連載
#171 鈴木旭の芸人WATCH
「最後まで身震いした」〝レジェンド欽ちゃん〟84歳の鋭利なセンス
数々の金字塔を打ち立てたテレビスターへ3時間インタビューしました
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#171 鈴木旭の芸人WATCH
数々の金字塔を打ち立てたテレビスターへ3時間インタビューしました
昨年12月、〝欽ちゃん〟こと萩本欽一さんに初めてインタビューした。数々の金字塔を打ち立てたテレビ界のレジェンドは、親しみやすさと鋭利なセンスが会話中に交差し、話すほどに謎を深めていく。予定を大幅に超える3時間も話してくれたが、欽ちゃんは、やはり最後まで形容し難い人だった。(ライター・鈴木旭)
明日、欽ちゃんに会える――。そう思うと、緊張と興奮で眠れなくなった。なにせ筆者が物心ついた頃には、もう‶テレビの人〟だったのだ。
斎藤清六さんや見栄晴さんを追い込んで笑わせ、自身の番組から「イモ欽トリオ」や「わらべ」といったユニットを輩出し楽曲をヒットさせる敏腕プロデューサーでもあった。さらには、筆者の幼少期のスターであるザ・ドリフターズの志村けんさんが、一度は弟子入りしようか迷ったコメディアンでもある。
そんなレジェンドに会うと思うと、どうも落ち着かない。結局、ほとんど眠れぬまま欽ちゃんの事務所へ向かった。
待ち合わせの10分前にビルの前に着くと、同席する編集者がくるまで何をするでもなく辺りをウロウロと歩く。いつの間にか呼吸が荒くなっていることに気付いた。
エレベーターはビル9階へと上がっていく。「もうすぐか……」と思う間もなくドアが開いた。ふと右側を向くと、眼前の部屋でグレーのジャケットを羽織った欽ちゃんがポツンと立っている。
「……よろしくお願いします」と会釈すると、欽ちゃんは「いつもこんな感じなんですよ」と笑ってしゃべり始めた。「親戚のおじさんみたいな気さくさだ」と思うと、自分でも信じられないほどすぐに和やかな気持ちになった。ここぞとばかりに「‶欽ちゃん〟とお呼びしてもいいですか?」と尋ねると、「嬉しいなぁ」と喜んでくれた。
ところが、その柔らかな印象も長くは続かない。話せば話すほど、「不思議なおじさん」に変化していくのだ。テレビプロデューサーの土屋敏男さんに勧められて始めたYouTubeを「すっげーつまんない」と語り、年1回の『仮装大賞』だけでは「アドリブが飛ばなくなる」ことから訓練でやっていたと平然と続ける。
そんなエピソードが立て続けに飛び出すうち、「……やっぱこの人、〝普通〟じゃないわ」と思い始めた。取材が始まって、まだ10分だった。
1980年代前半、欽ちゃんは「視聴率100%男」との異名を取った。これは、『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(フジテレビ系)、『欽ちゃんのどこまでやるの!(以下、欽どこ)』(テレビ朝日系。開始当初は、NETテレビ系)、『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS系)と週3本のレギュラーを抱え、視聴率の合計が100%を超えたことに由来する。
しかも、そこに至るまでの経緯がどの番組もユニークだ。『欽ドン!』は、ラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!』(ニッポン放送)の一般聴取者からコントを募って紹介するハガキのコーナーを「テレビでやりたい」とテレビに持ち込んだ企画だった。
1975年の『欽ちゃんのドンとやってみよう!』のレギュラー化にあたり当初はスポンサーがつかなかったが、番組を見たスポンサー(花王)が後から半分買ったという逸話も残っている。また、コメディアンの名前を冠したテレビのレギュラー番組はこれが日本初で、当初は頭に「萩本欽一ショー」と2個もついていた。
『欽どこ』もずいぶんと型破りなスタートをしている。1975年に『欽ドン!』が当たったのを受け、知り合いのプロデューサー(皇達也さん)が「夜9時台のバラエティー」をやろうと話を持ち掛けてきた。早い段階で「OK」を出すも、後になって「やっぱりドラマじゃないと、スポンサーがつかなくて」と相談され、欽ちゃんはあれこれと思案する。
それで出てきたのが、「俳優・真屋順子さんと結婚した欽ちゃんが、長男の見栄晴さん、3つ子ののぞみ(高部知子さん)、かなえ(倉沢淳美さん)、たまえ(高橋真美さん)に恵まれる」という設定のドラマだ。1983年、3人娘は番組発のユニット「わらべ」として歌手デビュー。坂本龍一さんが編曲を担当した「めだかの兄妹」、2枚目のシングル「もしも明日が…。」は大ヒットを記録した。
各コーナーを週刊誌に見立てた『週刊欽曜日』では、早々の路線変更が功を奏している。俳優・清水善三さんが青春を求めて家出する「善三が行く」のコント収録がうまくいかず、その大半をカットすることに。「ひとまずオンエアを見よう」と欽ちゃんがテレビを眺めていると、ウィスキーのCMにタキシードを着た渋い外国人俳優が出ていた。
