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連載

#3 Busy Brain

小島慶子さんが戸惑う「どこからどこまでが発達障害の症状なの?」

発達障害について知識を得たからといって、世界が一気に秩序だって見えるわけではないのです

2歳の頃の小島慶子さん。オーストラリアのパースで=本人提供
2歳の頃の小島慶子さん。オーストラリアのパースで=本人提供

目次

BusyBrain
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40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!

静電気のような抑えがたい感覚

 私の話は、どこからどこまでが発達障害の症状なの?とはっきりしないと思います。そうなのです。自分でも分からないのです。あなたがそうであるように、私も複雑な存在なので、自分のある面が何によって決定づけられているのかは一言では説明できません。この連載は「私のおしゃべりな脳みそが見た世界」について綴っていますが、それがすなわち「発達障害者の世界」ではないということを、どうか念頭においてお読みください。

 疳(かん)の虫というのがどこにいるのか知らないけれど、幼い頃、圧のかかった静電気のようなものが常に体内にわだかまって、尾てい骨から背骨にかけて抑えがたいムズムズした感覚が走ることがありました。とても不快で、こいつに襲われると他のことが手につきません。そんな時はひそかに、足の指をぎゅっと折って肛門に力を入れ、身震いして、上方に向かってムズムズを抜いていました。

 例えばLEGOブロックが上手にくっつかないとか、母親の言うことに納得がいかないとか、何かがうまくいかないときには、そのムズムズが一層強くなって、じっとしていられなくなります。ですから腹の立つことがあると、地面を踏みつけたりものを蹴ったりして、怒りのエネルギーを発散していました。傍目(はため)には奇異に見えたと思います。怒りを感じると足をくねくねとさせて、体をよじり、絞り出すような声を上げるのですから。

 こうした疳の強さは、生来の気質もあると思うのですが、生育環境が比較的抑圧を感じやすい家庭であったことも影響しているかもしれません。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

高齢出産、決死の覚悟で分娩に臨んだ母

 私が生まれ育ったのは、いわゆるモーレツサラリーマンと専業主婦の核家族でした。生まれた経緯について、母が語ってくれたストーリーはこうです。オーストラリアに転勤して1年ほどが経ったある日、母は買い物に行き、ショーウィンドーのベビー服を見てどうしても赤ちゃんが欲しくなりました。どうか赤ちゃんを授けてくださいと毎日念じていたら、見事妊娠。しかし35歳での高齢出産は当時は珍しく、危険だから子どもは諦めるようにと医師に堕胎を勧められます。

 母は強固に反対し、決死の覚悟で分娩に臨みます。案の定、数日がかりの大変な難産となり、薄れゆく意識の中で「アイウォントブラッド」と医師に輸血を頼んで、なんとか娘を産むことができたのです。

 これは母にとっては、自分がいかに娘を愛しているかを示す物語でした。つまり「妊娠するのも妊娠を継続するのも分娩も全て、私の産みたいという強い意志があったから成し遂げられたことだ。私が望まなければ、あなたはこの世に誕生することができなかった」という“愛”のメッセージです。繰り返し聞かされた私は、子どもながら母に大恩を感じていました。自分は母の願いによってこの世に発生し、母の抵抗によって救済され、母の命がけの努力により外界に出てくることができた、つまりは純度100%の母の意志の産物だと。

 そんなわけで、母娘の関係は非常に濃密なものでした。私は母に強烈に依存しながら、常に母からの侵襲に怯(おび)え、強い嫌悪も感じていました。同時に母親の全幸福に対する責任を負っているのだという意識もありました。自分は母の幸福の主人であると考えていたのです。

 ですから、9歳年上の姉をライバルと思ったことはありませんでした。母のストーリーには姉も父も出てきませんでしたから、母が愛しているのは自分だけだと確信していたのです。そして、母の幸せを左右する力があるのは自分だけだとも思っていました。

