お金と仕事
「山の神」受け入れるまでの10年 柏原竜二さんのセカンドキャリア
「退社してタレントへの転向も考えた」
2009年、第85回箱根駅伝の山登り「5区」で新記録をたたき出し、東洋大学初の往路優勝の立役者となった柏原竜二さん(31)。翌日1月4日から、自分を見る世間の目が一変したと話します。大学時代そして社会人でどんなに結果を出しても、いつも言われるのは「山の神」という“称号”でした。現役引退を決意した時はタレントへの転向も考えたという柏原さん。陸上競技(以下、陸上)で学んだ「年間目標を共有する」強みをキャリアにつなげようと、一人の会社員として様々なチャレンジを続ける柏原さんのセカンドキャリアを聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
柏原竜二(かしわばら・りゅうじ)
私は人一倍、「周りからどう見られるか」を気にするタイプです。そのきっかけになった出来事は、2009年1月、東洋大学1年のときに出場した箱根駅伝でした。山登りの5区で新記録を出し、結果的にそれが東洋大学初の往路優勝につながりました。
その日から、テレビや新聞などで自分の顔と名前が出るようになり、「2代目山の神」と言われるようになりました。地元の福島県から上京した普通の大学生が、この駅伝を境に人生が一変しました。
1月4日、いつも通り練習をしに行った通学路で、電車のドアが開いた瞬間、景色が変わったことに気づきました。車内の人の視線が一斉に私に向けられ、「柏原だ」というヒソヒソ声が聞こえました。
私は元々人見知りで、人とコミュニケーションを取るのが苦手でした。満員電車の逃げ場がない状態で声を掛けられることもあり、戸惑いながら、あいまいに受け答えをして、その場をやり過ごしていました。
その後、関東インカレ(関東学生陸上競技対校選手権)などで何度も好成績を出したのですが、いつも言われるのは「山の神」ということ。そうなると、箱根駅伝以外で成績を残す意味ってなんだろうと思ったこともありました。
大学卒業後、まだ陸上を続けたくて富士通の陸上部に所属することにしました。でも、アキレス腱などの怪我に泣く日々を送りました。そして27歳の時、自分で引退を決断し、監督にその思いを伝えました。
最初、止められました。監督には何度も現役を続ける道を勧められ、話し合いは4時間に及んだこともありました。それでも引退する決意を曲げなかったのには、大きく二つ理由がありました。
一つは、中途半端に競技を続けたら好きだった陸上が嫌いになってしまうと思ったから。もう一つは、もし結果が出なかった場合、「引き止められたから続けたんだ」と監督や周りのせいにしてしまうと思ったからです。
引退と同時に、会社も退職する心づもりでした。陸上の世界しか知らない人間が、会社勤めをして働くのは無理だと思ったからです。陸上のコーチやトレーナーになる道は最初から考えていませんでしたね。人に教える立場の人間として、技術だけ教えればいいわけではないと思ったため、社会人経験のない自分ができると到底思えませんでした
そうなると、残された道は「芸事」で生きていくこと。タレントの仕事や、趣味のアニメやゲーム関連の仕事で食べていくしかないと思いました。コミュ障なので心がすり減る覚悟でしたが、それでも、「箱根駅伝」と「山の神」という経験と肩書を武器に、生きていかないといけないと思いました。
腹をくくって、退職の旨を会社に伝えた時、現役引退時と同じように、引き止められました。「柏原には会社に残って、スポーツの価値を伝えていってほしい」と言われたんです。でも、当時の私は意固地になっていて「退職します」の一点張りで主張し続けました。
結果的に、5、6回面談をする中で「自分に何ができるか」を考え直すきっかけを与えてもらいました。向いてないはずの芸事で食べていくか、お世話になった会社で今度は仕事面で貢献するか。夜な夜な考えた結果、「会社員として陸上の魅力を発信する可能性もあるのでは」と思い、会社に残ることを決めました。
