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連載

#51 #となりの外国人

英雄として送り出されたインドネシア人看護師、10年とどまれた理由

「みなさんに感謝したいです」

高齢者が多い整形外科病棟。患者に笑顔で声を掛けながら、仕事をするモハマド・ユスプさん=撮影は2016年
高齢者が多い整形外科病棟。患者に笑顔で声を掛けながら、仕事をするモハマド・ユスプさん=撮影は2016年

目次

新型コロナウイルスで緊急事態宣言が続く中、医療や介護の現場で仕事を続ける人々が社会を支えています。そして、その中には、多くの外国人がいます。祖国から「英雄」として送り出されたインドネシア人のユスプさんは、経済連携協定(EPA)の第一陣として来日しました。次々と仲間が帰国する中、10年間、日本で暮らし、今は看護師として医療の最前線にいます。「自分は何のために来たのか」悩む時もあったというユスプさん。日本を「第2の故郷」だと言えるまでの道のりを聞きました。

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ゼロから日本語を勉強して、日本の看護師になったユスプさん。10年以上の日本生活で、自分を励ました曲を聞きました。家族を守るお父さんを歌った「ヒーロー」は、照れくさそうに教えてくれました。
 

息子に「近づかないで!」

「Ayah! Ayah!(=お父さん! お父さん!)」

玄関のドアを開けると、帰りを待ち構えて飛びついてくる小学校2年生の次男イズミくん。

「近づかないで!」と制して、風呂場に直行します。

都内の病院で働く、インドネシア人看護師のモハマド・ユスプさん(38)は看護師としての使命をまっとうする一方で、家族を守る父として、緊張の日々を過ごしています。

職場までは電車で片道約1時間。「電車内ではつり革にも触らない」と決めて、通勤します。

勤続10年以上になった「河北総合病院」は、杉並区の基幹病院の一つです。指定医療機関がひっ迫する中、新型コロナウイルスの感染や感染疑いのある患者の受け入れも、分院で始めました。

ユスプさんは本院にある整形外科で働いています。感染患者を担当はしていませんが、日々、職場で緊張感が高まっていくのを感じながら、業務を滞りなくこなせるよう注意を払ってきました。

面会制限で入院中の患者のために家族からの届け物を渡すなど、なるべく安心してもらえるよう心を配ってきました。4月からは、日本人の新人看護師に仕事を教える「プリセプター」にもなりました。

パイオニアとして来日

ユスプさんが来日したのは2008年でした。看護・介護の分野で働く外国人を受け入れるEPAの第一陣、208人の1人でした。

外国人労働者に対して閉鎖的な日本にとっては「開国」とも言われる取り組みでした。空港にインドネシアのバティック(伝統のろうけつ染め)のシャツを着た人たちが行列で降り立った光景は、テレビや新聞で大々的に取り上げられました。

「日本語の壁は大丈夫か?」
「イスラム教徒の食べ物はどうするのか?」

受け入れる病院や介護施設の対応に注目が集まりました。

成田空港に到着したインドネシア人の看護師・介護福祉士の候補者たち=2008年8月7日、葛谷晋吾撮影
成田空港に到着したインドネシア人の看護師・介護福祉士の候補者たち=2008年8月7日、葛谷晋吾撮影
出典: 朝日新聞

日本人と同じ「国家試験」に合格すると、正看護師・介護福祉士として無期限で働くことができる一方、看護は3年、介護は4年で合格できなければ「帰国」。

10年以上が経ち、同じ枠組みでインドネシア、ベトナム、フィリピンから看護1400人、介護5000人が来日しました。ユスプさんたちはそのパイオニア的な存在として、制度もサポートも手探りな状況で、日本での居場所を切り開いてきました。

親を手伝い魚を売る生活

ユスプさんが看護師を志したのは、「人を助ける仕事」だったからです。

ユスプさんは首都ジャカルタ郊外で育ちました。親は市場などで魚を売って生計を立てていました。

「裕福な家庭ではなかったです」

中学の頃から、早朝、市場まで乗り合いバスで魚を運び、昼から始まる学校で学んだそうです。

高校の進路選択の時期は、インドネシア経済が大打撃を受けた「アジア通貨危機」と重なりました。失業者が増える中、担任から勧められたのが「不況に影響されない職業」。

その時、目にとまったのがテレビドラマで見た医療従事者でした。親に相談し、医学部は高額だったため、看護師の道を目指しました。

通貨危機を背景に、32年間の開発独裁を進めたスハルト政権が退陣に追い込まれました。「民族覚醒の日」、約2万人の学生が国会前に集まりスハルト退陣を訴る/撮影・ジャカルタ支局=1998年5月20日
通貨危機を背景に、32年間の開発独裁を進めたスハルト政権が退陣に追い込まれました。「民族覚醒の日」、約2万人の学生が国会前に集まりスハルト退陣を訴る/撮影・ジャカルタ支局=1998年5月20日 出典: 朝日新聞