 私と母は、互いの奴隷であり領主であったのです。支配と非支配が複雑に絡み合い、胸の中ではいつも非力な奴隷と傲慢な領主が喚き声を上げていました。「私を解放しろ!」「私の言うことを聞け!」と。いっぺんに出てきて叫ぶものだから、いったい母が憎いのか好きなのか分からなくなって混乱しました。

 この戦争のような母子関係の煽(あお)りを食ったのは姉です。異国の地で現地の子どもたちの中に放り込まれた上に、手のかかる妹が生まれて母の関心はすっかりそちらに移ってしまったのですから、さぞ心細かったでしょう。姉もまた、妹に対してアンビバレントな感情を抱いていたのではないかと思います。

 それまで一人っ子として育ってきた9歳の女の子にとって、妹は自分の立場を脅かす存在であり、ときには世話をして守ってやらねばならない存在でした。赤ん坊だった私を姉がどんな目で見つめ、どんなふうに世話をしたのかは、もちろん私の記憶にはありません。それは姉だけが知っていることです。その後も、私は姉からの攻撃と愛玩に翻弄されることになります。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

つらい生い立ちの彼らが手に入れた一億総中流の幸せ

 今、親になってわかったのは、安定した愛情を知らずに育った私の両親は、本当に手探りで育児をしていたのだということです。終戦時に子どもだった彼らは生き延びるのに必死で、焼け野原からの復興とともに忙しく生活を更新し、暮らしはどんどん豊かになり、一億総中流の幸せを手にしました。ただ、新しく整ったファミリーの器の中に何を入れればいいかは、分からなかったのです。

 つらい生い立ちの彼らを責めるのは酷ですが、そんな二人の間に生まれた子どもたちにとってもなかなかに過酷な環境だったのだと思います。当時、いかにも当世風の絵になる幸せを手にしていた私たちの家庭は、砂糖菓子の城の中に嵐が吹き荒れているような、未熟な愛の密室でした。家族というのは、そういうことが起きる場所なのです。

 そんな時代の商社マンでしたから、父は仕事で家を空けがちでした。私が生まれた当時は39歳、多忙で、やりがいも感じていたでしょう。父の気持ちが想像できるようになったのは、自ら41歳で大黒柱になってからです。それまでは、養われる者の視点でしか父を見ることができませんでした。

 密着状態だった母とは対照的に、父との間にはいつも距離があり、支配と非支配のせめぎ合いもありませんでした。父との間にあったのは、緊張です。もっとも、パースにいた頃はうんと幼かったので、父との距離感といっても意識の中に父が登場する頻度が低いという程度のものでした。それでも父が私を肩車して家の廊下を行ったり来たりする「ドンチキチッチ」という遊びが大好きでしたし、しょっちゅうドライブに連れて行ってくれたことはいい思い出です。

期待と緊張の膜越しに会話するような父子

 父が異性であることも心理的な距離を感じる一因だったのかもしれません。よく覚えているのは、パースの家で父と一緒に風呂に入っていたときのことです。欧米式の浅くて細長いバスタブに並んで座って湯に浸かっているとき、父の股間にあるものが目に入りました。黒っぽくてもじゃもじゃしていてよく分からないけれど、何やら棒状のものがある。そこで恐る恐る触れてみました。指が触れた瞬間に手を引っ込め、反射的に鼻に持って行って「くさい」と言ったら、父は笑っていました。実際は何の臭いもしなかったのですが、人の股間は臭いものだと思っていたので、とりあえずそう言ったのです。そのことを父が愉快そうに母に話していたのを覚えています。

 当時2歳か3歳だったと思うのですが、それでもこれは禁忌(きんき)であるという意識はありました。反射的に「くさい」と言ったのは、子どもなりの冗談のようなものであり、同時にその行為をそれ以上継続するつもりがなく今後も繰り返すつもりがないと示しておこうという気持ちが働いていました。しばらくは右手の指先に父の臭いがついているような気がして、手を振ったりしていたのを覚えています。

 父は基本的には子どもとよく遊んでくれましたし、私を邪険にすることもなく、一緒にいると仲良くしたいと思っているのが伝わってきました。互いに照れや戸惑いがあって、屈託なく信頼し合う関係というよりは、いつも期待と緊張の膜越しに会話するような感じでした。

