挫折ばかりのラガーマン、デュアルキャリアを切り開くまで
高校3年の時、東京代表としてオーストラリアに遠征し、3戦全勝をした。「この時主将を務めていたため、カタコトの英語で必死にスピーチをしました」=本人提供
現役時代、相手選手にタックルをする朱さん=本人提供
千葉にあるライオンラグビー部グランドにて。中央の白いキャップをかぶっているのが、当時主将を務めていた朱さん=本人提供
24歳でライオンに転職し、ラグビーチーム「ファングス」のクラブチーム化を推進した朱賢太さん(中央)=本人提供
法政大学4年時、中央大学と対戦。オレンジのユニフォームが法政大学。スクラムを組む中央が朱さん=本人提供
現役時代の朱賢太さん=本人提供
法政大学時代、国立競技場で試合をした。ボールを投げ入れる朱さん(手前の背番号2)=本人提供
「開催延期が決まった時は、椅子から転げ落ちましたが、数年後には『新たなチャンスだった』と思えるようになったらいいなと思います」(朱さん)
2007年にライオンからリクルートHRマーケティング(現リクルートジョブズ)に転職し、現在は東京2020組織委員会に出向中の朱さん
「ライオン時代、クラブチーム化の相談相手だった当時のラグビー部部長(現・取締役)の小林健二郎さんとは今も時々食事をご一緒する仲です」(朱さん)。
2007年にライオンからリクルートHRマーケティング(現リクルートジョブズ)に転職し、現在は東京2020組織委員会に出向中の朱さん