その後、流れてきたのが前述のコント。欽ちゃんはハゲヅラを被っていた。「こりゃダメだ。失礼だよ」と思った欽ちゃんは、番組の作家陣に「タキシードで一番いいのは何だ?」と宿題を出す。すると、「バンドマン」というアイデアが出てきて、コント設定を「長男が家出する」から「バンドを辞めるメンバーがいる」にシフトする。
台本を作る時間もない。欽ちゃんは共演者に設定だけを共有し、「セリフは自分で好きなように」と伝えた。そこにいる誰もが顔を見合わせた。しかし、これがコントとバンド演奏を組み合わせた人気コーナー「欽ちゃんバンド」誕生のきっかけになった。風見慎吾(現・風見しんご)さんは、この番組で芸能界デビューしブレークを果たしている。
長年の欽ちゃんの活躍もあり、メディアは同じ土曜夜8時に放送される『8時だョ!全員集合』(TBS系)との視聴率争いを‶土8戦争〟と煽り立てた。まるで両者が「因縁のライバル」であるかのように。
1969年スタートの『全員集合』が『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ系)を終了に追い込んだかと思えば、今度は欽ちゃんが『欽ドン!』(同系)を立ち上げて視聴率で勝利する。ところが、再び『全員集合』が巻き返し……という視聴率バトルは、令和になった今でも語り継がれるバラエティー史だ。
しかし、実際の欽ちゃんは「ドリフはね、お友達のようなもんだから」と嬉しそうに語る。例えば、ドリフのリーダー・いかりや長介さんとは「あ、大将(欽ちゃんの愛称)。この間の歌舞伎のね。あれパクって志村にやらしたら、ウケたウケた」といった会話をよく交わしていたようで、「我々は『パクりOK』って言ってたんだ」と笑って教えてくれた。
続けて、「子どもが見てる夜8時台の番組をやると、ドリフも欽ちゃんもコント55号もみんな一緒。つまずくなら、かわいく転がる。子どもってね、現象をかわいく見せるとたまんなく喜ぶの」とも口にしていた。
一方で、「あの頃は、もう加トちゃん(加藤茶さん)と志村けんちゃんのふたりに照明が当たってるから、俺は言葉に変えていったの。当分、そういうのはやんないように。お互いを荒らさないようにね」と語っていたのが印象的だ。
つまり、もともと欽ちゃんは体の動きで笑わせる軽演劇出身のコメディアンだが、〝被らないように〟と『全員集合』の時間帯には言葉で笑わせる番組作りを意識していた。ディレクターにはより良い番組作りのために前説をやるよう促し、カメラマンには「間の悪さ」が何たるかを手取り足取りして教え、きれいに収まる映像ではなくキレのあるカメラワークを重視させたという。
これが1980年代初頭の若手漫才師を中心とする『オレたちひょうきん族』へと引き継がれ、やがてフジテレビの黄金期を迎えるのだから興味深い。
基本的に「自分のテレビは見ない」うえ、マネージャーには「視聴率を具体的に言うのはタブー」だと伝えている。番組のポスターは「いりません!」と言い続け、「企画書いらない、記者会見しない、番宣しない」を貫いてきたという。それでいて、「番組が当たるのはわかる」というのだから、話を聞くほどに欽ちゃんの謎は深まるばかりだ。
「いろんな意見がプラスされると、テレビってダメなんだ。だから、私は会議がダメだって言うのね。いろんな意見を総合すると何がいけないかって、うまくいきゃいいんだけども、失敗したときに誰も責任を取らないの(笑)」
欽ちゃんのこの言葉を聞いた後、今月4日放送の『令和ロマンの娯楽がたり』(テレビ朝日系)の中で、クイズ王として知られる伊沢拓司さんが自身の失敗を振り返る姿を見て驚いた。
昨今、『timelesz project-AUDITION-』『No No Girls』といったオーディション番組が盛況。この背景について出演者たちが語り合う中、伊沢さんが過去に人気クイズ番組『東大王』(TBS系)の新メンバー発掘オーディション『プロジェクト東大王』(Paravi。現「U-NEXT」)の総監督を担当し、「全然うまくいかなかった」と口を開く。
伊沢さんが審査基準の軸を持っていたが、次第に制作の意見も取り入れるようになり「途中でブレた」ことで番組の勢いが失速したという。今のオーディション番組が「誰が、どんな軸で審査するのか」によって支持されているのだとすれば、前述の欽ちゃんの発言は現代のトレンドの核心を見透かしていたようにも受け取れる。
こうした鋭利なセンスは、とても84歳とは思えない。ただ、目の前にいるのは時折「ん?」と、こちらに耳を向ける親しみやすい「おじさん」だ。そうかと思えば、結果的に3時間を超えるインタビューとなり、今度はその集中力に驚かされる。
取材を終えて何気なく机を見ると、事前に送った質問案のコピー用紙が目に入った。びっしりと欽ちゃんのメモが書かれている。「……こんなにちゃんと準備してくれていたのか」。また筆者は、ぞわぞわぞわっと身震いした。
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