MENU CLOSE

話題

終戦の日の靖国神社、戦後75年の朝 猛暑とコロナでも長い参拝の列

靖国神社の外苑にある石鳥居。奥にゆかりの大村益次郎像=8月15日、東京・九段北。藤田撮影
靖国神社の外苑にある石鳥居。奥にゆかりの大村益次郎像=8月15日、東京・九段北。藤田撮影

目次

終戦の日の8月15日早朝から、靖国神社へ行ってきました。「ナショナリズム」というややこしいテーマでの取材だったのですが、歩くうちにハプニングがあったり、かつての取材を思い出したり。そんな話も交え、戦後75年を迎えた境内の雰囲気を見たままお伝えします。(朝日新聞編集委員・藤田直央)

【PR】「あの時、学校でR-1飲んでたね」

由来は戊辰戦争

皇居の近く、東京都千代田区にある靖国神社の境内で、拝殿に至る内苑の「神門」が開くのは午前6時です。間に合うよう地下鉄で九段下駅に着き、明け方の坂を上ると大鳥居(第一鳥居)に着きます。高さ25メートル。ここから神社の外苑になります。

境内の木々から降り注ぐ蟬時雨の中、100メートルほど行くと中央広場です。高々とした台座には大村益次郎の銅像。明治維新を経て歩み始めた近代国家・日本で軍隊創設に尽くしたことで知られますが、靖国神社の創設にも深く関わっています。

靖国神社の由来は1869(明治2)年に遡ります。戊辰戦争で大村も加わった官軍に多くの死者が出て、明治天皇が慰霊のためこの地に「招魂社」を設立。1879年に靖国神社と改称されました。

以来、第二次大戦に至るまで「国を守るために尊い命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています」(靖国神社「参拝のしおり」)。

靖国神社の境内マップ=靖国神社「参拝のしおり」より
靖国神社の境内マップ=靖国神社「参拝のしおり」より

参道に人はまばらです。横断歩道を渡り第二鳥居をくぐると神門(しんもん)ですが、午前6時前なのでまだ閉まっています。直径約1.5メートルもある金色の菊の紋が二つ並ぶ両扉の前で、百人ほどが待っていました。

「おい、朝日新聞」

開門前の靖国神社・神門=8月15日、東京・九段北。藤田撮影(以下同じ)
開門前の靖国神社・神門=8月15日、東京・九段北。藤田撮影(以下同じ)

もうすぐ開門なので撮影しようと神門に近づいていくと、「おい、朝日新聞」と声がかかりました。見知らぬ年配の男性で、私の腕章で朝日新聞の記者と知ったようです。報道に不満があるそうで、「おい、朝日新聞がここにいるぞ」とさらに声を上げました。

周囲の人たちの顔が一斉にこちらを向きますが、取材優先。そもそも靖国神社の決まりで、境内では参拝者にインタビューできません。男性に「おはようございます」とだけ言って距離を置きました。

そのうち扉の向こうから「君が代」の笛の音が聞こえてきました。開門です。

参拝者が神門を通る様子を撮影していると、別の若い男性が後から近づいてきました。私にじっとスマホをかざし、私がそちらを向くとやめて、参拝者の中へ紛れていきました。

その後は人の波は黙々と拝殿へ向かい、一安心しました。老若男女が軽く頭を下げては、中門鳥居をくぐっていきます。

開門した靖国神社・神殿を通る参拝者たち
開門した靖国神社・神殿を通る参拝者たち

コロナと猛暑に備え

参拝者のほとんどは「二拝、二拍手、一拝」を丁寧にするので、拝殿までの行列がだんだん伸びていきます。しかもきちんと6列で、前後左右を数十センチ空けて。参道の石畳に目を落とすと、コロナ対応で行列待ちの際の立ち位置が細かく仕切られていました。

靖国神社・拝殿前の石畳。コロナ対策で立ち位置が記され、参拝を待つ列が「密」にならないようにしている
靖国神社・拝殿前の石畳。コロナ対策で立ち位置が記され、参拝を待つ列が「密」にならないようにしている

