軍艦島、閉山前の白黒写真 子どもの歓声・岸壁で釣り・豪快な酒盛り
【1956年8月】遊び場がない端島では高層アパートの狭い廊下が子どもたちの過ごす場
【1956年8月】コンクリートの岸壁で投げ釣りをする端島の住民 (2)
【1974年1月13日】閉山を迎えた「軍艦島」。鉱員たちは坑導ポンプ引き上げなど最後の作業を終え、もう坑道に下がることはない。さびしさと満足感が漂っていた
【1948年年夏】1948年夏、日本のエネルギー産業の一翼を担う長崎県の石炭の島「軍艦島」。窓に灯がついた夜のビル。映画「望郷」のアルジェリア・カスバの町の趣がある、と島の青年はいう
【1948年年夏】日本のエネルギー産業の一翼を担う長崎県の石炭の島「軍艦島」。わずかな道路で野球する子どもたち。本塁と一塁しかない「道路野球」
【1948年年夏】日本のエネルギー産業の一翼を担う長崎県の石炭の島「軍艦島」。上方は海水タンク、その手前は「山の神」を祭る神社。海水タンク左とそのやや左手前のやぐらは立坑の入口
【1948年年夏】日本のエネルギー産業の一翼を担う長崎県の石炭の島「軍艦島」。便所や下水の洗浄用などにくみ上げられる海水
【1948年年夏】日本のエネルギー産業の一翼を担う長崎県の石炭の島「軍艦島」。岸壁から釣り糸を垂らす島民。チヌがよく釣れる
【1948年年夏】日本のエネルギー産業の一翼を担う長崎県の石炭の島「軍艦島」。掘り出した石炭を積む炭鉱船
【1948年年夏】日本のエネルギー産業の一翼を担う長崎県の石炭の島「軍艦島」。水汲みに集まる主婦たち。飲料水は定期船が長崎から運び、750トン入りのタンク2基に貯める
【1948年年夏】日本のエネルギー産業の一翼を担う長崎県の石炭の島「軍艦島」。洋裁をする若い女性でにぎわう労働組合事務所2階
【1956年3月12日】対岸から望遠レンズで撮影した端島
【1956年8月17日】台風9号の通過で九州・中国地方などに死者・行方不明38人の被害が出た。倒壊した長崎県・軍艦島西側の2階建ての端島鉱事務所
【1956年8月17日】台風9号の通過で九州・中国地方などに死者・行方不明38人の被害が出た。写真は全滅した長崎県・軍艦島商店街の復興へ向けて主婦ら大活躍
【1956年8月17日】台風9号の通過で九州・中国地方などに死者・行方不明38人の被害が出た。写真は台風一過、希望を胸に長崎県西彼杵郡高島町の軍艦島の廃虚の中を仕事場へいく鉱員
【1956年8月17日】台風9号の通過で九州・中国地方などに死者・行方不明38人の被害が出た。写真は被害をうけた長崎県の軍艦島南西海岸。岸壁も家も崩れている
【1956年8月】コンクリートのアパートで小鳥を育てて楽しむ端島の住民
【1956年8月】コンクリートのアパート群の空き地で商売を営む露店
【1956年8月】コンクリートのアパート群の空き地で商売を営む露店
【1956年8月】端島の商店
【1956年8月】端島の映画館「昭和館」
【1956年8月】端島の映画館「昭和館」
【1956年8月】端島の高層アパートの共用洗い場。洗い桶と洗濯板を使う
【1956年8月】緑のない島。植木鉢で植物を育てて楽しむ端島の住民
【1956年8月】緑のない島。植木鉢で植物を育てて楽しむ端島の住民
【1956年8月】緑のない島。植木鉢で植物を育てて楽しむ端島の住民
【1956年8月】遊び場がない端島では高層アパートの狭い廊下が子どもたちの過ごす場
【1956年8月】遊び場がない端島では高層アパートの狭い廊下が子どもたちの過ごす場
