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エンタメ

沖縄の〝笑っちゃう〟戦後史 風刺と郷土愛にあふれる芸人たちの系譜

小那覇舞天、笑築過激団にガレッジセール

お笑いコンビの「ガレッジセール」のゴリ(左)と、川田広樹=2008年2月22日、朝日新聞
お笑いコンビの「ガレッジセール」のゴリ(左)と、川田広樹=2008年2月22日、朝日新聞

目次

本土復帰50年を迎えた沖縄では、米軍の基地問題、乱開発による自然破壊など、現地の人々が様々な苦難を強いられてきた。実は、そんな土壌からは、風刺や心意気にあふれた笑いが生まれていた。「沖縄のチャプリン」と言われた小那覇舞天、三線や漫談のエンターテイナーであった照屋林助。風刺を織り交ぜ、テレビで人気になった「笑築過激団」。「お笑い米軍基地」は沖縄の基地問題をネタにした。そして、全国区のタレントになったガレッジセール。郷土愛に満ちた沖縄の笑いの歴史を振り返る。(ライター・鈴木旭)

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「沖縄のチャプリン」小那覇舞天

終戦後、沖縄の戦後復興を支えた人物がいる。芸名は小那覇舞天(おなはぶーてん)、本名・小那覇全孝(ぜんこう)。歯科医と二足のわらじを履いたアマチュア芸人は、後に「沖縄のチャプリン」と呼ばれた。

1879年、明治政府が首里城に乗り込み、琉球藩を廃止。沖縄県の設置を通達する。その8年後に舞天は沖縄本島北部の静かな村で生まれた。幼少期から秀才と称された舞天は、1920年に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)に進学。歯医者を志し、あこがれの地・東京へと向かった。

しかし、そこで待ち受けていたのは、沖縄出身者への露骨な差別だった。憤りと悲しみにさいなまれた舞天。心の拠りどころとなったのは、芝居・音楽・笑いで賑わう浅草だった。当時、路上では芸人が軍人や政治家を笑い飛ばす風刺のきいたネタを披露していた。舞天は学業のかたわらで浅草に足繫く通い、歌や漫談のいろはを吸収した。

1922年、舞天は沖縄へ戻り、嘉手納町で歯科医院を開業。同時に芝居小屋や演芸場に出演し、モダンな浅草の話術をベースとした沖縄漫談を披露して人気を得る。日本がナチス・ドイツと軍事同盟を結び、戦争一色の時代になっても舞天は歌や漫談をやめなかった。

「あの国もヒットラー(沖縄の言葉で『ひったくれ』)、この国もヒットラー。『だからヒットラー』だと! 変なやつ」。舞天は我を忘れて侵略を繰り返す軍人を漫談の中で風刺した。

沖縄戦でアメリカ軍に敗れた1945年、生き延びた舞天は難民として本島中部の石川市(現・うるま市。2005年、市町村合併によって消滅)に送られる。石川の収容所に押し寄せた3万人の難民たちは、アメリカ軍が配給するわずかな食糧で飢えをしのいだ。そこに現れたのが、三線を抱えた芸人・舞天だった。

昼間は医師として働き、夜は芸人として石川の民家を訪ね歩く。戦争を生き延びた者が泣き暮らしていては、死んだ者も浮かばれない。生き残った者が元気を出さなくてどうするのか。舞天は「命のお祝いをしましょう」と呼びかけた。気力を失っていた人々は、舞天を受け入れ歌と笑いの大切さに気付いていった。

収容所では、演芸大会の開催に尽力。ドラム缶の上に板を敷いただけの舞台は、溢れんばかりの観客で埋め尽くされた。沖縄芸能のエネルギーは、敗戦後の収容所から始まったのである。

戦災で難民となった沖縄の女性や子どもたち=1945年、朝日新聞
戦災で難民となった沖縄の女性や子どもたち=1945年、朝日新聞

沖縄のエンターテイナー・照屋林助

舞天とともに石川の民家で歌ったり踊ったりしていたのが照屋林助だった。舞天の芸に魅せられ、村々を巡る活動に付き添い、個人でも三線や漫談を披露し続けたエンターテイナーである。

1945年の敗戦から5年後、朝鮮戦争が勃発。沖縄の米軍基地から戦闘機が飛び立った。翌年、日本は国際社会への復帰を果たすも、沖縄の統治権はアメリカに委ねられる。アメリカは沖縄の住民から強制的に土地を取り上げ、基地を拡張していった。

