我が子のように育てた牛が…原発事故で殺処分になった乳牛、紙芝居に
震災直後の状況を紙芝居で伝える石井さん=2020年10月、福島市、三浦英之撮影
震災直後の状況を紙芝居で伝える石井さん=2020年10月、福島市、三浦英之
ボランティアらと一緒にエゴマの収穫をする石井さん(右)=2020年10月、福島市、三浦英之撮影
エゴマ畑を背景に写真を撮る石井さん(右)=2020年10月、福島市、三浦英之撮影
生後3カ月の孫を抱きかかえる石井さん=2020年10月、福島市、三浦英之撮影
スケッチブックに「農家の人が働ける場所」と書いてくれた石井さん=2017年9月、福島県浪江町、三浦英之撮影
取材で宿泊した高台の宿泊施設には津波で流された水道施設の残骸が残されていた。施設の関係者は「津波は20メートルは上がったのではないか」と話した=2020年11月、宮城県女川町、三浦英之撮影
取材で訪れた高台の宿泊施設には津波で浸水した高さが表示されていた。施設関係者は「1階は水で浸水したんだ」と話した=2020年11月、宮城県女川町、三浦英之撮影
女川原発近くの道路に設置されている「津波浸水区間」の標識と「なくせ! 原発」の看板=2020年11月、宮城県女川町、三浦英之撮影
女川原発を前に震災当日の出来事を振り返る今野寿美雄さん=2020年11月、宮城県女川町、三浦英之撮影
浪江町役場津島支所には東和地区へと避難を呼びかける黒板書きが残る=2018年9月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
津島公民館の入り口には今も「児童クラブ」の看板が掲げられている=2020年12月、福島県浪江町、三浦英之撮影
かつて児童クラブが入っていた津島公民館の前には今、黒いフレコンバッグが積み上げられていた=2020年12月、福島県浪江町、三浦英之撮影
児童クラブで遊ぶ子どもたちの写真を見つめ、震災当時を振り返る佐々木加代子さん=2020年11月、福島市宮代、三浦英之撮影
避難先で手作りの干し柿を見つめ、津島での暮らしを振り返る佐々木加代子さん=2020年11月、福島市宮代、三浦英之撮影
主や牛を失い、ガランとした牛舎=2020年7月、福島県浪江町、三浦英之撮影
牛のいない牛舎に立つ紺野宏さん=2020年7月、福島県浪江町、三浦英之撮影
築200年以上の紺野さんの古民家=2020年7月、福島県浪江町、三浦英之撮影
大広間で先祖の写真を見上げる紺野さん=2020年7月、福島県浪江町、三浦英之撮影
避難先の福島市で取材に応じた岸チヨさん。「希望は捨てない」とスケッチブックに書いてくれた=2018年2月、福島市、三浦英之撮影
仮設住宅に住んでいた頃の岸チヨさん=2012年4月、福島市、前田基行撮影
旧津島村の旧宅を訪れた岸チヨさん=2018年4月、福島県浪江町、三浦英之撮影
避難先の臨時診療所で避難者の診察をする関根俊二さん(中央)=2011年4月、福島県二本松市、田内康介撮影
新しい仮設津島診療所に立つ関根医師=2020年9月、福島県二本松市油井、三浦英之撮影
愛用のかまどを見つめる石井ひろみさん=2020年10月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
津島の名家として知られた石井さんの自宅=2020年10月、福島県浪江町、三浦英之撮影
放射線量を測定するため屋内のチリを集める石井さん=2020年10月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
石井さんがかつて使っていたかまどと調理場=2020年10月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
地震を受けて激しく散らばったままの石材工場のなかを歩く末永一郎さん=2018年9月、福島県浪江町、三浦英之撮影
末永さんの自宅のこたつの上には、避難する直前の2011年3月14日の朝刊がそのまま置かれていた=2018年9月、福島県浪江町、三浦英之撮影
大玉村の自宅と墓を移した末永一郎さん。「それぞれの決断を尊重するべきだと思う」と述べた=2020年8月、福島県大玉村、三浦英之撮影
津島の人々に囲まれて、嬉しそうに笑う門馬和枝さんの長男(中央)(2008年、門馬さん提供)
津島で暮らしていた頃の家族アルバムを見つめる門馬和枝さん=2020年10月、福島県相馬市、三浦英之撮影
雪が降ると子どもたちと一緒にかまくらを作った。津島ではいつも大自然が身近にあった(門馬和枝さん提供)
今野洋一さんの自宅の窓に掲示されていた、東電を皮肉る内容の文面=2018年9月、福島県浪江町、三浦英之撮影
筆書きの文面を掲示していた自宅の窓の写真を掲げる今野洋一さん=2020年10月、福島県須賀川市、三浦英之撮影
今野さんの避難先に飾られている、かつての自宅周辺の空撮写真=2020年10月、福島県須賀川市、三浦英之撮影
「津島原発訴訟」で今野洋一さんの自宅の周辺を視察する裁判官ら=2018年9月、福島県浪江町、三浦英之撮影
三瓶春江さんの実家は背丈を超える高さのススキに覆われていた=2020年10月、福島県浪江町、三浦英之撮影
両親の写真を手に持つ三瓶春江さん=2019年9月、福島市、三浦英之撮影
旧満州で暮らしていた頃の三瓶春江さんの両親の写真(春江さんの姉・今野千代さん提供)
