グルメ
フランス料理を食べ歩いた料理人の〝はたちメシ〟食への興味を育んで

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二十歳の頃、何をしていましたか。そして、何をよく食べていましたか?
久しぶりに食べた「はたち」の頃の好物から、あなたは何を思うでしょうか。
今回は、父の料理店を継いだ男性の〝はたちメシ〟です。
篠原立樹(しのはら・たつき)さん:レストラン経営。1981年、東京都荒川区生まれ。高校卒業後に辻調理師専門学校へ進み、東京校と大阪の辻調理技術研究所で1年ずつ西洋料理を学ぶ。その後は父の営む料理店『おーどぶるハウス』でコックとして働いたのち、22歳で渡仏しフランス料理店で半年ほど勤務。帰国後は再び父と働き、2020年に代替わりして現在に至る。都内で妻、2児、両親と暮らす。
5月の半ば、東京の町屋駅に降りれば線路脇はバラが満開だった。
都電の荒川線沿いにたくさん植えられていて、色もとりどり。駅のまわりを歩いてみると、生花店が多いのも印象的だ。
「うーん、なんでだろう。町屋斎場があるから需要が多いのかもしれません。住みやすいところって言われますね、町屋は。電車が都電と京成本線、千代田線と3本走っていろいろ出やすいし、スーパーも多い。一度住むと出ていく人、あんまりいないんです」
そう教えてくれたのは、篠原立樹さん(44)。生まれも育ちもここ町屋である。
生家の1階で営む飲食店『おーどぶるハウス』の2代目だ。店を訪ねると、目の前が大きな空き地となっている。
「銭湯だったんです、去年の9月まで。町屋も景色がどんどん変わっていきます。このへん、釣り堀が3軒もあったんですよ。駄菓子屋ももっとあったし。下町情緒の残るエリアって言われるけど、昔の風景とは全然違います」
家の前でボール遊びをしてたら球が銭湯に入ってしまった思い出や、「小中の頃は100円のもんじゃと駄菓子で育った。あんこ玉が好きでしたね」なんて話を聞かせてくれる。
活発そうな下町少年が頭に浮かんできた。当時はひょっとして、ガキ大将だろうか。
「作ってみては親に食べてもらい、反応が楽しみでした。高校卒業後は料理の専門学校に行こうと決めて。いろいろ学校を見て選んだのは、辻調理師専門学校。体験入学で食べたビーフ・ストロガノフがおいしかったんです(笑)」
フレンチのシェフになりたい、と思ったのがまさにはたち前の頃。高校生のとき、父親と行ったビストロでおいしさに感銘を受けた。
「あとまあ……シェフってカッコいいなと思って」と笑う。
父親はもともと海外のホテルで働き、帰国後「まだ日本でなじみのないお酒や料理を広めたい」という思いから飲食店を始めた人。彼の影響も強かったと思われる。
さて、篠原さんの「はたちメシ」といえばなんだろうか。
「フランス料理への興味しかない頃で、家を手伝いながらフレンチばかり食べ歩いていたんです。ひとつ挙げるなら……あるレストランで衝撃を受けた、フォアグラのテリーヌかな。抜群においしかった。そこはメインもデザートも何もかもがおいしくて、こんな料理を作ってみたい……と心から思いました」
はたちになる頃に食べて、人生を決定づけた一品だった。
卒業後には都内の某フランス料理店で働き始める。そして彼は「ボコボコにされ」てしまった。
指導、教育という名のもとに料理界での暴力は珍しくない時代だった。時は2000年前後。私も当時、ある飲食店を取材していて、若い調理人が上の人間から「ぐずぐずしてんじゃねえよ」と蹴りを入れられたり、小突かれたりしているのを実際に見たことがある。
それが悪いこと、非道なこととされない「異常」な時代だったと振り返って思う。
暴力の毎日から「精神的にもショックを受けて、味を感じられない」ようにまでなった。
店は辞めて、実家で父と共に働くようになる。ただフランス料理への憧れは消えず、22歳のときには現地のレストランで働くことに。
「ミシュランを見ながら目星をつけて、働かせてほしいとあちこちに手紙やファックスを送ったんです。一軒だけマダムが電話をくれて、来てもいいよと。ボージョレー地方のフルーリー村にあるレストランでした」
どんなお店だったか尋ねれば、「おいしかったし、みんな人が良かった。あんないいレストラン、ないです……!」と即答される。
その表情から店の温かな雰囲気が伝わってくるようだった。当時習ったもののいくつかは、現在も定期的に作っている。
学びが楽しい幸せな時期だったが、ビザの関係から半年で一旦帰らなければならない。
またすぐ戻ろうと考えていたが、篠原さんの母親が怪我をされ、家を空けることがむずかしくなり、再渡航はかなわなかった。
以来独学で自分なりの料理を作り上げてきた。両親が5年前に引退して、現在はひとりで店に立つ。
「父と働きながら、少しずつ自分の作りたいものを加えて来た」というメニューを開けば、テリーヌやグラチネといったフランス料理から、ハンバーグにオムライスなど日本洋食もが並ぶ。
そしてワインと共に日本酒、それも燗酒とのペアリングを10年ほど前から提唱している。
「和食の方と親しくなって、日本酒のおいしさを教えてもらって。燗酒と西洋料理との相性の良さに驚いたんです。酸味、油、乳製品、どれともしっかり合って引き立てあう。食中酒として、これはいいなと」
サラダやフリット、バターにクリームソースなど、どれにも燗酒はうまいこと寄り添ってくれる。
私も以前こちらのお店で、熱々のグラタンスープと燗酒の相性の良さに目を丸くした。こんなことを思いつく人はどんな人生を歩んできたのだろうと知りたくなって、今回訪ねたのだった。
「年を経るうちいろんな繋がりができて、食への興味も広がっていきました。はたちの自分にもし声がけするなら、フレンチにこだわらず、もっと広い視野でいろんな経験しなよ、と言いたいかな」
30代で得た人脈によって多くの発見があり、作る料理、提供する酒の幅が広り、また客層も広がった。今では来店する人の9割が電車に乗ってやってくる人たちだという。
「引っ込み思案で」「暗い性格」と子ども時代を評したが、今ではその影を感じられない。実際はどうだろう。
「基本的には変わらないんですよ。でも酒場なんだし、店主が暗くちゃね(笑)。だから気負わずラフにいこうと、あるときから決めました。30歳で結婚して子どもができた頃かな。背負うものができた頃に」
ふっきれた感じが頼もしい。フランス料理への興味から人生を歩み出して、来年はコック生活25周年。
「こういうのが僕の大切にしたい料理です、というのを安定して出せるようにはなったと思います」とはっきりと、笑顔で言われた。
取材・撮影/白央篤司(はくおう・あつし):フードライター、コラムニスト。「暮らしと食」をテーマに、忙しい現代人のための手軽な食生活のととのえ方、より気楽な調理アプローチに関する記事を制作する。主な著書に『自炊力』(光文社新書)『台所をひらく』(大和書房)『のっけて食べる』(文藝春秋)など。近著に『名前のない鍋、きょうの鍋』(光文社)、『はじめての胃もたれ』(太田出版)、『はじめましての旬レシピ』(Gakken)など。
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