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大東亜戦争・太平洋戦争・第二次世界大戦…呼び方色々、何が違うの?

戦争の呼び方をめぐっては、第二次世界大戦・大東亜戦争・太平洋戦争など、様々な名称が使われています。それぞれの名称の違いとは?

校庭で教練を実施する大阪の大手前高等女学校=1938年7月1日
校庭で教練を実施する大阪の大手前高等女学校=1938年7月1日 出典: 朝日新聞

目次

 戦争の呼び方をめぐっては、第二次世界大戦・大東亜戦争・太平洋戦争など、様々な名称が使われています。呼び名によって、戦争の意味も変わってくると言います。それぞれの名称の違いとは?

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戦前は、閣議で決定

 戦前、戦争の名称は政府が閣議で決めていました。1931年9月の柳条湖事件に始まる戦争は、「満州事変」と呼ばれました。1937年7月の盧溝橋に始まる日中全面戦争は、近衛内閣によって初めは「北支事変」、その後「支那事変」と改称されました。1941年12月に始まった日米戦争は、内閣情報局によって「大東亜戦争」と名づけられました。

一日入営で牽引車に乗ったこどもたち=1939年10月15日、東京・世田谷の野戦重砲隊
一日入営で牽引車に乗ったこどもたち=1939年10月15日、東京・世田谷の野戦重砲隊
戦前は戦争の名称は、政府が閣議で決めていた。一九三一年九月の柳条湖事件に始まる戦争は、一般に「満州事変」と呼ばれた。三七年七月の盧溝橋に始まる日中全面戦争は、近衛内閣によって初めは「北支事変」、ついで「支那事変」と改称された。四一年十二月に始まった日米戦争は、内閣情報局によって「大東亜戦争」と名づけられた。
1994年9月19日:衝突する世界観 定まらぬ「大戦」の視点(漂流する「戦争」:8):朝日新聞紙面から

「大東亜戦争」VS「太平洋戦争」

 「大東亜戦争」については、敗戦直後、「太平洋戦争」を使う勢力との間で対立がありました。結局、連合国軍総司令部(GHQ)が「大東亜戦争」の使用を禁止したことで、「太平洋戦争」が主流になりました。背景には「大東亜戦争」の呼び名に対して、侵略戦争を肯定するという意味合いが強いという意見が根強かったことがあります。

石川県・能見郡根上町の浜国民学校で行われていた「米英撃滅訓練」=1943年
石川県・能見郡根上町の浜国民学校で行われていた「米英撃滅訓練」=1943年 出典: 朝日新聞
敗戦直後は、「大東亜戦争」対「太平洋戦争」の対立が強かった。前者はアジア大陸戦線を含むから旧陸軍系が好み、後者は海戦のイメージで旧海軍系が使った。が、連合国軍総司令部(GHQ)の前者の禁止で、「太平洋戦争」が主流となった。
1994年9月19日:衝突する世界観 定まらぬ「大戦」の視点(漂流する「戦争」:8):朝日新聞紙面から
太平洋戦争の呼び方について藤原彰・一橋大学名誉教授(日本近現代史)は「大東亜戦争という名称は、真珠湾攻撃の二日後に大本営政府連絡会議で決定され、名付けられた」と指摘。文部省教科書課は「『大東亜戦争』という言葉は、侵略戦争を肯定する意味合いを持つので、戦後は一般的に太平洋戦争という名称を使っている」と言う。外務省大臣官房報道課では「『大東亜戦争』という言葉は侵略戦争を思わせるのであまり使ってはいない」と話した。
1999年12月3日:5団体が取り消し申し入れ 「大東亜戦争と国際裁判」上映:朝日新聞紙面から

太平洋戦争(大東亜戦争)は、第二次世界大戦の一部

 第二次世界大戦は何を指すのでしょう? 第二次世界大戦は1939年に勃発、1945年に終結しました。その間に起きた、太平洋戦争(大東亜戦争)は第二次世界大戦の一部になるという意見が主流になっています。

真珠湾攻撃で炎上する米戦艦ウエストバージニア=1941年12月8日
真珠湾攻撃で炎上する米戦艦ウエストバージニア=1941年12月8日 出典: 朝日新聞
太平洋戦争にせよ大東亜戦争にせよ、第二次世界大戦の一部である。この点に異論のある人は、おそらく皆無だろう。派ごとに独自の呼び方を主張するのは自由だが、対話を成り立たせるには「第二次大戦」のような共通語を大事にすべきだ。「太平洋戦争」だって共通語の資格がないわけではない。四一年十二月、日米開戦から三日目の政府・大本営連絡会議で海軍が、この呼称を提案している。陸軍が「大東亜戦争」を強く主張し、二日後の閣議でも陸軍案が通ったため、日の目を見なかったが、敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が報道機関などに「大東亜戦争」の使用を禁じ、代用語として息を吹き返した。
1993年9月3日:軍人にも優れた言語感覚の人が(溝やんの話の横丁):朝日新聞紙面から
39年9月には第2次世界大戦が勃発。ドイツ軍はワルシャワ(ポーランド)やロッテルダム(オランダ)の市街地を爆撃した。さらに、英独両軍による都市空襲が互いに繰り返され、ロンドンで数万人が犠牲に。ドイツ側もハンブルクやブレーメンなどが攻撃され、数十万人が亡くなった。
2015年3月10日:(戦後70年)空襲、街ごと標的 火の海に:朝日新聞紙面から

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