1955年、6歳の少女の死体が嘉手納の海岸で発見されるなど、アメリカ兵による犯罪が多発。沖縄中に悲しみと憤りが蔓延していた。林助は、そんな時代に現れた。デビューは米軍基地の門前町として栄えたコザ。街にはアメリカの音楽があふれ、林助自身もエレキ三線を自作するなど革新的な手法を編み出した。

1956年、沖縄の人気歌手・前川守康との歌謡漫談スタイルのユニット「ワタブーショー」を旗揚げ。当初は映画上映の余興に過ぎなかった。しかし、たちまち評判を呼び、ワタブーショーのファンが増えていく。大ヒット作は、沖縄芝居の名作「伊江島ハンドー小(グワ)」をベースとした「珍版ハンドー小物語」だ。

原作は、村の女・ハンドー小が金持ちの若い男だまされ、自らの首を絞めて命を絶つ物語。林助はこの設定を同時代の沖縄に変え、男が金をだまし取られる展開へとアレンジした。しかも、2人は命を落とさない。川に身を投げようとした男のもとに、金を使い切ってしまったハンドー小が現れて元の鞘に収まるのだ。生きていればごちそうにもありつける。戦火の中を生き延びた沖縄人の心意気や命の強さを称えたものだった。

そんな林助の思いとは裏腹に、米兵による乱闘や性的暴行、車のひき逃げが相次ぐ。1972年5月15日、「沖縄復帰式典」が開催され沖縄は本土に復帰したが、米軍基地はなくならないままだった。

復帰後も基地との縁が切れない日々。国家主導の大イベント「沖縄海洋博覧会」(1975年)も一時的な効果のみとなり、土地の買い占め、乱開発による自然破壊など、沖縄の人々を苦しめた。同時に本土との同化政策が急速に進められ、沖縄の精神や文化は時代遅れとみなされるようになった。

唐(中国)の世から、大和(本土)の世、アメリカの世へと流れ、再び大和の世へ。大国の思惑に振り回されて、沖縄は迷子のままでいいのか。林助はそんなやるせない沖縄の現状を次々と歌にしていった。

照屋林助の沖縄歌謡漫談=1994年、東京・浅草の木馬亭で、朝日新聞
照屋林助の沖縄歌謡漫談=1994年、東京・浅草の木馬亭で、朝日新聞

沖縄文化を笑いに転じた「笑築過激団」

林助の精神を受け継ぎ、1990年代初頭にテレビで人気を博したのがお笑い集団「笑築過激団」である。

座長の玉城満は、1958年に米軍支配下のコザに生まれた。19歳で沖縄から離れ、東京の劇団で役者修業。沖縄人が地元の文化を手放していった時代、玉城も本土の人間になりたいと考えていた。

当時、本土への集団就職ブームが起き、沖縄人の多くが大阪や東京へと移った。しかし、まだまだ差別は多く、絶望して自殺する者もいた。玉城も東京の暮らしに生きづらさを感じていた一人だ。そんな時に目にしたのが沖縄芝居の東京公演だった。沖縄の言葉に心を揺さぶられ、忘れていた思いがあふれ出した。

玉城は沖縄に帰り、林助のもとを訪ねる。そこで目覚めたのが沖縄の笑いだった。1983年にお笑い劇団「笑築過激団」を旗揚げ。1991年にはテレビに進出し、沖縄発のコント番組『お笑いポーポー』(RBC)がスタートする。

沖縄の若者から年配者、酔っ払いなど日常で見られるキャラクターを盛り込み、風刺を織り交ぜた笑いが視聴者の共感を呼んだ。とくにフーチーバー(よもぎ)親方とゴーヤージラーというキャラクターが登場するコント「ポーポー劇場 必殺チャンプルー」は若者から絶大な支持を得た。

玉城は、2011年に放送された『笑う沖縄 百年の物語』(NHK BSプレミアム)の中で「今なくなるんじゃないかと思うものをどんどんステージに上げていきたかったんですね。だから、そういう意味ではある種沖縄文化に対する危機感でしょうね」と語っている。今や全国区となったゴーヤーさえ、当時の沖縄の若者には気恥ずかしさがあった。それを堂々と笑いに転じたのが、笑築過激団の新しさだった。