看護学校の費用も、休みの日に働きながら自分で補てんしました。卒業後は看護師として働きながら、看護学校で教鞭も執っていました。

しかし、インドネシアでは看護師の地位がまだ高くなく、給料は最低限しかもらえませんでした。サウジアラビアなど中東の国々に働きに出る友人もいたそうです。

ユスプさんにはマレーシアの看護学校から「教えてほしい」とのオファーがありました。おなじタイミングで「日本も看護師を探している」と誘われました。

マレーシアの方が給料は少し高かったのですが、選んだのは日本でした。幼いころから親が「買うなら日本製」と、家にあるラジオやテレビは日本製ばかり。「きっと看護の技術も高いだろう」と思ったそうです。

日本行きを決めたものの、情報は足りていませんでした。8月の来日に向けて、募集が来たのは直前の5月。短時間で人を集めるため、元々日本にネットワークがあるベテラン看護師や、教師たちに声が掛かりました。

日本初のインドネシア人看護師の派遣事業。面接を受けるインドネシア人看護師の候補(左)=2008年6月16日、ジャカルタ
日本初のインドネシア人看護師の派遣事業。面接を受けるインドネシア人看護師の候補(左)=2008年6月16日、ジャカルタ 出典: 朝日新聞社

ユスプさんは「『日本では看護師が足りない』『患者も高齢者が多い』と聞いていました。今考えると恥ずかしい話ですが、『日本の医療を支えたい』『日本を救うヒーローなんだ』ぐらいの気概を持って来日したんです」と苦笑します。

その時、結婚していて2歳の長男アズミくんがいたユスプさん。空港での見送りではアズミくんは、妻ウッミさんに抱かれ、大泣きしました。インドネシアの閣僚や日本大使らが壮行会を開き、「英雄」として送り出され、日本に発ちました。

ほとんどの人が、日本語の語学はゼロ、そもそも日本がどういう場所かすら分からない状態でした。


その時、ユスプさんもこんな将来を描いていました。

「日本の看護師免許を取って、暮らしやすい日本に家族を呼び寄せる。日本で働きながら貯金しつつ、キャリアを積み、5年くらいでインドネシアに帰って、看護大学で日本の看護技術を教えたい」――。

塩尻孝二郎・駐インドネシア大使(右端=当時)と談笑するインドネシア人看護師、介護福祉士の候補者=ジャカルタ、2008年8月6日
塩尻孝二郎・駐インドネシア大使(右端=当時)と談笑するインドネシア人看護師、介護福祉士の候補者=ジャカルタ、2008年8月6日 出典: 朝日新聞

「何の為に来たんだろう」

日本に来て半年は研修施設で日本語などを勉強し、それぞれの就労先である全国の病院や介護施設に散らばりました。

第一陣で来日した人たちの多くが、そこで想像していた仕事との違いにショックを受けることになります。

国家試験に合格する前は「看護助手」として働きますが、ユスプさんがイメージしていたのは、「点滴を渡すなどの看護師のアシスタント」でした。でも実際の仕事は、シーツ交換やトイレの掃除など。インドネシアなら、入院患者に付き添う家族や、掃除係の仕事でした。

「注射器にも触らせてもらえない」。そんなストレスから、途中で帰国した人もいました。

ユスプさんも、「何の為にここに来たんだろう」「外人って必要なんだろうか」と考えることもあったと明かします。来日前に想像していた、「求められていた」存在ではなかったんだと感じました。


でも、簡単に諦めるわけにはいきませんでした。ユスプさんは日本語の辞書を白衣のポケットに入れて働きました。

「普段は『むくむ』。でもレポートや試験では『浮腫(ふしゅ)』になる」。そのほかにも「褥瘡(じょくそう)」など、看護技術を学ぶ以前に、日本語が分かりませんでした。

同僚ともコミュニケーションが取れず、ささいな誤解を訂正できない孤独感も感じました。


なによりつらかったのは、家族と離れて暮らす生活でした。

アズミくんと妻との連絡は当時、電話とメールだけ。「人生で最もつらい時間でした」

国家試験に合格するまでは、家族は「観光ビザ」で来日するしかなかった。夏休みに長男アズミくんと妻ウッミさんが東京に訪ねに来てくれるのが待ち遠しかった=ユスプさん提供
国家試験に合格するまでは、家族は「観光ビザ」で来日するしかなかった。夏休みに長男アズミくんと妻ウッミさんが東京に訪ねに来てくれるのが待ち遠しかった=ユスプさん提供