猛暑対策もありました。参道の両側に、高さ2メートルほどで黒いコードのようなものが渡してあります。お祭りの提灯用の電線かなと思っていたら、午前7時ごろ、一定の間隔でミストが吹き出しました。拝殿のそばには巨大なミストの機械もありました。

手作りの特攻隊展示

参拝の様子をだいたい撮ったので、大鳥居まで400メートルの参道を戻ってみます。拝殿からの行列はまだ数十メートルで神門あたりまでですが、先へ行くにつれすれ違う参拝者が増えてきました。

服装は様々です。街歩きのような感じの人が多いですが、旭日旗をあしらったTシャツもちらほら。現役自衛官らしき制服姿のグループもあれば、旧日本兵の格好をした年配の男性たちもいます。

靖国神社の参道を参拝へ向かう人たち
靖国神社の参道を参拝へ向かう人たち

拝殿から300メートルほど、外苑の中央広場まで戻ってくると、神風特攻隊について手作りで展示をする男性がいました。その説明に参拝の男性が聴き入っていましたが、娘の小学生ぐらいの子は離れてベンチでアイスをかじっていました。

こんな参拝の風景をアップの写真で紹介できればと思いますが、これも靖国神社の決まりで、参拝者を特定するような撮影はできません。

靖国神社外苑の中央広場近くでの、神風特攻隊などの手作り展示
靖国神社外苑の中央広場近くでの、神風特攻隊などの手作り展示

中央広場からすぐの石鳥居は、神社の境内に沿う靖国通りに面し、内堀通りからは突き当たりになります。この石鳥居から境内の駐車場に入る車を規制するため、警視庁の人たちが臨時の柵を並べていました。

十年ほど前でしたか、私がやはり終戦記念日に靖国神社を訪れた時、右翼団体らしき若者たちと警官隊がこの石鳥居の前で小競り合いになったのを思い出しました。内堀通りの脇には街宣車がずらっと止まっていました、

この日、私が境内にいる間は物々しいことは起きなかったようで、街宣車からの軍歌が遠くから聞こえてくるぐらいでした。石鳥居には「新型コロナウイルス 皆の力で打ち克ちましょう」という横断幕が掛かっていました。

小泉進次郎氏が現れ参拝

きびすを返し、参道をまた拝殿の方へ。神門を通ってすぐ右に「靖国の桜」があります。もちろんもう散っていますが、東京管区気象台が毎春、開花発表の基準としているソメイヨシノの「標本木」が久しぶりでした。それとは別に、かつて中国に駐屯した旧日本軍部隊とみられる名札のついた桜もありました。

靖国神社内苑の「靖国の桜」の一帯にある、旧日本軍の部隊とみられる名札のついた木
靖国神社内苑の「靖国の桜」の一帯にある、旧日本軍の部隊とみられる名札のついた木

さらに神社の脇へ細い舗装路を進むと、「到着殿」があります。参道を戻って寄りたかったのはここです。閣僚などが参拝する場合、ふつうの参拝者と違ってよくこの入り口を使うので、報道関係者が待ち受けます。2000年代前半、当時の小泉純一郎首相が毎年参拝していた頃は、終戦の日が近づくと、いつここに現れるかと緊張したものでした。

午前8時ごろ、「到着殿」の前で久しぶりに報道関係者としてたむろしていると、要人警護にあたるスーツ姿のSPの動きがきびきびし始めました。誰か来るな、とスマホを動画モードで構えていたら白い車が止まり、小泉進次郎環境相が現れました。純一郎氏の次男です。

進次郎氏が靴を脱いで玄関を上がると、その奥で宮司や巫女のような人たちが動くのが見えました。15分ほどして、参拝を終えた進次郎氏が出てきます。「小泉大臣一言お願いしまーす」という記者団の問いかけは無視して車に乗り、参拝者が拍手するなか去りました。

安倍自民党総裁の代理も

30分ほどすると、今度は玄関から高鳥修一衆院議員が現れ、記者団のぶら下がりに応じました。自民党総裁特別補佐を務めており、安倍晋三総裁(首相)の代わりに参拝したのです。高鳥氏はこう話しました。

