連載
#18 #アルビノ女子日記
太った私、愛せなくてもいい アルビノ当事者が望む「外見」の捉え方
「見た目であなたの価値は決まらない」
神原由佳さん(28)は、生まれつき髪や肌の色が薄い遺伝子疾患・アルビノの当事者です。かつては他の人と異なる外見に、コンプレックスを抱いていました。一方で近年、「自分のありのままの体形や容姿を愛そう」と呼びかける、「ボディ・ポジティブ」という考え方が広がっています。身体(からだ)のありようを、積極的に肯定することをよしとする主張は、新たな抑圧を生まないか――。そんな疑問を持ち、「自らの身体を好きでも嫌いでもいいじゃないか」と思えるようになるまでの歩みについて、つづってもらいました。
「やせたらかわいいのに」
かつて、私がアルビノについて書いたネット上の記事に対し、そうコメントされた。当時はまだ、標準体重だったにも関わらず、だ。ずいぶん、腹が立った。
一般的な20代の女性がそうであるように、私は自分の体重を気にしている。
朝は、まず体重計に乗ることから始まり、表示される数字に一喜一憂してしまう。一日の数百グラムの体重の変動など誤差でしかないはず。数字に振り回されることはよくないとわかっていても、心の浮き沈みは抑えられない。
私は精神保健福祉士として障害者施設に勤めている。立ち仕事の多かったグループホームからデスクワークの多い今の部署に来て約1年半、生活リズムが大きく変わった。
もともと食べるのが大好きな私。ジムにも通ってみたが、続かなかった。そして、体重は5キロも増えた。
さすがに5キロ増ともなると笑えない。世間の評価は、太っている人に対して厳しいものだ。「太っている=自己管理ができていない」「見苦しい」など、マイナスに作用してしまいがち。
「一刻も早く元の体重に戻らねば」と、焦りが募る。
近年、日本でも「ボディ・ポジティブ」という考え方が知られるようになった。「ありのままの体形や見た目を愛そう」という欧米を中心に始まったムーブメントだ。代表的な実践者として、タレントの渡辺直美さんや、大きなサイズの衣服を着こなす「プラスサイズモデル」の人たちがいる。現状、国内のメディアに露出している人々は、ほぼ女性だ。
彼女たちはボディ・ラインのはっきりした洋服を身にまとって、「今の自分が大好き!」と弾けるような笑顔で言っている。その堂々とした姿はかっこいいし、あまりに魅力的なものだから、私も思わず見惚(ほ)れてしまったこともある。
「彼女たちはかっこいいのに、どうして自分のことはダサく見えるんだろう……」
理由はわかっている。
彼女たちは自分に自信があり、自分を愛しているから。じゃあ、私も自分に自信を持てるようになれば、かっこよくなれるはずだ。頭ではわかっていても、いざそれを実践しようとするのは本当に難しい。自己肯定感が低ければなおさらだ。
中高生のとき、私は見た目が「ふつう」とは違うアルビノであることが嫌で嫌でたまらなかった。自分の身体を大切にしたいなんて、とても思えなかった。
その後、「私のことを好き」と言ってくれる人たちとの出会いもあり、自分がアルビノであることを受け入れていった。今は、「ボディ・ポジティブ」とまではいかないが、アルビノの身体をネガティブにとらえていない。
だが、体形についてはダメだ。やっぱり気になる。「一難去ってまた一難」ではないが、アルビノは受け入れられても、太った私は受け入れられない。
でもこれが自分の気持ちなんだから仕方がない。「無理にボディ・ポジティブにならなくてもいいんだよ」と自分に言い聞かせるしかない。
自分の身体について、ボディ・ボジティブになれない私が、しっくりきている考え方がある。「ボディ・ニュートラル」だ。
ネット上にはいろんな定義があるようだが、私なりの解釈で言えば、「自分の身体を好きでも嫌いでもどちらでもいい」「自分の外見や体形に対する感じ方を、そのまま受け入れる」というものだ。
もちろん、「ボディ・ポジティブ」のムーブメントに救われた人もいるはずだ。しかし、「自分の身体を愛せることは素晴らしい」と強調されることで、自分を愛することが正解で、愛せないことは不正解のようなメッセージになってしまっても怖いと思う。
アルビノの身体をどうしても嫌だった中高生のころに「ボディ・ボジティブ」の考え方に触れていたら、「自分を好きになれない私はダメだ」と私の自己肯定感は大きく下がっていただろう。
その点、自分の身体を「好きになれなくてもいい」「好きになれない自分を責めなくてもいい」という立場の「ボディ・ニュートラル」のほうが、私は安心できる。「自然体でいればいいんだよ」と、私の存在そのものを優しく肯定してくれるように感じる。
朝、洗面台の前に立ち、鏡に映った自分の顔がむくんでいたり肌荒れをしていると、やはりテンションが下がる。反対に顔色がよかったり、肌艶(つや)がいい日は、それだけでいい一日になりそうな気がする。