トイレの中でも勉強

家族を呼び寄せるためにも、技術を学ぶという来日の目的を果たすためにも、「何とか早く日本の免許を取りたい」と思ったユスプさん。

仕事を終えて帰宅すると、夜中まで漢字と格闘しました。休日も、風呂も、トイレの中でさえ、「3年間、仕事と寝る以外の全ての時間を勉強に当てたと言っても過言ではないです」と振り返ります。


1年目はほとんど独学でしたが、国や病院もサポート体制を徐々に整えていきました。ボランティアで先生役を買って出てくれる日本人もいました。

ユスプさんの枠組みでは、ルール上、3年目で合格しなければいけません。「最後」の試験にのぞみましたが、1~2点、合格に届きませんでした。でも政府は「1年間延長」という措置を設けました。ユスプさんは4年目の2012年、無事に国家試験を突破しました。

合格と聞き、看護師長と喜び合うモハマド・ユスプさん=2012年3月26日、東京都杉並区の河北総合病院
合格と聞き、看護師長と喜び合うモハマド・ユスプさん=2012年3月26日、東京都杉並区の河北総合病院 出典: 朝日新聞

看護師になってわかった「本当に人が足りない」

実際に看護師になると、「まるで異世界」のように仕事は変わりました。国家試験合格は、本当に厳しい勉強の始まりでしかなかったのです。

「ああ、日本の病院に人が足りないというのは本当だった」。目の当たりにしたのは、看護師の仕事の実態です。

インドネシアだったら、忙しいと言っても、看護師や患者と冗談を言いあう余裕がありました。日本では、分刻みにやることがあります。「頭で整理しないと仕事が回らない」

技術的には、インドネシアの看護師時代に経験しているようなことでも、全ての動作に紐付く言葉が日本語でした。技術を習得するにも、日本語が必要になります。

毎月目標を提出し、振り返る。日々の申し送り、再発防止のための対策、そしてレポート作り……。

「日本は、細かくしっかり真面目にやっているから、仕事量が多い」

それに加え、インドネシアだったら病院で患者の家族が泊まり込みでやる、食事や着替え、排泄や入浴などの介助も、看護師の仕事でした。

インドネシアと日本の看護師の違いを、ユスプさんはこう表現しました。「ご飯1膳でインドネシアだと8時間働くことができる。日本だと3時間ぐらいしか腹がもたない。仕事に必要なエネルギー量が全然、違う」


難関の国家試験を合格した後、さらに続く勉強。ユスプさんのようなインドネシアでの経験があるベテランでも、看護師としては日本の新卒の看護師と同じ扱いで、またゼロからのスタートになります。国家試験に合格後に、「もう疲れ果てた」と帰国するEPA仲間も相次ぎました。

【関連記事】外国人看護師・介護士、難しい定着「もう疲れ果てた」
国家試験に合格した介護福祉士のインドネシア人女性は、口頭での申し送りが必要な夜勤リーダーなどで限界を感じて帰国した。「頑張って頑張って合格したけど、もっと高い壁がある。私は日本人と同じようにはなれない」。荷造りをすると、1箱は勉強で使った介護と日本語の本で埋まった=2016年、東京都内
国家試験に合格した介護福祉士のインドネシア人女性は、口頭での申し送りが必要な夜勤リーダーなどで限界を感じて帰国した。「頑張って頑張って合格したけど、もっと高い壁がある。私は日本人と同じようにはなれない」。荷造りをすると、1箱は勉強で使った介護と日本語の本で埋まった=2016年、東京都内 出典: 朝日新聞

ユスプさんは、来日したばかりの後輩に必ず伝えていることがあります。

「インドネシアでの経験はすべて忘れた方がいい」

「日本には日本のやり方がある。ゼロからやると思わないと、結局、中途半端になってしまう」

ユスプさん自身がさまざまな悔しい気持ちを乗り越えて見つけたアドバイスでした。

来日後に研修を受けている「後輩」たちに、「和を重んじる」など働く上で必要な心構えを話すユスプさん。日本での子育てなどの経験も語った=2016年7月
来日後に研修を受けている「後輩」たちに、「和を重んじる」など働く上で必要な心構えを話すユスプさん。日本での子育てなどの経験も語った=2016年7月