安倍晋三・自民党総裁の代理で靖国神社に参拝した後、「到着殿」前で記者団の質問に答える高鳥修一衆院議員
安倍晋三・自民党総裁の代理で靖国神社に参拝した後、「到着殿」前で記者団の質問に答える高鳥修一衆院議員

「自民党安倍総裁の名代として、玉串料を奉納いたしました。総裁からは『こんにちの平和の礎となられた戦没者の方々に対して、心から敬意と感謝の念を捧げ、御霊の平安と、恒久平和を祈ります』という言葉を預かって参りました」

靖国神社への首相参拝には今も議論が尽きません。靖国神社が第二次大戦にかけ軍国主義を支えた国家神道の中心となったことや、戦後の連合国側による東京裁判で判決を受けたA級戦犯が合祀されていることからです。

安倍氏は2012年に再び首相になった後、靖国神社に13年12月に参拝しましたが、以降はしていません。

2013年12月、靖国神社参拝を終えた安倍首相=朝日新聞社
2013年12月、靖国神社参拝を終えた安倍首相=朝日新聞社

「天皇陛下、万歳」

「到着殿」から神門へ戻る途中の左手に「遊就館」があります。近代国家としての日本が重ねた戦史と、戦没者の遺影や遺書などを展示しています。多くの参拝者が来館する中、ソーシャル・ディタンスを気にしつつじっくり見ていると、あっという間に正午近くになりました。

館内放送で、近くの日本武道館で始まった全国戦没者追悼式の様子が流れてきます。主催する政府を代表して安倍首相が述べる式辞を聞きながら再び境内に出ると、ちょうど正午の時報。1分間の黙禱で、みな直立して頭をたれました。

靖国神社の境内で終戦の日の正午、時報に合わせて黙禱する人たち=8月15日、東京・九段北。藤田撮影(以下同じ)
靖国神社の境内で終戦の日の正午、時報に合わせて黙禱する人たち=8月15日、東京・九段北。藤田撮影(以下同じ)

続いて昨年即位した天皇陛下が「おことば」を述べます。黙禱していた人の半分ほどはめいめい歩き出し、半分ほどは直立したまま。「おことば」が終わると、「天皇陛下、ばんざーい」のかけ声の後、一部の人たちが万歳三唱をしました。

戦後75年の終戦の日に靖国神社を訪れ、近代国家としての日本をまとめてきたもの、そして、これからまとめていくものは何だろう、と改めて考えさせられました。詳しくは朝日新聞の論考サイト論座で連載中の「ナショナリズム」で書こうと思います。

【論座】藤田編集委員の連載「ナショナリズム 日本とは何か」はこちら

正午過ぎの太陽は真上から照りつけるようで、もう汗だくです。この頃の東京の最高気温は35度を超えていました。神門のそばにテントが出ていて、やかんの麦茶を小さな紙コップに注いで振る舞っていました。

飲み干して、帰途につきます。参道をまた大鳥居の方へ。神門から先は、参道の両側のミストも、石畳のソーシャル・ディスタンスの印もなく、行列の人たちは炎天下で結構「密」になっていました。

「ここから2時間です」

靖国神社の拝殿から伸びた行列で、第二鳥居前で参拝を待つ人たち
靖国神社の拝殿から伸びた行列で、第二鳥居前で参拝を待つ人たち

拝殿からの参拝者の列は早朝に開門した頃よりずっと伸び、第二鳥居の先の横断歩道も過ぎて200メートルほどになっていました。

場内整理の警備員がメガホンで「ここから2時間待ちです」と告げます。皆さんお大事にと思いながら大鳥居を抜け、振り返って一礼。日陰日陰……と地下鉄の入り口へ九段坂を下りていきました。

関連記事

PICKUP PR

PR記事

新着記事

CLOSE

Q 取材リクエストする

取材にご協力頂ける場合はメールアドレスをご記入ください
編集部からご連絡させていただくことがございます