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連載

#40 「見た目問題」どう向き合う?

「丸刈り=反省」パフォーマンスなのか 見た目問題追う記者の違和感

反省を示すため丸刈りになった広島県安芸高田市の児玉浩前市長=6月26日、松島研人撮影
反省を示すため丸刈りになった広島県安芸高田市の児玉浩前市長=6月26日、松島研人撮影

目次

前法相らの公職選挙法違反事件をめぐり、現金の受け取りを認めた広島県内の市長が謝罪の気持ちを示すために丸刈りになりました。すると、メディアは「丸刈り市長」などと報道し、話題に。私はニュースを見て、強い違和感を覚えました。丸刈りを「反省の印(しるし)」として髪を切った市長も、丸刈りを強調して報道するメディアも、先天的・後天的な病気によって髪がない人たちの存在を忘れているのではないかと思ったためです。(朝日新聞記者・岩井建樹)

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「丸刈り」を強調したメディア

私はアザや顔の変形、マヒなど外見に症状がある人たちがいじめや就職差別に遭う「見た目問題」について継続的に取材しています。著書「この顔と生きるということ」では、多くの当事者から話を聞き、彼ら・彼女らの生きづらさの背景を探りました。今回の「丸刈り謝罪」は、円形脱毛症などで髪の毛を失った人たちを傷つける恐れがあると感じました。

今回の経緯を振り返ります。

昨年の参院選をめぐり、前法相で衆院議員の河井克行容疑者らが公選法違反(買収)容疑で逮捕された事件で、現金受領を認めた広島県安芸高田市の児玉浩市長(当時)が6月26日に丸刈り姿で会見。「今できることを考え、『反省を示さなくちゃ』とこういうヘアスタイルにした」と説明し、「大変申し訳ありませんでした」と頭を下げました。

この会見について、朝日新聞デジタルは「現金受領認めた市長が丸刈り姿に『反省を示さなきゃ』」との見出しで、記事を配信しました。7月3日の辞職のニュースについても「丸刈りの市長が辞職」と「丸刈り」を見出しにとりました。他のメディアの中にも、同じような表現で報じるところがありました。

私も見出しをつける編集者として仕事をした経験があります。読者の興味をひく言葉、また「あっ、あのニュースね」と想起できるキーワードを見出しに使いたい気持ちはわかります。でも冷静に考えると、丸刈りは今回の事件の本質とは関係なく、このニュースを伝える上で重要な要素とは思えません。丸坊主にした事実を伝えることを否定はしませんが、続報の記事にまで見出しにとる必要はあったのでしょうか。

「謝罪」「罰」の意味づけを強化

このニュースについて、病気によって髪がない当事者はどう感じたのでしょうか。

自らも円形脱毛症で全身の体毛を失い、髪のない女性たちの生きづらさについて、社会学の視点から研究する吉村さやかさん(34)=日本大学大学院博士後期課程・日本学術振興会特別研究員=は「不快でした。傷つく人がいるだろうなと思いました」と語ります。

「公人が『丸刈り=反省』と意味づけて髪を切り、それをメディアが面白がって報道することで、丸刈りへのネガティブなイメージが強化されてしまいます。こうした負のラベリングが強まるほど、髪のない当事者は『私は反省の印を背負った存在なんだな』と傷つくおそれがあります。それなのに、丸刈りにした前市長も、ことさら強調するメディアにも想像力がなく、なんて無自覚なんだろうと思いました」

公人による「丸刈り=反省」はこれまでも繰り返されてきました。誰もが思い出すのは、AKB48の峯岸みなみさんが2013年にした涙の丸刈り謝罪でしょう。女性が坊主頭にしたことに「やりすぎ」との批判もわきおこりましたが、「女の命である髪を切った姿勢に感動する」といった賛同の声もありました。

吉村さんは「髪は女性らしさの象徴であり、『女の命である』といった価値観が強いため、丸坊主の記号的な意味は男性よりも強くなる」と言います。だからこそ、髪のない女性たちは深く悩み、かつらで脱毛を隠さざるをえません。彼女たちの生きづらさの根本的な原因は、女性に髪の毛がないことそのものではなく、「女性に髪の毛がないことをタブー視し、隠すべきだ」と求める社会の側にあると、吉村さんは考えています。

