コラム
「セックスって?」30年以上あがいた車いすユーザー、出した答えは
性というものについて、私はあまりに難しく考えすぎていたのかもしれない。
コラム
性というものについて、私はあまりに難しく考えすぎていたのかもしれない。
障がい者の「性」について、思う通りにならない自分の体と向き合いながら様々な情報に触れてきたという、車いすユーザーの篭田雪江さん。ある記事で語られていた一言によって、悩み続けた30年間に新たな価値観が生まれたといいます。
私は五歳の時、脊髄にできた原因不明の腫瘍を除去する手術を受けた。それ以来、下半身完全まひの身体障がい者、車いすユーザーとなった。
立つ、歩く、走るといった動作はまったくできない。感覚も失われているから、痛さ、熱さ、寒さなども下半身はまるで感じない。排泄のタイミングもわからない。だから排泄は時間の経過をみたり、あるいは腹部を手でさわってみて、たまっていたりしたらトイレに向かう。
失われたものはそれ以外にもいろいろあるが、ひとが生きる上でもっとも大切なもののひとつ、といっていいくらい大切なものも失われた。
私は、セックスができない。
障がい者の性、についてはもうかなり以前から書籍やネット、映像などでさまざまな意見や経験が出されている。
そういった「障がい者の性」に関する書籍、ネット情報はこれまで、自分なりにいろいろと調べてきた。私の調べた限り、性行為は障がいがあってもできる、性的感覚は得られる。あるいは代わりとなる行為もあるといった、障がい者にも性行為は可能、性的感覚が完全に失われているわけではない、といった意見を目にすることが多かった。
しかし正直に言ってしまうと、それらの意見に納得できるもの、あるいは実践できたものは私の場合見つからなかった。だからいまだに私にとって「セックス」とはなんなのか、わからないままなのである。
今回、そのことを前提として、私の「性」に関する経験、挫折、絶望についてを語ってみたい。
小、中学生時は、心身障害者養護学校に通っていた。中学部くらいになると普通の中学生とおなじように異性を意識しはじめた。と同時に、男子生徒の間であるものが出回りはじめた。グラビア本、ビデオテープ。そういう類のものだ。同級生、先輩後輩がそれらのものを教室に持ち込み、貸し借りをした。
私も中学二年の時、はじめてそんなビデオを借りた。夜中、家族が寝静まった頃、居間のデッキにビデオを入れて再生した。画質の荒い、男女の行為が流れてきた。私の頭が熱を持ってきた。そして、こういう時に普通の男性が行う行為を、どこで知ったか記憶にないがやってみた。ここまではよかった。
ところが、からだはまったく反応しなかった。そうすることで得られるはずの快感も一切なかった。
しかし、私はあきらめきれなかった。それからは性的快感を求める日々がはじまった。
学校を卒業し、成人になってからも足掻きは続いた。インターネットが普及してからはその手のサイトを巡った。PCがクラッシュしかけるような危ないサイトも幾度踏んだか知れない。レンタルショップの奥にあるカーテンを肩をひそめてくぐり、狭い棚に詰め込まれたDVDを手に取り、その後、適当に選んだ興味もない映画のDVDをその上に重ね、男性が担当するレジに向かった。
それらにすがりながら、行為を何度も繰り返した。かなり無理なこともし、もしかしたらこれが、と思ったこともあった。だがその後ひどい吐き気におそわれ、実際吐いた。命を何年か削ってくれていいからおれにあの快感をくれないか、と真剣に神社でお参りしたこともあった。
クラスに相変わらず出回る本を夜中、布団のなかで開いた。自分の部屋にデッキをつけてもらってからは、録画した映画のいわゆるベッドシーンを何度も再生した。近所の本屋で一番いかがわしそうな雑誌を、他の本を読むふりをしながら延々2時間立ち読みしたこともあった。
以前勤めていた就労継続支援A型の仕事場ではこんなこともあった。仕事終わり、ロッカー室で帰り支度をしていると、同僚の男性が入ってきた。そのひとには軽度の知的ハンディがあり、普段は職場内の掃除や外の草刈り、備品整理といった業務に就いていた。
その男性はロッカーを開け、小さなリュックとあるものを同時に取り出した。ちらりと見えたそれは、私がそれまでさんざん見てきたレンタルショップの奥にあるようなDⅤDだった。
男性はリュックにそのDVDを入れ、ロッカー室を出ようとした。私は無意識に口が動きかけていた。「そのDVD、次、貸してもらえませんか」と。もちろん実際にそんな言葉が出るはずなどなく、男性が去っていく背中を見送った。今夜はあれを見て楽しむのだろうか。そう思うとうらやましくてしかたなかった。
また、やはりその職場で勤めていた頃、仕事終わりに先輩の男性にコーヒーを淹れるから飲まないか、と寮の部屋に誘われた。そこでコーヒーを淹れてもらっている間、つけっぱなしのノートパソコンに目がいった。ワードやエクセルといったアプリが並ぶなか、少し違和感のある見た目のアプリがあった。これなんですか、と、何気なくたずねると、ああそれエロゲーム、やっていいよ、とあっさりと返事がきた。
