのはこれが理由でした。

「たとえば、放課後おしゃれなカフェに行きたくても、注文するのが難しいから、決まったお店で決まったものしか頼まない、という生徒が多くいました。これは豊かな生活ではない、と思うのです。もっともっと遊んで欲しい。スポーツや映画や、演劇、コンサートも楽しんで欲しい。聞こえる人の世界は自分には関係がないこと、ではなく、聞こえる人と同じようにいろんな体験やチャレンジすることを、あきらめて欲しくなかった」

橋本さんは知的や肢体不自由の特別支援学校を含め、約22年半にわたって教員をつとめました。ろう学校時代の生徒からは、手話の研究者やアーティスト、教員、薬剤師、俳優など様々な分野で活躍する教え子が育っています。

「ろう学校の卒業後は、大きな会社に就職して、結婚して、車を買って……と安定した生活を送るだけが成功モデルではつまらない。もっといろんなことができるんだという夢を持って欲しい。聞こえる人たちが『どうせできないでしょ』と思っている先入観を、ぶっ壊せるのがろう教育の力だと思います」と語ります。

生きづらさを自分ごととしてとらえられる想像力を

2016年、亜細亜大学に「障がい学生修学支援室」が作られることになり、大学OBである橋本さんは恩師でもある当時の学長から熱心な誘いを受け、大学教員へと転身します。

現在、大学には聞こえない学生が6人おり、希望に応じてすべての講義に手話通訳をつける体制をとっています。そうしたコーディネートを担当するほか、一般教養の選択科目として教える手話入門の講義は、毎年定員180人を大幅に超える希望者が集まる人気科目だそう。通訳養成のためのカリキュラムではありませんが、この講座がきっかけで、手話通訳士を目指したり、学内で聞こえない学生を支援する亜細亜大学「ピアサポーター制度」に参加したりする学生が多いそうです。

毎年、最初の授業で橋本さんは、言葉を発せず講義を進め、学生の質問にも筆談で対応します。戸惑う学生の視線が集中する中、最後に、言葉を発すると、教室にはなんともいえない空気が広がるそうです。

「学生たちは、大学に聞こえない、話せない教員がいるかも知れないということを想像すらしていません。通訳にはならなくても、手話の存在を知ることから、ろう文化があることに気づき、一緒に生きることができる。将来、ある日突然、自分や家族の耳が聞こえなくなる可能性だってゼロではありません。他人ごとではなく自分ごとに、それが難しければ“仲間ごと”としてとらえられる想像力を培って欲しいと思っています」

橋本さん自身のキャリアと活動は実に多彩です。フリーの手話通訳士として、ろう弁護士の通訳を担当する法務分野のほか、東京五輪パラリンピックの通訳コーディネーターなども手掛けてきました。近年では美術館や映画館など、エンターテインメント分野での手話通訳の仕事が増え、手話パフォーマーとして、舞台に立ち、プロデュースもつとめます。

ボランティア応募者に手話を教える橋本一郎さん(中央)=2019年

日本初のろうのバス運転手によるバスツアーを一緒に企画しガイド役を務めるほか、聞こえない同士のための結婚式の司会や通訳、聞こえない店主が経営するラーメン店でアルバイトもしています。チャレンジを続ける理由は、橋本さんの旺盛な好奇心に加え、経営学を教える大学教員としての研究実践でもあるそうです。

「聞こえない人がもっとビジネスに関与できるように、サポートしていきたい。旅行や結婚式といった場面で、どうすればお互いにハッピーなれるのかを演出する。こうした文化的な側面で、聞こえない人と聞こえる人のコミュニケーションが変化すれば、社会も変わっていくのではないでしょうか」

教え子の結婚式で通訳を担当する=橋本一郎さん提供

「聞こえない人」の姿が見える手話通訳士に

橋本さんが手話通訳士の試験に合格したのは26歳の時ですが、自らの不注意で1度は落ちてしまいました。その時、自宅のファクシミリに届いた大量の励ましのメッセージを読み、号泣したそうです。「これだけ自分に期待してくれている聞こえない仲間に応えたい、というのが僕にとっての通訳士の原点であり、誇り。彼らがいるから僕の存在価値もあるんです」

「朝日地球会議2019」で対話の重要性について話す橋本一郎さん

橋本さんは「手話通訳士という資格は、目標ではなくスタートに過ぎない」といいます。「合格率が低く難しいとされますが、やはり一定のレベルは必要です。資格を取れば、ベテランと対等にできると認められたということ。それで本当に、自分の技術で、聞こえない人の人生に対して責任をとれるのかは、常に考えなくいけない課題だと思います」

橋本さんにとって、手話通訳を担うやりがいは「聞こえない人が自分のことを信頼してくれていることが実感できた時」だといいます。それゆえ、手話通訳を志す人たちには、「自分の背後に、聞こえない人の存在が見えるような通訳者を目指してほしい」と願っています。

「『趣味は手話の勉強です』という人がいたら、『そんな趣味はやめた方がいいよ』とアドバイスします」と、橋本さんは笑いました。

「手話は言語なので、単語の意味だけでなく、その先にある物語や人生や思いを伝えることも大事です。それがITやツールではできない人間が手話通訳する意味ではないでしょうか。技術としてだけ手話を学ぼうとすると、行き詰まることが多い気がします。それを乗り越えるために必要なのは多様な経験です。たとえばいくら単語を覚えても、伝わらないときに力を発揮するのは、経験や体験から得られる生きた知識から生まれるアイデアや応用力です。だからこそ興味があることには何でもチャレンジして欲しい。

そして、信頼できる、かっこよいお手本になる先輩や仲間を、聞こえる人、聞こえない人の中にぜひ見つけて下さい。それが上達の秘訣でもあり、お互いの人生を豊かにしてくれるはずです」

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本事業は、意思疎通支援従事者確保等事業
(厚生労働省補助事業)として実施しています
(実施主体:朝日新聞社)