落ち着いたらやりたかったこと

看護師に合格した直後、家族をすぐに呼び寄せました。

都内の小学校に入学した長男アズミくんは、まだ日本語が分かりませんでした。妻のウッミさんも日本語が分からないので、宿題の手助けや、学校とやり取りは、ユスプさんが担いました。友人や家族と離れて日本に来た2人に寂しい思いをさせられないと、休みの日は家族で出かけました。仕事と家族のことでいっぱいいっぱいでした。

ようやく落ち着いてきた2015年、ユスプさんは、思い描いていたことを行動に移します。

日本での孤独な時間、将来への不安、つらい日々に「ずっと、仲間と支え合えるための組織がほしい」と考え、「インドネシア人看護師・介護福祉士協会」(IPMI)を発足させたのです。

IPMIでは、日本での生活や仕事の悩みを共有し、情報交換をしています。全国各地の仲間とオンラインで勉強会もします。

「仕事中にヒジャブ(女性の頭髪を覆う布)を外せと言われて困っている」

そんな相談には「気持ちを伝えてみよう、1人が難しかったら一緒に言います」と助言し、1人よりも力を発揮できる団体としてサポートしています。

インドネシア人看護師・介護福祉士ムスリム協会、断食月の集会。仲間と過ごす貴重な時間に、遠方からも仲間が集まる=2016年6月18日
インドネシア人看護師・介護福祉士ムスリム協会、断食月の集会。仲間と過ごす貴重な時間に、遠方からも仲間が集まる=2016年6月18日

IPMIが特に求められるのは、仲間が突然の不幸に見舞われた時です。

2019年、都内で働くインドネシア人看護師男性が、仕事後に倒れ、急逝しました。日本に呼び寄せたばかりの妻と、生まれたばかりの子どもが遺されました。

在日インドネシア大使館から「一緒に助けられないか」と連絡を受けたユスプさんは、SNSを通じてIPMIや、インドネシア人留学生、婦人会などに「募金」を呼び掛けました。

「日本からインドネシアにご遺体を搬送するのに、遺族は合計で80万円~100万円くらい用意しないといけないんです」

2週間ほどで、費用のほとんどをまかなえる金額が集まり、インドネシアの遺族に贈られました。

「インドネシア人は、日本人のように生命保険をかけたり、個人で問題を解決できる備えがある人が少ないんです」とユスプさんは話します。

「だからこそ、互いにつながって、助け合おうとします。インドネシアでは相互扶助(ゴトンロヨン)という文化もあります。『お金は回り回って、自分のためになる』、『宗教上の徳を積むことになる』という思いも強いから、募金はすぐに集まります。留学生や研修生、オーバーステイなどで社会のセーフティーネットから漏れた人たちが日本で亡くなったとき、こうやって、助け合ってきました」

インドネシアでも多いデング熱が、日本で発生したことを受け、ユスプさんたちIPMIは手製のチラシを代々木公園前で配り、予防方法を教えた。長男アズミくんも手伝った=2016年7月
インドネシアでも多いデング熱が、日本で発生したことを受け、ユスプさんたちIPMIは手製のチラシを代々木公園前で配り、予防方法を教えた。長男アズミくんも手伝った=2016年7月

「困っている人に国籍や宗教は関係ない」

いま、ユスプさんたちイスラム教徒は、4月後半から5月後半まで1カ月間、断食月を迎えています。

断食月では「日の出から日没まで一切の飲食を絶つ」生活をしますが、善い行いをするための時期でもあるとされています。

5月11日、ユスプさんは、近所に住む留学生や研修生、看護師仲間に、ハラル(宗教上許された)の鶏肉、砂糖、油など「スンバコ(生活必需品)」を配りました。

IPMIで寄付を募り、メンバーと分担しながら、全国各地の困っている人たちに食料品を配りました。

一昨年、昨年は、新宿のホームレスにスンバコを配りました。「困っている人に国籍や宗教は関係ない」と考えるからです。

見知らぬ外国人の集団でも、ホームレスたちは温かく迎えてくれたそうです。

「おい、イスラムの人がさ、断食でくれるんだってさ」
「イスラム? 初めて会ったな」

世話好きの男性が、案内してくれるなど、交流も生まれました。

子どもたちも手伝いました。「もし良かったら使って下さい」「少しですけど」。袋には歯ブラシや歯磨き、タオル、お菓子などを詰めていました。

ユスプさんは「断食すると、のども渇くんです。食べられることを本当に有り難く感じる。そうやって、食べることに困っている人たちの気持ちを知り、ほどこすことが、一つの意味なんです」と話しました。

