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エンタメ

はるな愛、性転換手術を受けても「大西賢示」として生きていく覚悟

芸能界への道をひらいた飲食店経営

自身のキャリアについて語るはるな愛さん。芸能界で活躍する前、手がけていた飲食店の経営が人生を変えるきっかけになったという
自身のキャリアについて語るはるな愛さん。芸能界で活躍する前、手がけていた飲食店の経営が人生を変えるきっかけになったという

目次

タレントとして活躍する、はるな愛さんですが、芸能界に憧れて上京した時は〝どん底〟を味わっていたといいます。そんな人生を変えたのが、飲食店の経営でした。ニューハーフへの差別や、「男であることを思い知らされた」という性転換手術時の思い。今、自分の性別や外見に悩みを持っている人へのメッセージを、笑下村塾のたかまつなながYouTube「たかまつななチャンネル」で聞きました。

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ストリップ劇場に通い、女性に憧れていた子ども時代

――ご自身の中で、性別に違和感をお持ちになられたのはいつごろですか?

幼稚園ぐらいですかね。叔母さんがストリッパーだったこともあって、私自身、性についてはすごくませていた子どもだったと思います。女性のストリッパーというと、生まれたままの姿で踊ったり、ドレスをちょっとずつ脱いでいったりするお仕事なんですけど、そういう劇場の楽屋によく遊びに行っていたんです。だから性というものが小さい時から身近にあったし、私もドレス着てみたい、お化粧してみたい、キラキラしたアクセサリーつけてみたいっていう思いもありました。


――少し前に私も初めてストリップ劇場に行ったんですけど、美しくて感動しました。今まで差別的な目で見ていた自分が恥ずかしくなりました。

固定概念で知らない世界を見ちゃうから、いざその世界に触れてみると全然違ったりするんだよね。実際にストリッパーさんとお話すると、めちゃくちゃ素敵な方だったり。未知な世界を知ると、すごい世界なんだなって気づくことがいっぱいあるよね。

そういうストリップ劇場の世界に触れていたし、自分自身もなんでかわからないけど、幼少期時代からとにかく女の子に憧れていた。そんな子どもだったから小学校入学の時、ランドセルの色が男女別だったのがイヤでしたね。今でこそないものの男の子は黒、女の子は赤という風に。

コンプレックスを受け入れた瞬間、芸能界への道がひらけた

――中学生時代にご自身の性が元になっていじめにあわれていたと聞きました。大人になってからも差別的に扱われたことはあったのでしょうか。

そうですね。とくに上京してからは、女の子として生きていきたかった。なのに芸能界を目指し活動をしてみても、「君みたいなのはイロモノだから、絶対に芸能界に向いてない」「芸能界じゃなくてゲイバーで働いた方がいい」って差別的な発言を浴びせられたりして……。

当時、月に1本、テレビのお仕事があるかどうかだったけど、そう言われても絶対に芸能界の夢を諦めたくなかった。上京前にニューハーフのお店で稼いでいた貯金もどんどんなくなっていく中で、なんとかしないといけないって。そこで自分で小さなお店をオープンしたんです。お客さんが7人しか入れないカウンターのお店でしたが、これがターニングポイントになったんです。


――どんなお店だったんですか?

女の子のお店はキャバクラがあるから、どうしてもかなわないと思った。自分一人で何ができるか考えたら、今まで認めたくなかったコンプレックスのニューハーフが強みになると。

結局、私は男であって女の子として仕事はもらえなかったから、女の子としてお店をするんじゃ女の子には負けちゃうんですよね。そう腹を決めてニューハーフとしてお店をやってみたら、一人二人ってお客さんがどんどん来てくれた。

東京で女の子として生きていこうともがいてもダメだったのに、自分のコンプレックスと向き合って認めたら、人生の歯車が動き始めたんですよね。それでとにかくお客さんがめちゃくちゃ面白がってくれたんです。お客さんを楽しませるため、男の声でしゃべったりして今の私のキャラができあがっていった。

芸能人の方もたくさん来てくれましたね。森三中とかいとうあさこちゃんとかほっしゃんとか。みんなで「売れたいね」なんて話して。7名で満席のお店も補助席を置いて10人入って、カウンターの後ろにも立ってもらって。酸欠になるくらい人であふれるお店になったんです。東京に来て5年弱、こんなに楽しい時間なんて持てたことなかった。コンプレックスを受け入れて、充実した毎日を過ごしていたんですけど……。

――また転機が訪れたと?