自らも円形脱毛症で全身の体毛を失い、髪のない女性たちの生きづらさについて研究する吉村さやかさん
自らも円形脱毛症で全身の体毛を失い、髪のない女性たちの生きづらさについて研究する吉村さやかさん

「罰」や「隷従」の象徴

では、いつから丸刈りは謝罪を意味するようになったのでしょうか。

髪の歴史について様々な文献を調査してきた吉村さんによると、剃髪や丸刈りは「自発的」か「強制的」かによって意味が異なる、と分析する先行研究があるそうです。今回のような「丸刈り謝罪」は誰かに強要されたわけではないので「自発的」に分類されるでしょう。

自発的な剃髪としては、仏門に入る際に髪を剃る宗教的行為があります。また平安期には、子どもたちが一定の年齢になると、髪を短く切りそろえる風習があったそうです。「自発的に髪を切ることは決意表明や通過儀礼であった歴史が、先行研究で報告されています。つまり、自発的な丸刈りには元来、『反省』『謝罪』といった負のイメージはなかったようです」

一方で、強制的な剃髪は日本を含め世界中で、古くから「恥辱」「社会的地位の剝奪」「隷属」のために用いられてきたことを示す研究があるそうです。古くは、古代ギリシャの都市国家スパルタで敵前逃亡した兵士に剃髪の罰が与えたとされています。日本でも鎌倉時代や江戸時代に刑罰として用いられてきました。そして、現代でも「罰」の象徴であり続けています。中高の部活動で「失敗」への連帯責任として強制的に丸刈りにさせられた経験がある人もいるでしょう。

こうした強制的な剃髪の「罰」「恥辱」のイメージが、もともとは負の意味をもたなかった自発的な丸刈りに加わり、「謝罪や反省の手段として用いられるようになったのではないか」と吉村さんは推測します。

河井克行容疑者からの現金受領を認め、会見で頭を下げる安芸高田市の児玉浩前市長=6月26日、広島県の安芸高田市役所、上田幸一撮影
河井克行容疑者からの現金受領を認め、会見で頭を下げる安芸高田市の児玉浩前市長=6月26日、広島県の安芸高田市役所、上田幸一撮影

髪はアイデンティティの一つに過ぎない

「そもそも……」と、吉村さんはため息をつき、こう続けます。「丸坊主にしたところで、今回の事件に対する謝罪や反省にはなりませんよね」

「確かに、人にとって髪は大切なアイデンティティの象徴です。だからこそ、古くから刑罰として用いられてきました。しかし、髪はその人の要素の一つに過ぎず、自ら切ったところで、アイデンティティの剝奪にはなりません。それに、病気で髪がない私とは違って、この前市長は3、4カ月もすれば髪は生えてきますよね。それを反省と言われても……。『許してほしい』『ほとぼりが冷めるまで』といった意識が透けて見えます」

自戒を込めて明かすと、私自身も「反省の印」として髪を自ら剃った経験があります。15年前の記者1年目。先輩に、ある目標を達成できなかったら「スキンヘッドにする」と自ら約束し、守れなかったために髪を剃ってもらいました。そして、取材先に「罰ゲームです」と笑いながら話題のネタにしていました。無自覚に人を傷つける恐れがあることをしていたと、今ならわかります。

「社会には『丸刈り=反省』との認識があると思いますが、自分たちの当たり前や常識を問い直し、髪のない人たちの声に耳を傾けてほしい。特に公人とメディアは、自分たちがそうした価値観を強化してしまう恐れがあることに、自覚的であってほしい」。そう、吉村さんは願います。

メディアに携わる一人として、私は吉村さんの言葉を重く受け止めます。今回の事案も一例ですが、自らの報道が特定の人たちへの「負のラベリング」につながらないよう、細心の注意を払っていきたいと考えます。

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