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笑福亭鶴瓶に聞く 漫画家のように一人で深められるのが落語の魅力
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落語初心者にもリピーターにもおすすめな「笑福亭鶴瓶落語会」。今年は東京・吉原を舞台とする『明烏(あけがらす)』を大阪版にアレンジして演じると言う。その見どころを本人が語る、はずだったのだが……。
明日からハワイで夏休みをとるという笑福亭鶴瓶は、今回の落語会での大ネタを『明烏(あけがらす)』に決めたと言う。ここ数年の人情噺とはうって変わって軽妙洒脱なネタであるのが気に入ったからと、身振り手振りで『明烏』の一部を演じ始める。新聞のインタビューだから、動きは再現されないというのに。自由だ。
ただし、野放図ではない。
古典落語でも自分バージョンに更新はするが、その前に先人たちの噺を聴き込み、『明烏』ならば名手と謳われた古今亭志ん朝の墓参りを忘れない。自由の裏側に敬意がある。
「古典落語はその数の多さが、まずありがたいんです。いろいろな題材があって、崩したり、料理したり、〝こっちのほうがおもしろいかも?〟と試行錯誤ができる。しかも、その作業をひとりで延々と深められるのがおもしろい。イメージとしては漫画家の方に近いのかなぁ。漫画家って、お話を考えるだけじゃなくて、キャラクターに芝居をつけさせたり、コマ割りで演出したりと全部をひとりでしてはるでしょ?」
キーワードはひとりということ。
まるで漫画家のごとく、東京の噺を大阪バージョンに変えた『明烏』では、オリジナルにはない、お囃子を演出に加えてもいる。
だが、そもそもの疑問が続く。古典落語は受け継がれてきた型があるわけで、必ずしも自分バージョンにアレンジする必要はない。なのになぜ、笑福亭鶴瓶は自分の色を加えて表現し続けるのか。
「そのまま演ることを、おもしろいと思えないんですよ。誤解を恐れずに言うなら、文珍兄さんの落語。めっちゃおもろい。観客を手玉に取るがごとく笑わせている。でも、僕が兄さんの型をそのままやっても絶対にウケないと思うんです。一方で、古典落語の型のすごみというのも感じています。昨年の『妾馬(めかうま)』という古典には、名前を聞かれて〝五尺三寸〟と身長を答える型があるんですね。ベタな笑いです。落語と本格的に向き合う前の僕だったら〝なにがおもろいねん〟と全否定していたと思います。でもこれが言い方や間の取り方次第で、めっちゃウケて。あれは発見でした」
これぞ、鶴瓶流スクラップ&ビルド。古典を壊すが再生もする。思えば、落語をはなれてもそうだった。『鶴瓶の家族に乾杯』というテレビ番組には「旅をして人と会う」というテーマがある。そのテーマを型とするなら、それを守りながらも、毎回のハプニングを歓迎し、壊し続けたからこその長寿番組。
「古典といえば、神田松之丞という化け物の登場で、講談がスポットライトを浴びているのは落語にとっても刺激になりますよね。実は昨年、松之丞と共演したんですよ。プロデューサーの意向で彼の講談を未見状態にしていたんですけど、当日はじめて見て度肝を抜かれました。『中村仲蔵』という古典だったんですけど、すごいんです、緊張感が。彼の講談のあとで自分の出番だったので『青木先生』という私落語(わたくしらくご)をやろうかとも考えました。『青木先生』は、自分の実体験を元に、僕がイチから作った、いわゆる創作落語で、確実にウケる自信がありました。でも、違うと。いまなら古典の『妾馬』だろうと。やり終えて思ったのは〝あぁ、恥かかんでよかったぁ〟でしたけど、講談の古典と落語の古典がぶつかったということ。いや、松之丞の講談はめちゃくちゃすごい。共演の次の日、講談で使うハリセンを買いましたからね。なんの意味もないけど、パーンって叩きたくて(笑)」
自身のプロモーションのインタビューなのに、他者を褒めちぎる落語家・笑福亭鶴瓶。自由だ。
落語会の見どころは大ネタの『明烏』と、ハワイで稽古してから決めるというほかの噺とのぶつかり合い。会場に足を運ぶか否かは、もちろん観客の自由である。
(文・唐澤和也)