ある日突然、声が出なくなったんです。病院に行ってみたら慢性のポリープができていて。女の子の声を無理に出していたから、声帯にタコができていたんです。手術もできない状態だったので、筆談で対応していたんですけど、やっぱりお客さんはどんどん減っていって。

どうしようって悩んでいた時、お店で流していた松田聖子さんや松浦亜弥さんの映像に合わせて、口パクでモノマネをやってみたんです。好きだったからMCも全部暗記していたんで、それも全部まねして。そうしたらの芸が生まれたんですね。

つんくさんもお店に来てくれたりと、たくさん芸能人が遊びに来てくださったんですが、その中でも今日の私を作り上げた大きなきっかけになったのは藤原紀香さん。「おもしろい」っていつも楽しんでくれていたんですけど、紀香さんの結婚式でその芸を披露することになって。芸人さんもたくさんいる中、めちゃくちゃ盛り上がったんです。

これがきっかけで「あらびき団」っていう番組に出演したんですけど、どうせ1回きりだろうと思って、私そのまま「ミス・インターナショナル・クイーン」っていう、世界のニューハーフの美人コンテストに出るためにタイに行っちゃったんですよ。

1位を取って向こうで1年間ミスの仕事をするつもりで、事務所も休んで挑んで。それなのに4位だったんですよね。不甲斐ない結果に帰国するのが億劫だったんですけど、事務所に電話してみたら「早く帰ってきて」と。聞いたら「あらびき団」きっかけでオファーが殺到しているっていうんですよ。

それで帰国してみたら、もう大変。寝る暇もないくらい忙しくなったんです。そんなこともあって、今思えばあの時、声が出なくなったことが現在の自分を作り上げるきっかけになったんですよね。

憧れの芸能界でもなくならなかった差別

――そんな背景があったとは、知らなかったです。

ずっとお茶の間に出たかったんですよね。明石家さんまさんとか見て育ったから、お笑い番組にたくさん呼んでもらえるのが本当に嬉しくて。だけど、いくらテレビに出ても差別は無くならないんです。スポンサーNGで番組出演が経ち消えたり、ロケに出たら「気持ち悪い」「お前はここを歩くな」なんて言われたり……。

そんな中でも一番いやなのが、「愛ちゃんには男ってことを言ったらダメ」という腫れ物のような扱い。私はめっちゃいじってもらいたいんですよ。「お前おっさんやんけ!」「おっさんちゃうわ!」っていうやりとりがすごく楽しかったし、みなさんにも笑ってもらいたいんですよ。


――それこそ多様性ですよね。イヤな人もいれば、いじってもらいたい人もいると。

最近ではLGBTQという言葉もできて、みなさんにも受け入れられ始めましたが、私はその間の時代が変わる挾間にいたんだなって。私がテレビに出ることでイヤな思いや辛い気持ちになったかもしれない方もいたかもしれません。

逆に、楽になったとおっしゃってくれる方もいました。本当にいろいろな意見があるんですよね。だけどこれはいいことなのかなとも思う。これまで日本では意見を交わせてこなかったので。

LGBTQの中で私はどれに当てはまるんだろうと考えた時、おそらくトランスジェンダーになるんだけど、自分的になんかしっくりこない。こういうカテゴリーができた場合、それに当てはめないといけないことに窮屈さを抱える人もいるんですよね。

――LGBTQというカテゴリー自体が、しっくりこないんですね。

トランスジェンダーの多くは戸籍を変えるけど、私は性転換手術していても戸籍は変えたくないんです。だって男性の時代を経た今、女性として生きているのが楽しいので。もし戸籍を変えて女性になったとしても、生理が来ないし、ほかの女性と違うことを思い知らされながら生きていかないといけない。私にとっては、これはつらいことなんです。


――戸籍を女性に変えたらつらいと感じるんですね。

そう。男性が無理やり女性の体を手に入れているので、女性として生まれてきた方とは年の取り方だって変わってくる。体を女性に変えて恋愛対象も男性だけど、完全には女性になれないんですよね。

私が最近思うのは、この先もっと年を重ねていった時、パートナーが女の子だってあり得るってこと。たとえ恋愛感情がなくても一緒に楽しく生きていくのもいいかなって。それが家族の愛に変わるだろうし。

私たちは生まれた瞬間、外見のガワは選べない。男だったり、女だったり、体にハンデを抱えていたり。だからこそ、心に魂が宿っているし、みんな違うのは当たり前のこと。みんな違う体を手にしているから、中身は自由でいいと思うんです。何かにカテゴライズする必要なんてないんじゃないかって。


――ご自身がテレビに出られる時、気をつけていることはありますか?