 ただ、父は時々人が変わったように怖い顔をして怒鳴ることがありました。大抵は私の目つきが反抗的だからという理由でした。娘に軽蔑されたり否定されたりすることを極度に恐れて、そのような威圧的な態度に出たのかもしれません。もしかしたらそれはあらゆる人間関係において父が抱えていた不安なのかもしれないとも思います。

 歳をとってから父は何度も「こんなに人付き合いが下手な両親から、慶子のような社交的な子どもが生まれたのは不思議でならない」と言っていましたから、父にも母にも、人とうまく関係が結べないもどかしさがあったのだろうと思います。私も決して外向的な性格ではないのですが、仕事柄たいへん社交的に見えるので、両親にしてみたら驚きなのでしょう。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

誰も発達障害など知らなかった時代に

 とまあ、私の育った家庭は穏やかで安定した場所ではなく、高密度の緊張に満ちた場所でもあったため、子どもとしてはいつも強風に煽られているような、ジェットコースターに乗っているような心持ちでした。それは家族がそれぞれに抱えている傷のせいでもあり、私の感受性の強さのせいでもあり、私の気性ゆえでもあり、おそらく発達障害の特徴が育てにくさにつながっていたこともあるでしょう。しかし全てが発達障害のせいではないのと同じように、全てが家族のせいでもありません。物事はそんなに単純ではないのです。

 何かを知るということはある複雑な出来事の全容を解明する奇跡の鍵を手にすることではなく、無限にある解釈のうちの一つの視点を獲得するということです。スーラの風景画の無数の点のように、世界は近くに寄れば寄るほどバラバラで、色とりどりの小さなかけらでできており、何かを知るということはそのうち一つの色を見分けることができるようになったに過ぎません。私が家族との関係や発達障害について多少の知識を得たからといって、世界が一気に秩序だって見えるわけではないのです。

「すべてはこのせいでこうなった」なんてことは言えません。その曖昧さに耐える力をつけることが成熟するということであり、曖昧なまま放置しないこともまた、生に対して謙虚であろうとする姿勢の表れかもしれないとも思います。

 発達障害を持つ子どもが周囲の理解や適切なケアを受けられずに成長すると、さまざまな生きづらさを抱え、精神疾患などの二次障害につながりやすいと言われています。のちに摂食障害と不安障害という病気(名前が紛らわしいですがこれら二つは発達障害のような先天的な脳の機能障害ではありません)を発症した私はその典型例と見ることができるかもしれません。

 私の時代には誰も発達障害なんて知りませんでしたから、両親や姉にはどうしようもなかったでしょう。何度も言いますが、発達障害だけが物事を決めるのではありません。のちに病気になったのも、家族との関係だけではなく、出産の疲れや夫婦関係や仕事のプレッシャーや他にもいろいろな要因がありました。

 私の家族はそれぞれにある種の繊細さと無神経さを併せ持った不完全な人々であったので、彼らが私の生きづらさの要因の一つとなったことは確かですが、彼らもまた扱いづらい末娘に戸惑い、どのように対処していいかわからず、それぞれが個人的に抱えたトラウマも相まって、苦しんだのだと思います。彼ら自身も養育的なケアを十分に受けて育たなかったため、他にやり方がわからなかったのです。愛情深く接してくれたこともありますが、時には聞き分けのない子どもに苛立ち、不適切なケアに至ることもあったのでしょう。不幸な組み合わせであったというほかにありません。

 人は、家族づくりに熟練してから親になるわけではありません。それぞれに傷や孤独を抱え、それでも幸せになりたいと切望し、模索しながら懸命に家族を生きたことを思うと、今はただその痛みごと、彼らを抱きしめたいです。

小島慶子(こじま・けいこ)

エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。

 
  withnewsでは、小島慶子さんのエッセイ「Busy Brain~私の脳の混沌とADHDと~」を毎週月曜日に配信します。

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