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#7 Busy Brain

小島慶子さんが「ADHD当事者による自虐的笑い」を勧めない理由

「からかってもいいのだろう」と誤った認識を与えることになりかねません

パースの海で=本人提供
パースの海で=本人提供

目次

BusyBrain
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40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!

「障害者はこのように考えるのだな」と一般化することはできない

  ADHDのことを書いたり話したりするようになってから、仕事場などで「実は自分も」とか「うちの子が」と話して下さる方が増えました。医師の診断を受けている人もいれば、そうでない人もいます。「もしかしたら自分は発達障害なのかもしれないと思っているのだが、小島さんの文章を読んでいるとなんだか安心する」という人も。

 以前ここで書いたように、その人に診断名がつくかつかないかは私にとっては問題ではありません。ご自身の、あるいはお身内のご様子について「こんな特徴があってね」と縷々(るる)話して下さるのを聞くと、みんな誰かに聞いてほしいのだなと思いますし、私になら話しても大丈夫だろうと思ってくれたことが嬉しいです。

 普段は、なかなかわかってもらえないので話さないようにしている人もいるでしょう。もし、誰かがあなたに「実はね」とうちあけてくれたら、特別気の利いたことを言わなくても、そうなんだねと話を聞いてあげることが大事だと思います。

 ただし、「なるほど障害者はこのように考えるのだな」と一般化はしないでください。同じ障害を持つ人が、みな同じ考えというわけではありませんから。

 例えば、当事者が障害を自虐的に笑うことによって、障害者に対する“かわいそうで、善良な人々”という先入観や偏見を取り除こうと考える人がいる一方で、そもそも自虐ネタ的な表現を好まない人もいます。たまたま出会った人が障害を自虐的な笑いにして「自分は気にしない」と言ったからといって、同じ障害を持つ人が皆そう考えているわけではないことを忘れないでほしいです。

 私の場合はADHDの自虐で笑いを取ろうとは思わないですし、そんな方法でなくても先入観を取り除くことはできると思っています。

写真やイメージです
写真やイメージです 出典: PIXTA

自虐ネタは、相手に笑いの強要と緊張感をあたえかねない

 障害を持つ人と接するときに、障害を持たない人は自身の無意識のバイアスがあらわになったりしないよう緊張することが少なくないだろうと思います。それに対して自虐で笑いを取ろうとするのは「笑っていいのかな、笑わなかったら失礼かな」と相手により緊張を強いてしまうことになり、ある種の暴力性すら感じます。そもそも笑いのセンスがなくて自虐ネタがつまらないことも大いにあり得るにもかかわらず、相手は「面白くないけど、笑わないと差別していると思われるかも」などと気を回すかもしれません。  
  
「いまのはイマイチだね」と言い合える仲ならともかく、初対面の人や、不特定多数に向けた発言で自虐ネタを繰り出すのは、発言者にそのつもりがなくても受け取る人にとっては笑いの強要になりかねないのです。また、「当事者がネタにしているのだから、からかってもいいのだろう」という誤った認識を与えることにもなりかねません。デブ、ブス、ハゲ、ブサイク、非モテなどの「いじり、自虐」が今や笑いの王道ではないように、総じて外見や属性に関する自虐ネタを面白いと思う土壌はなくなりつつあります。

 いやいや、その「気を回す」心理自体が差別なのだ、という言い分もよく聞きますが、人は差別や偏見について真面目に考えれば考えるほど、自分がそれらと無縁ではないことを自覚するものです。「私は差別なんてしたことないよ」「差別を気にすること自体が、差別している証拠」というのは傲慢で、客観性と洞察力に欠ける物言いでしょう。

 ときにそれを障害を持つ人の側から言うこともあります。たとえばもし私が知人に「発達障害に対して偏見があるかも、と思うこと自体が私に対する差別だよ」と言ったら、相手は思考停止せざるを得ません。あるいは自分の先入観や知識不足を省みることなく「もちろん、自分は差別なんてしたことないよ!」と言うかもしれません。それは果たして、発達障害に対する理解を深めるでしょうか。私とその人との間に、自由にものを言える空気を作るでしょうか。そうは思いません。