引退後の配属先は総務部。初めての仕事は、アメリカンフットボールチーム「富士通フロンティアーズ」のマネージャー職でした。スポーツという面では共通していますが、同じ畑でも、夏野菜と冬野菜を作っているほどの違いがありました(笑)。
アメフトのルールを全く知らない状態だったので、相手が年下でも「教えてください」と頭を下げて仕事を覚えました。
一つ良かったのは、「陸上部のマネージャーじゃなかった」ということ。陸上だったら、おそらくプライドが邪魔をして上手くいかなかったと思います。違う畑だからこそ、プライドを捨てることができたと思っています。
現在は企業スポーツ推進室という部署で仕事をしています。企業内のスポーツをもっと発展させたいという会社の意向に沿い、元アスリートとして貢献できることを日々模索しています。
以前、「マラソンはどう応援していいかわからない」という声を聞いたことがありました。サッカーやラグビーのようにグラウンドがあるわけではありませんし、応援歌があるわけでもありません。マラソンは「仲間が一同に介して応援する」というのが難しいのが事実です。
社内では、普段は所属選手との接点がない人がほとんどです。その中で、社員を巻き込み、全社一丸となれる方法はあるのだろうか。そこで思いついたのが、「パブリックビューイング」でした。より観戦を楽しんでもらえるよう司会兼解説者を買って出ました。
そして昨年9月、東京で開催の「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」のパブリックビューイングに初挑戦しました。この大会は、東京五輪の選考会も兼ねていて、陸上部からは、中村匠吾選手、荻野皓平選手、鈴木健吾選手の3人が出場しました。
会社の大会議室に朝8時に集合だったのですが、「ひとりじゃ見ないけど、解説してくれるのであれば」と約100人が集まりました。会社の近くがレースのルートになっていたので、選手がやってくる時間になったら直接その現場まで案内し、応援をリードしました。
一度、応援する仲間の絵が描ければ、1人で応援しても寂しくなくなると思うんです。この取り組みを通して、陸上のことを少しは知ってもらうことができたと思います。その前提としてあるのは、選手たちの頑張りです。選手への敬意を忘れずに、自分にできることを会社の中で見つけて、形にしていっています。
引退したばかりの頃は、イベントや取材依頼を受けてもほとんどお断りをしてきました。現役引退した一社員が、社業の時間を割いて取材や陸上関連の仕事ばかり受けるのもおかしな話だと思ったからです。
でも、最近はこうして取材を受けるようになったのは、「山の神」を枕詞(まくらことば)にして、自分が伝えたいことを届けていこうという考え方に変わったからです。この「山の神」という称号を咀嚼できるようになるまで、10年かかりました。
今は地方に行って講演をすることもあります。その地域で会社の製品やサービスの紹介をすることで、何か営業のお手伝いもできればいいなと思っています。また、大学で講演する機会をいただくこともあるのですが、理想はイチローさんのように、苦労話も面白おかしく話すこと。人前で話をすることは、正直今も得意ではありませんが、何か一つでも私からのメッセージを受け取ってもらえたらいいなと思っています。
現役アスリートに伝えたいことは、今後のキャリアを考えたとき「今までの経験をゼロにする必要はない」ということです。現役時代の経験や学びは、社会人生活を送るうえで役立つことはあるはずです。
陸上は個人競技なので、自分の意見や気持ちをあまり口に出さないですし、他者を動かすこともほとんどありませんでした。でも、私は「駅伝」を経験していました。駅伝は、それぞれが自分のベストを尽くすことと仲間との信頼関係を築くことが大切になるので、チームスポーツでもあると思うんです。
チームスポーツの定義は「年間目標を共有すること」。大学4年間、仲間と年間目標を共有し、切磋琢磨した経験は、組織で働く上でも生きていると感じています。現役時代の強みを、うまく「変換」し、今までの経験をこれからのキャリアにつなげていってください。
1/9枚