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医療ミスで逝った愛猫、慰謝料は〝10万円〟「家族同然」でも民法は

愛猫を「医療ミス」で失っても、慰謝料は〝10万円〟ーー。民事裁判を担当する記者が目に留めたのは、あるペットの死をめぐる裁判でした。調べると、「民法」での動物の位置づけが背景にあることがわかりました。人間とペットの関係性は大きく変わったのに、動物を「モノ」とみなす民法のままでいいのだろうか……。そんな思いがよぎり、動物をめぐる裁判やトラブル、海外の制度の取材にとりかかりました。(朝日新聞記者・米田優人)
筆者は7年前から、飼い主がいなかった2匹の「保護猫」と暮らしています。
彼らは毎朝、高い声で「ニャアー」と鳴き、ご飯をねだります。仕事で疲れた体で帰宅すると、玄関の前でちょこんと座って出迎えてくれます。深夜、急に部屋のベッドの上で走り出し、筆者のおなかを踏んづける時は困りますが、思わず笑ってしまいます。
嘔吐が続いたり、目の充血がひどくなったりすると、動物病院に連れていきます。診察券には「米田ちゃろ」「米田ももたろう」と名前が書かれています。
2匹は、生活をともに支え合う「相棒」。手のかかる「子ども」のようでもあります。どちらにしても、間違いなく「家族の一員」です。
筆者は、東京地裁と東京高裁で扱われる民事裁判の取材を担当しています。昨秋、こんな判決が言い渡されました。
愛猫を亡くした飼い主の夫婦が「医療ミス」を理由に獣医師を訴えた裁判。高裁は獣医師に賠償を命じました。
猫と暮らす身としては、ひとごととは思えません。裁判の記録を読んで驚いたのは、飼い主の精神的苦痛に対する「慰謝料」の金額でした。
10万円。
一般的に、人の死に関する裁判で認められる慰謝料は、数千万円ほどです。「命の値段」の差が、あまりにも大きいのでは……。疑問が膨らみました。
過去の裁判例を調べても、ペットの死に関する慰謝料は数万円から数十万円ほどでした。
裁判を終えた夫婦を訪ねました。愛猫「ルシダ」の話になると、目を細め、思い出を語ってくれました。
頭が良い子で、おやつやご飯の時は「お手」をしてくれたこと。車から景色を見るのが好きだったこと。
写真を何枚も見せてもらいながら伺った一つ一つのエピソードに、ルシダが夫婦にとって「家族の一員」だったことが伝わってきました。
夫婦はルシダの死後、文献を読み込んだり専門家に会ったりして、死の真相に迫ろうとしました。取材中は、難しい医療用語さえもすらすらと使いながら説明してくれました。
「賠償額は少なく費用対効果がよくない」と弁護士に反対されても、「責任を認めて謝罪してほしい」という一心で提訴し、判決まで、ルシダの死後6年を戦いました。
人もペットも、身近な命を突然失った「家族」の気持ちは変わらないのではないか。夫婦の取材を終え、そう感じました。
なぜ、ペットの死に関する慰謝料は低く抑えられているのでしょうか。人との共生をうたう動物愛護法が、動物を「命あるもの」と定めているのとは大きく異なり、矛盾するように感じました。
動物に関わる法律に詳しい弁護士や学者の話を聞くと、「民法」での動物の位置づけが背景にあることがわかりました。
民法では、不動産以外の物はすべて「動産」に含まれるとされていて、動物もそこに含まれています。動産は「モノ」とみなされます。
裁判では原則、モノが壊された場合、モノの財産的な価値を賠償して損害を回復できると捉えているため、精神的苦痛に対する「慰謝料」は認められません。
民法での動物に対する考え方は、明治時代の1898年に制定されて以降、根本的に変わっていません。
ただ、ペットの死は、事情によっては慰謝料の対象にされます。民法上の動物は「モノ」ですが、裁判所が「単なるモノ」とはいえない、と捉えているためです。飼い主の心情に配慮する判断だとみられ、金額も過去と比べると増えつつあります。
動物が虐待されたり放置されたりしていても、すぐに救い出せないーー。動物をめぐってはそんな問題も起きていて、民法が定める「所有権」が壁になっていることもわかりました。
たとえば2021年、東京都武蔵村山市で、一軒家で独り暮らしをしていた高齢女性が亡くなっているのが見つかり、その傍らに二十数匹の猫が残されていました。ネコたちはどうなったのか取材してたどると、「所有権」をめぐって保護が大きく遅れていました。
超党派の国会議員連盟は25年、「緊急一時保護制度」の導入などを含む動物愛護法の改正をめざしています。
動物福祉の考え方が進む欧州では、民法で「動物はモノではない」と定める国が複数あります。一方で、明治時代につくられた日本の民法は「モノ」扱いのまま、現在にいたっているのです。
「動物に優しい国は、人にも優しい」。今回の取材で聞いたこの言葉が、耳に残っています。
筆者と暮らす猫は幸い、今のところ命に関わる病気にはかかっていませんが、いつ何があるかわかりません。彼らを失った時を想像すると、胸が詰まります。スヤスヤと寝息を立てて眠る猫をみて、改めて思います。彼らはやっぱり「モノ」ではない、と。
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