連載
#2 #ウイルス残酷物語
疫病は船でやってくる 遣唐使船にクルーズ船……民俗学者がひもとく
日本人が海の向こうに抱いてきた「恐怖」
当初、日本にとって「対岸の火事」とも思われた新型コロナウイルス。民俗学者・畑中章宏さんは、天平時代の遣唐使までさかのぼりながら「疫病は船でやってくる」と歴史をひもときます。コレラ、スペイン風邪など、日本を揺るがしてきた疫病。「船」をキーワードに読み解いた時、見えてくるのは「日本人は海の向こうからやってくる脅威に、潜在的な『怯(おび)え』を抱き続けてきた」と解説します。畑中さんに、「船」から考える日本人と疫病の闘いについてつづってもらいました。
今年5月25日、50日近くに及んだ緊急事態宣言が解除された。未知の疫病との戦いはまだ終わったわけではないが、ここまでの長い道のりの“発端”について振り返っておきたい。
新型コロナウイルスによる感染症が、日本人にとって身近な問題になるまでそれほど時間はかからなかった。中国湖北省の都市・武漢で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の患者が最初に確認されたのは、2019年12月初めのことである。その後、年を明けると、武漢という地名を目にしない日はなくなっていった。
武漢は、北京や天津、上海や南京、広東や深圳(しんせん)などと比べると、日本人にはなじみが薄かったのではないか。ある時代まで、地図上に「ウーハン」と読みがふられていたはずだが、現在の報道では「ぶかん」と表記し、発音されている。
中国内陸部の長江流域に位置する武漢は、人口約1100万人というメガシティで、その中心部は武昌・漢口・漢陽(武漢三鎮)からなる。近代史の上では辛亥革命の口火が切られた武昌起義が起こり、日中戦争の節目とされる武漢作戦がおこなわれた。
年が明けた20年の1月1日に、感染源だと疑われた「武漢華南海鮮卸売市場」が閉鎖され、7日には感染の原因が新種のコロナウイルスであることが確認される。そして11日に初めの死者の情報が公になった。
これからしばらくのあいだ、卸売市場のようすが映し出され、中国人の食習慣などがメディアやネットで取り上げられた。
武漢の状況が深刻化していくようすは日本でも報道され続けていた。それでも19年中は、日本人には海の向こうの出来事という意識しかなかったのではないか。しかし、新型ウイルスが日本に“上陸”することに対する不安は、年が明けてから徐々に広まっていった。
どの程度意識されていたかわからないが、日本人の感染症への恐れには歴史的に培われた傾向があった。大量死をもたらす感染症、いわゆる「疫病」は海を渡ってやってくることが多かったからである。
『続日本紀』には737年(天平9年)に「疫瘡(えきそう)」という病気が蔓延したことが記されている。
太宰府を中心に北九州で猛威を振るったこの疫病は、藤原不比等(ふひと)の息子である四兄弟を死に至らしめる事態となった。この疫病は天然痘だとされてきたが、太政官符に「赤班瘡(せきはんそう)」とされていることから「麻疹(はしか)」という見方も強い。
いずれにしてもこの疫病の感染源として疑われたのは、ひとつが北九州との交流が長く続いている朝鮮半島の新羅国、もうひとつは一気に大量の感染者を出したところから、733年に唐から帰国した遣唐使船だった。いずれにしても大陸からもたらされたものに間違いない。
これまでに、日本列島で大流行を起こした感染症は、天然痘やはしか以外も、海外からもたらされた。
日本への最初のコレラ侵入は、1817年インドのカルカッタで起きた大流行が3年後に中国に達し、朝鮮半島から対馬経由で1822年(文政5年)に、下関にやってきたものである。この病気に感染すると、急速に脱水症状が進み死亡するため「三日ころり」と呼ばれた。
1858年(安政5年)の大流行では、中国に寄港してコレラに発症した水兵を乗せたアメリカの軍艦が長崎に入港、そこから九州より大坂(大阪)、京都と広がり、初めて箱根を越えて江戸へ侵入したのである。
コレラは一日に千里を走るとされる虎のイメージから、「虎烈刺」「虎列拉」「虎列刺」といった漢字があてられ、日本で最も恐れられている狼(ニホンオオカミ)のお守り札が流行した。
