連載
#32 名前のない鍋、きょうの鍋
「家で包丁使いたくない」カレー店主 柑橘と大葉で〝名前のない鍋〟
みなさんはどんなとき、鍋を食べたくなりますか。
いま日本で生きる人たちは、どんな鍋を、どんな生活の中で食べているのでしょう。そして人生を歩む上で、どう「料理」とつき合ってきたのでしょうか。
「名前のない鍋、きょうの鍋」をつくるキッチンにお邪魔させてもらい、「鍋とわたし」を軸に、さまざまな暮らしをレポートしていきます。
今回は、都内でカレー店を開く女性のもとを訪ねました。
吉野裕美子(よしの・ゆみこ)さん:1974年、神奈川県横浜市生まれ。大学卒業後、映画配給会社を経てラジオ局に入社し、事業部で働く。29歳のとき長野県松本市のカレー店で1年間修業の後、2004年にカレー専門店『ライオンシェア』を代々木にオープン。現在は東京都に夫、息子と暮らす。
ざくりざくりと、キッチンばさみで野菜を切る音が台所に響く。
にらと水菜は10㎝ぐらいの長めに切り、エリンギは手でほぐして、レタスは手でちぎってゆく。料理人である吉野裕美子さんは、家では包丁を使いたくないといった。
「うちの台所、狭くないですか? まな板を置いたら食材も置けないし、動きにくいから(笑)。キャベツも手でちぎってますよ」
油揚げもキッチンばさみで切る。豆腐はひと口大に切られてパック詰めされたものを買っている。火を使わないときは、コンロの上も作業場だ。カットした野菜をコンロの上に置いた皿に並べていく。きょうの鍋はしゃぶしゃぶとのことだが、大葉も具にされるんだな。野菜たっぷりで健康的なお鍋である。
「でも正治(せいじ)は野菜食べないんですよ。あ、正治は夫の名前です(笑)。小鉢に入れて渡すと食べるんですけどね。肉好きで、豚ばら肉が好物で。逆に子どもはあまり量を食べなくて。11歳で育ち盛りなんですけどねえ」
とっつきやすいというのか、カッコつけないというのか、とにかく吉野さんは話しやすい人だった。本業はカレー専門店のオーナー料理人、住まいは東京の代々木エリアにある。
「ザ・昭和の建物。すごく寒くて、築50年の狭小住宅です(笑)」なんてうかがっていたが、訪ねてみれば内装はきれいでインテリアも整えられ、築数を感じさせなかった。
メモを取りながら聞いていたら、柑橘のいい香りがキッチンにはじけた。思わず顔を上げれば、鍋に張った出汁にゆずが絞られている。
「かつお出汁ですっぱい汁、というのが好きなんです。いつもはレモンでやるけど、きょうはなかったから、ゆずで。鍋は週1ぐらいやりますね。気軽に作れるのと、あらかじめ用意して、みんなで食べ始められるのがいい」
ふと見れば、居間の片隅に映画のポストカードを集めたパネルが飾られている。
『髪結いの亭主』、『ブルーベルベット』に『デリカテッセン』など私も好きな映画が多くてうれしくなった。吉野さんとは同世代、観てきた映画も似通っている。
「特に映画が好きになったのは、ラジオ局で働いていたときなんです」
そう、料理界へは一本道で進んだのではなかった。これまでの紆余曲折を吉野さんは話し始めてくれた。
「自由人でしたね」
小さい頃はどんな子どもでしたかと訊いて、すぐに返ってきた言葉である。
「小学校の通信簿にはずっと『協調性がない』って書かれてました。ひとりで何かするのが好きで。神奈川の相模大野で育ったんですけど、周囲は子どもだらけなのに、つるまない子で」
吉野さんは1974年の生まれ、第2次ベビーブーム世代である。私はその翌年に生まれた。当時は「全体に合わせることがいいこと」と思われ過ぎていた時代だったようにも感じる。吉野さんは「協調性がない」と断じられ続けて、つらくなかっただろうか。親御さんからはうるさくいわれなかっただろうか。
「それが全然で。母のほうが自由な人でした。父は昭和のモーレツ社員で、朝は早くて夜は遅い。放任的でしたけど、不自由なく育ちましたね。でも中学校で現実を突きつけられて」
テニス部に入ったら先輩がとても厳しく、一緒に入部した50人は3年後に10人にまで減っていた。
「大変でした。でも私は、何事もあまり深刻に考えないんです」
淡々と受け止めて対処する力を中学の時期に養われたのかもしれない。しかしそんな娘を見て母親は「あなた、すごくつまらない子になったねえ」といったというから、すごい。お母さんの人生も取材してみたくなった。
高校は進学校へ進み、文教大学へ入学。湘南キャンパスで学んだ。