劇団「笑築過激団」座長の玉城満=1996年、朝日新聞
劇団「笑築過激団」座長の玉城満=1996年、朝日新聞

「お笑い米軍基地」沖縄の矛盾をテーマに

笑築過激団のDNAは、『お笑いポーポー』を通して若者へと引き継がれた。それが2005年に衝撃的なヒット作を放った「お笑い米軍基地」である。

主宰の小波津正光は、1994年に芸人コンビ・ぽってかすーを結成。沖縄で活躍後、拠点を東京に移した。世は沖縄ブームの絶頂。1990年代はBEGIN、Coccoなど沖縄のミュージシャンが注目を浴びたほか、THE BOOMの「島唄」が大ヒットを記録。安室奈美恵やMAX、SPEED、DA PUMPなど沖縄アクターズスクールの出身者が活躍し、沖縄を舞台とした映画やドラマもヒットした。

癒しの島というイメージも広がり、観光客は年間500万人を超えた。しかし、東京へとやってきた小波津は、そのブームが表面的であることに落胆する。多くの人にとって沖縄はリゾート地であり、基地問題は他人事でしかなかった。

そんな矢先の2004年、沖縄国際大学のキャンパスに米軍のヘリコプターが墜落。大惨事の現場は米軍が封鎖し、沖縄の警察は足を踏み入れることすらできなかった。小波津は、この事件を漫才のネタにしてライブの客にぶつける。「アテネでは聖火が燃えているが、沖縄ではヘリが燃えている」「お前ら、この(琉球)新聞全員回して読め!」と声を上げると、観客はドッと笑った。半分はお笑い、半分は怒りだった(前述の『笑う沖縄 百年の物語』より)。

2005年、小波津は沖縄に戻り、お笑い米軍基地を旗揚げ。基地問題や沖縄の矛盾をコントで表現した。

最初に披露したネタは「フェンス」。沖縄人がキャッチボールをしていると米軍基地の中にボールが入ってしまう。取りに行こうとすると、「ここからはアメリカだ」と米兵に止められる。腑に落ちず、不満をこぼす沖縄人。すると、フェンスを自由に出入りする米兵の子どもたちが目に入り、さらに沖縄人たちが米兵に食って掛かる、というユーモラスでありながら風刺のきいたコントだ。

その後、お笑い米軍基地は全国公演も開催。戦闘機の騒音、普天間基地の移設計画といった沖縄の悩みの種を笑いに転じ、現在も活動し続けている。

「お笑い米軍基地」の舞台。「ヤマトンチュー(本土の日本人)引っ越しセンター」の社員らは、米国人の大家の指示通りに荷物を運ぶ=2006年3月3日、那覇市で、朝日新聞
「お笑い米軍基地」の舞台。「ヤマトンチュー(本土の日本人)引っ越しセンター」の社員らは、米国人の大家の指示通りに荷物を運ぶ=2006年3月3日、那覇市で、朝日新聞

全国区となった沖縄芸人の笑い

沖縄での活動を経て東京に進出する。これは、ある時期まで沖縄芸人の王道ルートだった。

たとえば1982年に結成された二―ニーズは、沖縄のテレビやCMに出演して若者から絶大な支持を得た後、大手芸能事務所・人力舎からスカウトを受けて1994年に東京へ進出している。

一方で1993年に「FEC」、1996年に「オリジン・コーポレーション」という沖縄の芸能事務所が立ち上がった。この流れでファニーズ、ダーティ・ビューティ、マスターベーコンズといった芸人が地元・沖縄で活躍。お笑いの土壌を築いた。

同時期、最初から東京で活動し注目を浴びる芸人も現れた。その代表的なコンビがガレッジセールだ。中学時代の同級生だった2人は、渋谷公園通り劇場のボランティアスタッフとして働く中で初舞台を踏むチャンスを得た。

1995年の活動開始から数年後にはテレビ出演を果たし、2000年前後には『森田一義アワー 笑っていいとも!』や『ワンナイR&R』(ともにフジテレビ系)といった番組のレギュラーに抜擢される。『ワンナイR&R』では、ギノ(ゴリ)とマンタ(川田広樹)が司会を務め、人気番組を沖縄風にパロディー化する企画も好評を博した。

そのほか、ホーム・チーム、キャン×キャン、パッション屋良、スリムクラブなどは『エンタの神様』(日本テレビ系)といった2000年代のネタ番組で活躍。現在、三日月マンハッタン、しゃもじらは東京を拠点に、初恋クロマニヨン、リップサービス、ありんくりんらは沖縄を拠点に活動しており、多様性も生まれている。

お笑い米軍基地のようなアイロニカルな笑い、地元・沖縄に密着した笑い、そして全国区の大衆的な笑い。それぞれスタイルは異なるが、一貫して感じるのは地元・沖縄への郷土愛だ。独特の笑いの歴史を持つ沖縄。この特別な地から、今後も新たなスターが登場することに期待したい。

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