笑ってほしいんですよね。私の家庭も複雑で、ガス栓ひねって死のうっていう時もあったんですよ。だけどそんな家庭がテレビを見て笑えたんですよ。そういう人たちに向けて、今私はテレビに出ているので。つらい環境の中にいても元気になってほしいなって気持ちでやってます。昔の私のような人がテレビの向こうにいるなら、いじってもらって笑ってもらえるようにこの先も頑張っていきたい。


――LGBTQの一人ではなく、はるな愛としてですか?

男とか女とかではなく、“はるな愛”としてお仕事をいただいていると思うんですよね。私にしかできないことがあるからって。こうして自分に素直に生きていく人生にして、最後には「大西賢示の人生最高やった」に思いながら命を全うしたいですね。性に縛られることなく、そういう選択を常にしていきたいです。

男であることを思い知らされた性転換手術

――性転換手術をしたことで、生きていくのが楽になりましたか?

そうですね。当時の彼には「別にしなくてもいいんじゃない?そのままの愛でいい」って言ってもらっていたんですが、やっぱり女の子の体になってみたかった。覚悟もしたし、後悔なんてしないと決めていたのに、やっぱり手術は怖かった。目が覚めないこともあるなんて言われたこともあって、当然親にも言えなかった。手術の直前にママに電話したけど、なんでもないふりをして電話切っちゃった。


――ご両親に言えなかったんですね。

はい。男の子であるものを手術するっていうのは、これまでの自分へのけじめでもあったし、出発でもあったから後悔なんてしない。だから両親とはずっと深い溝ができていたけど、いつか必ず理解してもらえる自信はあったんです。それでもやっぱり言えなかったですね。


――手術後、どんなお気持ちになられたんですか?

手術直後は、下着を買いに行ったりしてワクワクしてましたね。だけど、女性の膣って奥まであるのに対して、私たちのは行き止まりなんですよね。この行き止まりは掃除しないといけない。そういう事実に直面した時、完全には女の子にはなれないと。外見や愛し合う行為はそれっぽくあっても、やっぱり男なんだって気付く手術ではありました。


――それでも後悔はなかったんですか?

親には絶対に言えないけど、正直ありますよ。子どもを見たら欲しいなって思うことだってあるし。でも男としては生きていけない。もし無理して女性と子どもを作ったとしても、嬉しいとは思うだろうけど、女として生きたいという気持ちは消えない。そっちの方が後悔すると思います。だから性転換手術の後悔は、親の前では絶対に口にしない。

――その後、ご両親との溝はなくなったんですか?

両親は離婚しているのですが、お母さんに会いにいったことがあったんです。その時はすでにテレビに出ていたので、お母さんはニューハーフの私の姿を知っていたけど、胸にサラシを巻いてダボダボのトレーナーを着て、髪の毛もまとめて眉毛も太く描いて賢示の姿で行ったんです。

そうしたら「もう愛ちゃんって呼ばなあかんな」って言ってくれて、お風呂上がりにはピンクのくまさんのパジャマを用意してくれたんですよ。幼少期はあれだけ女の子のものを着るのを嫌がっていたのに。それがめちゃくちゃ嬉しくてお風呂で泣きましたね。お母さんも私のことを理解しようと努力しているってわかった時、私もお母さんの自慢になれるような人間になろうと思いました。


――最後に、性同一性障害に悩まれている方にメッセージをいただきたいです。

本当に、自分らしく輝ける人生を送ってほしいと思います。いろんなことを言う人がいる一方で、個性を認め合える瞬間に生きている今の時代、わかってくれる人もたくさんいると思う。ただ、私たちだけが特別ではなくて、みんな一緒の人間でみんなにも悩みがあるということは覚えていてほしいですね。隣の人だって助けを求めているかもしれないし、そういうことを理解していられるといいなと思います。

別に性転換手術してもしなくてもいいし、男の人になるのも女の人になるのも自由。誰を好きになってもいい。これからいろんな人の個性を認め合える世の中によりなっていくと思うので、人が悲しむことさえしなかったら自由に生きていい。一度きりの人生なので後悔しないように生きてほしいです。

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