【1956年8月】遊び場がない端島では高層アパートの狭い廊下が子どもたちの過ごす場
【1973年2月6日】軍艦島でアパート全焼。焼けただれた三菱高島炭砿高島鉱業所の24号アパートの焼け跡
【1974年1月13日】採炭部会の解散式。現場の第一線で働いてきた男たちは式の後、4斗だるのカガミを抜き「どこへ行っても住所しらせるけん」「元気でな」と、威勢よく酒を飲み交わした
【1974年1月13日】閉山を迎えた「軍艦島」。鉱員たちは坑内のわき水をくみ出し続けた坑導ポンプを運び出すなど最後の作業を終えた
【1974年1月13日】閉山式2日前、採炭部会の解散式が行われた
【1974年1月14日】閉山を迎えた「軍艦島」。鉱員たちは坑内に電力を贈り続けた「動脈」の防壕コード類を地上に揚げ、最後の作業を終えた
【1974年1月15日】「軍艦島」の閉山式には鉱員や主婦たちも参加して緊張した面持ちで式の進行を見守った
【1974年1月15日】地元の端島小中学校体育館であった「軍艦島」の閉山式。岩間正男社長、親会社の大槻文平三菱鉱業セメント社長、先住繁・端島労組組合長らはそれぞれあいさつの中で、エネルギー危機下の閉山を惜しみ、会場を埋めた約700人は無言で聞き入った
【1974年1月31日】「さようなら」と端島小学校の先生や友達に別れのあいさつをして一足先に軍艦島を離れていく児童
【1974年1月31日】一足先に去る同僚に「さようなら、お互い頑張ろう」と別れのあいさつを交わす家族たち
【1974年1月31日】離職者の引っ越し作業が始まった。24棟の鉱員アパートは最高10階建てだがエレベーターがない。屋上に取り付けた滑車を使い、ロープで谷底のような地上へ家財道具を降ろす
【1974年2月1日】住み慣れた軍艦島を去っていく長木さん一家。悲しみがこみあげ、思わず目頭を押さえるハツエさん
【1974年2月1日】閉山を迎えた「軍艦島」。従業員は家財道具の荷づくりにあわただしい
【1974年2月1日】離職者の退職金は平均250万円といわれた。従業員や家族は預金獲得の銀行マンに追われる
【1974年3月】閉山を迎えた「軍艦島」。その引っ越しは、さながら民族の大移動
【1974年3月】閉山を迎えた「軍艦島」。その引っ越しは、さながら民族の大移動に似ている。上階の荷物はワイヤーでつり下げて港へ運ぶ
【1974年3月】閉山を迎えた「軍艦島」。ほとんどのアパートは戦後建てられたもの。便所は共同、2DKで家賃は10円。日の当たらない部屋も多く、割り当ては勤続年数、家族数などで決められた
【1974年3月】閉山を迎えた「軍艦島」。職員のほとんどは閉山とともに島を去った。なかば無人化し、潮風の吹きぬけるアパートも多い
【1974年3月】閉山を迎えた「軍艦島」。軍艦島の名は1921年、地元の新聞が軍艦「土佐」になぞらえたことに始まる。石炭の要塞として“不沈艦”の名をほしいままにしてきた
【1974年3月】閉山を迎えた「軍艦島」の引っ越し風景。島ごとの引っ越しだけに、1日の処理能力は10軒ほど
【1986年3月】空からみた長崎県高島町の軍艦島。正式名は端島。長崎港から1時間ほどの海上に浮かぶ。面積6・3ヘクタール。三菱高島鉱業の炭坑があり、島民4300人のほとんどが炭坑で働いていた。9階建ての鉄筋コンクリート住宅が立ち並び、役場、警察、病
【1998年12月28日】陽光に映える「軍艦島」
【1999年1月6日】風化が進む鉱員アパート
【1999年1月6日石炭積み出し用コンベヤーの支柱がまるで遺跡のように残っていた