自分の身体への感情は移り変わる。せめて自分のことを好きになれない日は、好きな服を着たり、お気に入りのメイクをしたりして自分で自分のご機嫌をとる。そうやって、自分の身体と折り合いをつけるしかない。
先日、電車に乗っていると、10代を対象にした、まぶたの二重整形を勧める広告を目にした。一緒に乗っていた友人と「どう思う?」と思わず顔を見合わせた。
友人は「自分が親なら止める」と言った。自分の場合は止めるかどうかは分からないが、大賛成はできない。
その広告には、「二重まぶたであることが好ましい」という価値観を再生産する恐れがあると感じられた。多感な10代の人々が見れば、「自分も二重にならないといけない」と、思い詰めてしまうかもしれない。この広告が、そうした点にまで配慮していると思えず、憤りを覚えた。
整形をすることで、メイクの時間が短縮できたり、当人が自分自身を「かわいい」と思えるようになり、周囲からも容姿を好意的に評価されたりするなどのメリットはあるのだろう。でも、裏を返せば「美の基準は一つ」「かわいくなければ生きづらい」と社会が脅迫している側面は多かれ少なかれあるのではないだろうか。
2021年から高校生や大学生を対象に、学校に出向いて講演活動を始めた。主なテーマは、アルビノや外見に症状がある人が直面する生きづらさや差別問題についてだが、「ボディ・ニュートラル」についても知っておいてほしいと思い、強調して伝えている。
多様性やマイノリティについて考え、知ってほしい。自分の身体のありようにも寄り添えるようになってほしい。そんな願いがあるからだ。
「自分の容姿へのコンプレックスを無理に乗り越える必要はない」「外見が、あなたの価値を決めるわけでないんだ」。講演の場で、私はそう伝えている。
そういえば、子どもの頃の私は自分が「かわいい」と言われることが心底嫌だった。
一人娘だったこともあってか、両親からは「かわいい、かわいい」と溺愛(できあい)されて育った。贅沢(ぜいたく)な悩みであることはわかっている。
ただ、アルビノのことや体形のことなど、コンプレックスまみれだった私には、両親の言う「かわいい」という言葉をそのまま受け止めることができなかった。最も自分にふさわしくない言葉だと感じた。
28歳になった今、両親が言っていた「かわいい」は容姿だけでなく、存在としての「かわいい」だったと理解できるようになった。「やせていて、二重のぱっちり目」という、世間で称賛されがちな、画一的な美の基準は確かにある。でも、その基準から離れていても、「かわいい」と思ってくれる人はいる。私も他者に対してそう思えるようになった。
決してモテるわけではないけれど、そもそも万人ウケする必要もない。自分と自分の大切だと思う人にウケればそれで十分だ。そして、人格まで含めた「私」全体を好きになってもらえればいいと思っている。
「今はアルビノの自分を受け入れている」と書いた。でも、ボディ・ニュートラルと同じように、アルビノへの受け止め方にも波があると思っている。
今、私は日々の生活の中で、自分がアルビノであると意識さえしないこともある。当事者性は極めて低いとも言えるだろう。しかし、この状態も永久に続くとは思っていない。新しい環境に行くとき、見知らぬ人に会う時、アルビノの身体をどう思われるか、今でも多少は緊張する。
この先、結婚などのライフイベントでアルビノであることがどのように作用するかはわからない。私が知る限り、パートナーがよいと言っても、その親が拒否反応を示すこともある。
アルビノであることがマイナスに作用することがあれば、私の当事者性は再び高まるかもしれない。人の心は、常に揺れ動くものだ。いつでも安定しているとは限らない。
だから「身体に対する捉え方は変わりうる」という前提に立つことで、アルビノとしての自分を受け入れがたくなったとき、焦らずに対処しやすくなるのではないかと考えている。万が一ネガティブな感情が沸き起こったとしても、自分にはフラットな状態に戻る力があると信じたい。
アルビノ当事者として、そして女性として生きる上で、自分の容姿についてポジティブでいることだけが正解ではないはずだ。自分の身体が好きでも嫌いでも、心の動きに寄り添ってしなやかに生きていこうと思う。
【外見に症状がある人たちの物語を書籍化!】
アルビノや顔の変形、アザ、マヒ……。外見に症状がある人たちの人生を追いかけた「この顔と生きるということ」。神原由佳さんの歩みについても取り上げられています。当事者がジロジロ見られ、学校や恋愛、就職で苦労する「見た目問題」を描き、向き合い方を考える内容です。
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