「湘南といいつつ山奥にあるんです(笑)。大学時代はクラスメイトがサーフィンを教えてくれたり、ピッチ(PHS)の店頭販売のバイトをしたり。『GOLD』とかのクラブにも行ってましたねえ」
卒業後は映画配給会社の営業部に就職するも、会社が1年で解散。25歳のときにラジオ局の事業部に再就職する。
「映画試写会のイベントを担当してました。試写会を企画して、作品とスポンサーをマッチングさせるんです」
映画に合う商品とメーカーを考えて打診し、スポンサーになってもらう。もちろんラジオ番組の中でも紹介する。やりがいはあったが次第に行き詰まりを感じた。
「もともと人が集まるようなことが好きじゃないんですよ、イベント担当なのに。そして何もかも中間の立場ですからね。続けているうち、人に気をつかわず出来る仕事がしたくなって。手に職をつけたいな、と」
30歳前後で自分の仕事や立場を見直す人は少なくないだろう。吉野さんもそうだった。収入は悪くなかったが出直す道を選ぶ。向かった方向は「カレー店を開く」というものだった。
「会社の先輩が長野県の松本出身で、よく遊びに行ってたんです。松本でおいしいインドカレーに出合ったのがきっかけ。今はもうない『シュプラ』というお店です。こういう味は東京にはない、東京でも食べられるようにしたいと思って」
むくむくと意欲が湧いた。
スパイス感がちゃんとあるけれどくどくなく、体にやさしい味わいのカレー。食べ終えた後も「またすぐ食べたいと思うような味」に魅了された。
吉野さん、料理は得意ではなかったが「カレー店なら基本の数種が作れれば経営できるかも」と読み、そこに賭ける。
運良く『シュプラ』で修行することができ、1年を過ごし基礎を学ぶ。自身の店『ライオンシェア』をオープンすることが出来たのは2004年のことだった。
ちなみに店名の由来を聞けば「お店はライオンズマンションの1階なんです。そこを借りるからライオンシェア」とあっさり。思わず笑ってしまった。
お鍋、食べましょうかと誘ってくださる。
「お肉はあまりしゃぶしゃぶしないほうがいいそうですよ。うま味が汁に逃げるから。入れてしばらくおいて、返してサッと煮るぐらいで」
従ってみれば、なるほど確かに肉の味が濃い。
そして大葉がいい仕事をする! 他の具材と合わせて食べれば実にさわやかな香りを加えてくれる。
なんとも新鮮なしゃぶしゃぶになって驚いた。ゆずが香る出汁も口がさっぱりして箸が進む。その汁をたっぷり吸った油揚げがまたおいしい。
「私、飲んじゃっていいですか(笑)? やることやって早く飲みたい、何よりの楽しみなんです」
お気に入りは鹿児島の芋焼酎『紫の赤兎馬』、いろいろ試してたどりついた1本だそう。
ひとすすりして「ぷはっ」と一息ついた表情がなんともよかった。取材したのは日曜日、お店の定休日である。貴重なお休みにすみません。
お店は今年(2024年)で20周年を迎える。都心部で飲食店を20年続けるというのは並大抵のことではない。信頼できるスタッフに恵まれ、贔屓にしてくれる客もいるが、やはり大変なこともある。
「近年の食材の値上がりがすごすぎますね……。コロナ禍以降は売り上げも落ちました、お酒を飲む人は確実に減りましたし。そして1杯のカレーを出すのにやること多すぎるなと思いますよ。毎日死ぬほど野菜刻んでます、もっとラクしたいです(笑)」
でも誰かに任せたいというわけじゃない、と吉野さんはすぐに続けた。
後日、お店を訪ねてカレーをいただいた。サラッとした汁をひとすすりして、澄んでいるなあ……と感じ入る。
トマトとチキンのうま味、野菜の甘みやスパイスの香り、すべてがきれいにひとつとなってスーッと体に入ってくる。とがった感じや重たさが一切ないその柔和なおいしさ。吉野さんが修行先で感じた「食べ終わってまたすぐ食べたい」という感覚が理解できた。
これが「誰かには任せられない」、吉野さんだけの味なのだな。
取材・撮影/白央篤司(はくおう・あつし):フードライター、コラムニスト。「暮らしと食」をテーマに、忙しい現代人のための手軽な食生活のととのえ方、より気楽な調理アプローチに関する記事を制作する。主な著書に『自炊力』(光文社新書)『台所をひらく』(大和書房)など。2023年10月25日に『名前のない鍋、きょうの鍋』(光文社)を出版。
Twitter:https://twitter.com/hakuo416
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