 悪気はなくても、障害に対する偏見はあるでしょう、知らないこともあるでしょう。だから丁寧に伝えていきたいですし、その人の無知を責めるのではなく、その人が偏見を抱くに至った社会的な背景や構造を変えていくことが重要だと思います。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

3歳で子ども社会へデビュー、初めて他者を持った瞬間

 さて、話を子ども時代に戻しましょう。3歳で日本にやってきて、団地から東京郊外の新興住宅地に引っ越し、ようやく地元の友達ができました。そんな子ども社会へのデビューと対人不安の高まりの中で、私はある日唐突に、自分が世界に唯一の子どもではないことを発見しました。確かあれはリビングの、牛の毛皮の敷いてあるあたりに立っていた時、ああ、私は神様の特別な子どもじゃないんだ、他の子どもと同じ存在なんだ、と気がついてしまったのです。

 体にぴったりとまとわりついていた全能感がスカスカになって剥がれ落ちていくような心もとなさを覚えました。

 これが私が初めて他者を持った瞬間ではないかと思います。己も他者も等価で無二の存在であることを発見し、初めて自己の相対化に成功したのです。しかしそれにはある種の分離不安が伴っており、神様との蜜月が終わったと感じました。

 ちなみにこの「神様」が誰なのかは未だにわかりません。自分がここにいるのには何か「ことの起こり」があるだろう、その「ことの起こり」を知っている誰かがいるはずだという感覚は、幼い頃からありました。でも、神様なるものの正体がなんであるかははっきりさせない方がいいと思っています。対象が不確実な方が対話に緊張が伴わず、より自由な形で祈ることができるからです。

 自己の相対化は私の世界に劇的な変化をもたらしました。どこかの横断歩道で親と信号待ちをしている時に、今ここで信号が青に変わるのを待っている自分にとってはあの人たちは脇役に過ぎないけれど、彼らから見たら私もまた脇役なのだということに気づき、自分がシュッと小さくなったような、世界が急激に広くなったような気がしました。肩の荷が下りたような安堵を感じました。

 自分の人生だけでなく母の人生の主役まで果たさなければならないという重圧は常に私にのしかかっており、自分が誰かにとったら取るに足りない無役の存在であると知ることは、その重圧をわずかばかり和らげる助けになったのです。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

子どもは、大人が思う以上に複雑で、よくものをわかっている

 いつだったか、ラジオ番組である高名な絵本作家の男性にこの話をしたことがあります。すると彼は言下に「そんなことはありえない」と言ったのです。「小さな子どもがそんなことを考えるはずがない」と。私は彼の絵本が好きで息子たちにもよく読んでやっていたのですが、その頭ごなしの言い方に心底失望しました。あなたの美しくデザインされた絵と自由な言葉で綴られるあのストーリーは、では誰に向かって語られたものなのか。話しかける相手の知性を信じないで、あなたは臆面もなく作家と名乗るのか。

 子どもは大人が思う以上に複雑で、よくものをわかっています。内的世界を適切な形で表現することができないために、傍目(はため)には蒙昧(もうまい)に見えるに過ぎません。当時の私もまさにそのような複雑で鮮明な世界を生きていたのですが、それを人に話す必要を感じていなかったため、傍目には口を半開きにした、気の散りやすい子どもにしか見えなかったでしょう。

 しかし世界は絶え間なく私に話しかけ、私はそれに忙しく感応していたのです。お気に入りの毛布のツルツルした縁を繰り返し指でこすっては、体の奥深くに眠る性衝動の気配を確かめたように、目に映るもの全てが、私の中のさまざまな官能を揺り起こしてくれました。

小島慶子(こじま・けいこ)

エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。

 
  withnewsでは、小島慶子さんのエッセイ「Busy Brain~私の脳の混沌とADHDと~」を毎週月曜日に配信します。

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