驚きながらも起動させると、いきなり大きな音量で女性の声が流れてきたので慌てて消してしまった。ついで疑問がわいた。先輩は自分とおなじようにそういう感覚はないものと思い込んでいたけど、もしかしてそうではないのか。あるいは自分とおなじようにもがき続けているのか。しかしやはりそれも前述の男性とおなじように、たずねることはできなかった。そうしているうちにコーヒーがきて、その疑問は頭にひっかかったまま終わってしまった。
虚しい時間を積み重ねたある夜、私は手を動かすのをやめた。それでもかすかな希望を、ひとつだけ胸底に抱きかかえていた。
好きなひとと実際に触れ合えれば、もしかしたら。
やがて、本当に幸いなことに、共に生きてくれるパートナーと出会った。
付き合いはじめてほどなくの夜、そのひとと触れ合った。私のようなものと生きていってくれるといってくれたひとなのだ。たいせつにしたかった。なにより、当然相手にも性欲はある。だから満たしてあげたかった。やがてこれが「普通のひと」が感じている性的な感覚なのか、と感じられるものがおとずれた。しかし互いに触れ合うことはできても、最後の行為だけはやはりどうしても不可能だった。
だから自分にできる限りのことをした。でも、これで本当にいいのか。このひとは満たされているのか。自分は満たされているのか。どうしてもわからなかった。いったいどうすれば互いに満たされるのか。それからもしばらくふたりで試行錯誤を続けてみたが、不完全燃焼の感は拭えず、また私が持病を患って体調を崩したことも重なり、やがて性行為自体から遠ざかるようになっていった。
触れ合っているだけでいい。別に結ばれることばかりがすべてではない。そういった意見もたくさんみてきた。ある論文には「たいていの脊髄損傷者は、損傷以前よりセックスがより親密に、また精神的なものになった」「彼らは自分自身、そしてパートナーの身体に新しい形の喜びを見出したのである。彼らはそれを、触れ合い、愛撫し合い、お互いを探りながら見つけていくのである。」とあった(『YES,YOU CAN! 脊髄損傷者の自己管理ガイド【増補改訂】第14章 性的健康とリハビリテーション 日本せきずい基金』より)。
だが、と、私の思考はそこで迷走してしまう。それは最終的に結ばれることで得られる快感がわかるからこそそう言えるのではないか。それを最初から知らない私は、一体どうすればいいのだろう。そんな自分と生きることになったパートナー自身の性的欲求はどうしたらいいのだろう。記述にあるようなことは、私たちだってずっと続けてきた。それでも自分たちは満たされた、という完全な実感は得られないままここまできた。いったいなにを間違っていたのだろう。どこでボタンを掛け違えてしまったのだろう。
我ながら陰鬱だと自覚しているが、どうしてもそういう思いが拭えない。付け加えるなら、パートナーは子どもを望んでいた。だとすると尚更、結ばれる行為が必要になってくるではないか(当然不妊治療、養子縁組という方法があり、私たちもそのために動いたことはあったが、それについては別の機会があればそちらにゆずる)。
ここまで書いてきたように、障がい者の性に対する調べものはしてきたつもりだったが、ここまでストレートな言葉に出会うことはあまりなかった気がしたのだ。そしてふと気づいた。性というものについて、私はあまりに難しく考えすぎていたのかもしれない、と。
思春期に性というものの存在に気づいて以来、雑誌やDVDを観たりしつつ30年以上あがき続け、挫折を繰り返してきたからか、どうしたらそういった感覚を手にできるか、を、頭でとらえてしまっていたのかもしれない。でも、性的感覚とは脳や思考で考えるものとはまた違った領域にあるはずだ。「性とはいったいなにか」なんて哲学っぽいことをいちいち考えながらセックスするひとなんて、そうそういないだろう。
私もパートナーも、もう若いとはいえない年齢だ。でも、というよりだからこそ、もう一度ふたりで探し合ってみるべき時なのかもしれない。いつしか置き去りにしてしまったものを、もう一度探してみようか。少し勇気がいるが「どうやればいい?」と直截に話し合うことも必要だろう。また障がい者の性に関してどんな意見や体験をお持ちなのか、この記事に目を止めて下さった方々よりぜひ聞かせていただけたら、とも思う。
障がいがあるとはいえ、「ひと」としてせっかくこの世界に生まれてきた。その「ひと」にとってとても大切なものである性について、これからでも感じることができるなら、最後まであがいてみよう。もし見つけることができたら、私たちの人生にとってきっと大きな宝物、喜びになるだろうから。
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