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空白の3年8カ月 あの日、天気予報が止まった理由
私たちの暮らしに欠かせないものとなっている天気予報。今年は日本で天気予報が始まって140年になる節目の年です。ところがある年の12月8日から、3年8カ月にわたって天気予報が行われない期間があったそうです。当時を知る101歳の男性は、「漁師に明日海が荒れることも伝えられなかった」と悔やみます。そんな天気予報の歴史を取材しました。(朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮)
気象庁広報室に取材すると、日本で天気予報が始まったのは1884年6月1日だそうです。
担当者は「この天気予報は『全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ』というように、日本全国の予想をたった一つの文で表現するごく簡単なものでした」といいます。
この天気予報は中央気象台(気象庁の前身)や派出所(当時の交番)の掲示板などに、1日に3回張り出されていたそうです。
この年の12月には全国的な地震の震度観測も始まりました。
1928年にはラジオでも天気予報が放送されるようになり、より身近なものになっていきます。
しかし、日本には約3年8カ月にわたって、一般家庭に天気予報が届かない期間があったそうです。
「1941年12月8日から1945年8月22日までの期間、天気予報は中断しています」
1941年12月8日から天気予報が止まったのは、太平洋戦争開戦によるものでした。
1941年12月8日、中央気象台に対して、日本海軍および陸軍から命令が下されました。
「18時より全国に気象報道管制を実施すべし」
これは、敵国に日本周辺の気象情報を伝えないための措置でした。
雨が降るかどうかや、気温や気圧といった情報は、作戦に影響を与える重要な要素だったからです。
気象庁がまとめた「気象百年史」によると、日本軍も開戦に先立ち、ハワイ近海の風向やマレー半島沖の季節風の強さなどを調べていました。
軍の命令で行われた情報統制でしたが、敵に情報を知らせないという効果はほとんどなかったと言われています。
米軍は独自に日本周辺の気象観測を行い、精度の高い気象情報を得ていたためです。
天気予報が止まっている間も、自然災害は発生します。
戦時中の1942年8月には周防灘(すおうなだ)台風が西日本を襲い、1158人の死者・行方不明者が出ました。
戦時中、京都府宮津市にあった気象台の測候所に勤務していた、気象学者の増田善信さん(101)=東京都狛江市=は、当時のことをこう振り返ります。
「この時は、特例で暴風警報の発表が許されました。しかし、警報の発表が遅れたうえ、内容も『高潮の恐れあり十分な警戒を要す』といったごく簡単なもので、台風の位置や進路といった具体的な情報はありませんでした」
そして、この台風による甚大な被害についても「日本の戦争遂行能力を敵に察知されないため」として、国民にはほとんど知らされませんでした。
危険な兆候があっても、身近な人たちにそれを伝えることすら許されなかったそうです。
「出航前の漁師に、明日海が荒れることすら伝えられなかった。『今日はよい天気だったけれど、明日はどうなるだろうね』。そんな風に、遠回しに言うことしかできなかったんです」
増田さんは終戦前年の44年9月に海軍に入隊し、少尉として島根県内の基地に配属されました。
観測した気象情報を元に、航空機の出撃に必要な天気図を作成するのが増田さんの仕事でした。
戦況は日に日に悪化し、基地からは沖縄方面へと特攻機が飛び立つようになりました。
「人もモノも情報も、全てが戦争のために消費されていく。軍隊も戦争もデタラメばかりだと思ったが、表立って『おかしい』とは言えなかった」
天気予報が復活したのは、日本が戦争に敗れた後のことでした。
1945年8月22日のラジオ放送、そして翌23日の新聞紙面で天気予報が再開します。実に3年8カ月ぶりのことでした。
当時の東京の朝日新聞の朝刊にも「天気予報復活の第一報」という見出しで台風への注意を呼びかける記事や、「北東の風、曇り勝で山岳方面ではなほ驟雨(しゅう・う)がありませう」という関東地方の天気予報が掲載されています。
増田さんは「人々の暮らしを守る、豊かにする。本来、天気予報が果たすべきだった仕事がようやくできるようになった」と語ります。
増田さんは戦争が終わった後も、その傷痕と向き合い続けました。
増田さんは気象庁を退官後の1989年、原爆投下後に広島に降った「黒い雨」が、それまで考えられていたよりも約4倍広い範囲に降ったとする論文を発表します。
この論文は、黒い雨の範囲などを根拠にそれまで被爆者として認められてこなかった住民を、幅広く被爆者と認めた2021年の広島高裁判決の根拠の一つになりました。
増田さんは「言論の自由が保障された現代でも、国の方針や多数派の意見と異なる主張をするのは勇気がいること」と話します。
それでも、と増田さんは訴えます。
「そこでたたかうことをやめてしまったら、かつてのように人命に直結する情報すら隠され、歪められ、届かなくなってしまう。そんな時代を二度と繰り返してはいけません」
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