1918年(大正7年)の11月に世界各地で大流行を起こしていたインフルエンザ「スペインかぜ」が押し寄せ、全国的な大流行となった。1921年7月までの3年間で、人口の約半数(2380万人)が罹患(りかん)し、38万8727人が死亡したと報告されている。
スペインかぜの最初の世界的大流行は1918年3月、アメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近で流行がはじまり、アメリカ軍のヨーロッパ進駐とともに同年5月~6月、西部ヨーロッパ中に爆発的に広まった。
アメリカ発の感染症がなぜ「スペインかぜ」と呼ばれたのかというと、スペイン王室での罹患をメディアが大々的に報道したことで、スペインが流行の発生地だと思われたからだとされる。
ここで、視点を再び現代へと戻す。
新型コロナウイルスの感染は、国内でも広がっていった。東京都内では、個人タクシーの運転手らが新年会を開いた屋形船が感染源として疑われ、大阪ではライブハウス、名古屋市ではスポーツジムで集団感染が起きた。
きっかけの一つになったと言われているのは、1月上旬から中旬にかけての「春節」により、人の大規模な移動があったことだ。交通の要衝である武漢から人々が拡散し、中国のほかの省にもウイルスの感染は広がっていった。
一方で、屋形船については、感染源との見方を打ち消す事実も明らかになっている。今年5月以降、運営会社の従業員のうち、業務で中国人観光客と接していないにもかかわらず、ウイルス検査で陽性となったケースがあったなどと報じられた。
市中感染が広がったプロセスについて、正確な情報を得るには、今後の検証を待たねばならないだろう。
ただいずれにしても、日本ではこの数年、観光地や都市の繁華街の一部で、インバウンドがもたらす経済効果の恩恵にあずかっていた。こうした観光地に、春節の休暇で来日した中国人が、新型ウイルスをもたらすのではないかと危惧する人は少なくなかった。
武漢で発生した原因不明の肺炎は集団感染していった。こうした感染者集団を「クラスター」は呼ぶのは、現在では周知の事実だが、この言葉が日本に定着する上で、やはり「船」の存在は欠かせなかったと言えるだろう。
中でも、新型コロナウイルスが日本に上陸するかどうかで世間を最も騒がせたのは、今年2月に横浜港に寄港し、船内でクラスターを発生させたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」である。
船籍は英国で、米国の会社が所有・運航し、日本の三菱重工長崎造船所で建造された。定員2706人、乗員1100人で、帰港時にはほぼ満員だった。
船内には日本の領海外で開かれるカジノ会場や、大きなステージ、ダンスホール、ジム、映画館などがあり、2月2日から横浜に帰港する3日までのあいだ、下船直前の祝賀イベントが盛大に行われ、ショーやダンス、音楽会などが催されていたという。
このクルーズ客船に乗船していた中国系男性が1月25日に香港で下船。男性は下船後に発熱し、陽性が確認された。クルーズ船の乗員・乗客を横浜港沖で検疫した結果、10名に陽性反応が確認され、以降、船内の厳しい状況が連日報道されていった。
最近になって、欧州からウイルスから持ち込まれたという指摘が上がるなど、真相の究明にはなお時間がかかりそうだ。一方、新型コロナウイルスの脅威を象徴する存在として、クルーズ船が日本人の記憶に刻まれたことは否定できない。
天平時代には遣唐使船が「疫瘡」をもたらしたのに対し、新型コロナではクルーズ客船や屋形船がクラスターの発生源とみなされた。全くの偶然で、密閉空間であることが大きな要因なのだが、日本に“上陸”する感染症が、今回も「船」と結びついていたのだ。
江戸時代後期、安政年間に蔓延した「コレラ」もアメリカの艦船が感染源だとみなされた。船によって運ばれてくる恐ろしくも未知の感染症に、日本人は経験上、神経質にならざるをえないのである。
今回のウイルス禍で日本の感染者数や死者数が低く、例外はあるものの、多くの人が自粛要請に従った背景には、海を渡ってやってくる疫病に対してその脅威を記憶し、潜在的な「怯え」を抱いていたからかもしれない。
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