春江さんの実家の台所。震災当時の姿のまま残されている=2020年10月、福島県浪江町、三浦英之撮影
「津島原発訴訟」の集会で、無罪判決が出た刑事裁判への違和感を述べる三瓶春江さん=2019年9月、福島県郡山市、三浦英之撮影
赤宇木集落の集会場=2020年10月、福島県浪江町、三浦英之撮影
帰還困難区域への立ち入りを制限するフェンス。旧津島村は森で覆われている=2020年9月、福島県浪江町、三浦英之撮影
放射線学習会で参加者の質問に答える木村真三・獨協医大准教授=2020年9月、福島県二本松市油井、三浦英之撮影
お墓の掃除をする佐々木やす子さん=2020年7月、福島県浪江町、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
原発事故で住めなくなった自宅の周囲は背丈ほどもある夏草に覆われていた=2020年7月、福島県浪江町、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
家族の笑い声が響いていた自宅は高線量で住むことができなくなった=2020年7月、福島県浪江町、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
佐々木さんが常に持ち歩いている次男の写真 出典:朝日新聞社
夏草に覆われた今野美智雄さんの自宅=2020年8月、福島県浪江町、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
自宅の中から、かつて「庭だった場所」を見つめる夫婦=2020年8月、福島県浪江町、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
自宅前の牛舎に立ち寄ろうとした今野さん。夏草が生い茂り、前に進めなかった=2020年8月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
夏草に覆われた自宅と屋根を見上げる今野さん=2020年8月、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
避難生活を送る三浦ミンさん。寝室には思い出の写真が飾られている=2019年12月23日午後、福島市、小玉重隆撮影 出典:朝日新聞社
旧津島村の記憶があった頃の三浦ミンさん=2018年1月、福島市、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
ミンさんの自宅の寝室に置かれている女の子の人形=2018年2月、福島県浪江町赤宇木集落、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
台所に残された、ミンさんが使っていた調理道具=2018年2月、福島県浪江町・赤宇木集落、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
亡くなった愛犬リリーの写真が貼られたアルバム=2020年9月、福島県大玉村、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
2011年3月16日早朝、旧津島村に降り積もった雪と愛犬リリー。この中に大量の放射性物質が含まれていたとみられている(今野秀則さん撮影・提供) 出典:朝日新聞社
自宅から持ち出したアルバムを見つめる今野秀則さん=2020年8月、福島県大玉村大山、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
津島診療所で撮影された「最後の写真」。時計の針は午後4時前を指している=2011年3月11日、福島県浪江町、今野千代さん提供 出典:朝日新聞社
津島診療所前で列を作る人々=2011年3月14日午前、福島県浪江町、三瓶宝次さん提供 出典:朝日新聞社
震災直後の診療所の様子を振り返る今野千代さん=2020年7月、福島市、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
町中心部から避難する車で渋滞する国道114号=2011年3月12日午後1時47分、福島県浪江町、浪江町提供 出典:朝日新聞社
旧津島村・赤宇木集落の記録誌を作り続ける今野義人さん=2018年2月、福島県白河市、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
今野義人さんの取材ノート。赤宇木の方言などが細かな字で書き記されている=2019年12月、福島県白河市、小玉重隆撮影 出典:朝日新聞社
国道114号からのぞむ旧津島村の集落。「DASH村」としても知られる。帰還困難区域のため、いまも立ち入りが制限されている=2017年9月20日、福島県浪江町、内山修撮影 出典:朝日新聞社
旧津島村の商店街の民家に掲げられた「手紙」。原発事故を起こした東京電力への皮肉が記されている=2018年9月27日、福島県浪江町、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社
津島原発訴訟で旧津島村の商店街などを視察する裁判官ら=2018年9月、福島県浪江町、三浦英之撮影 出典:朝日新聞社