日没に断食を終え、持ち寄ったインドネシア料理を分け合って食べる2016年6月18日
日没に断食を終え、持ち寄ったインドネシア料理を分け合って食べる2016年6月18日

新型コロナウイルスでも支援

新型コロナウイルスは、インドネシアの医療現場にも影響を与えています。

知り合いを通じて知ったのは「道具が足りない。日本のように防護服の備えもない。ゴミ袋を使ったり、マスクを使い回したりせざるを得ない」という状況でした。感染して亡くなる医師や、看護師も出ていると聞きました。

そこで、IPMIでは、感染防止の道具や、看護師の栄養補給にビタミン剤などをそろえる寄付金を募り、インドネシアに送りました。

インドネシアで同期だった友人、日本で国家試験に不合格になって帰国した友人たちは、看護部長などに出世して、病院を支えていました。

日本の報道番組で紹介された感染防止対策、新薬の研究についての最新ニュースは、すぐにインドネシア語に訳して、SNSで投稿しました。

「みんなに届いてほしい」

居ても経っても居られない気持ちでした。

感染が疑われながら未検査のまま埋葬されるケースが相次いでいる。墓地の員は防護服が手に入らず、顔にマスク、全身をビニール製の赤いレインコートで覆っていた=2020年4月7日、野上英文撮影
感染が疑われながら未検査のまま埋葬されるケースが相次いでいる。墓地の員は防護服が手に入らず、顔にマスク、全身をビニール製の赤いレインコートで覆っていた=2020年4月7日、野上英文撮影

漏らした弱音

筆者とユスプさんとの出会いは、12年前の2008年、ジャカルタのEPAの研修会場で初めて話をしました。筆者と同世代の彼は、幼い息子と妻、両親の期待を背負い、日本への希望をキラキラとした目で語っていました。

その後も連絡を取り合い、想像を超える苦労をしてきたことも聞いてきました。

彼は、日本に来て幸せだったのだろうか。

ユスプさんのことを思う時、私はいつも考えていました。

2019年の秋ごろには、ユスプさんがこんな言葉を漏らしたこともありました。

「少し疲れてきちゃったんです。日本にいて、これ以上、成長できることってあるんだろうかと、考えてしまって」

そうやって改善している

年末、ユスプさんは職場である河北総合病院の壇上に立っていました。

「外国の選手たちが、命をかけ、日本人、外国人区別なく、日本のチームのために一体となって活躍をしてくれた」

仕事納めの日。河北医療財団の河北博文理事長はラグビーワールドカップ日本代表を例に挨拶をした後、勤続10年のユスプさんを特別表彰したのです。

河北理事長は、ユスプさんと家族を壇上に上げ、「新人の研修係をやり、当直にも入り、まったく何不自由なく、看護業務に携わって頂いています」「本当に、努力をして、家族ともども苦労をしながら、一緒に働いてくれた。またこれからも、私たちが教えてもらうことがたくさんあると思います」と感謝をしました。

ユスプさんは「私が10年以上、この病院で働くことができたのは、いつも声をかけてくれたり、サポートをしてくれた人がいるからです。私の次男は河北総合病院で生まれました」と言葉を返しました。

壇上で、家族と一緒に河北理事長(右)から表彰をされたユスプさん。妻ウッミさんは何度も涙ぐんだ=2019年12月
壇上で、家族と一緒に河北理事長(右)から表彰をされたユスプさん。妻ウッミさんは何度も涙ぐんだ=2019年12月

表彰の後、昔指導してくれた先輩看護師たちが「本当によくがんばったね」と目を赤くしながら、次々と、声を掛けにきました。

お酒が飲めないのに宴会の幹事を引き受けるなど、職場になじもうと努力をしていたユスプさん。今では「お祈りの時間だよ」と声を掛けてくれる同僚もいます。

息子たちはユスプさんの日本語力を追い抜き、地域に馴染みました。まだ日本語が苦手な妻も「日本は暮らしやすい」と言うようになりました。

10年以上かけて、どんどん変わってきた。諦めずに、努力し続けたユスプさんたち、そして認めてくれたまわり人たちが、社会を変えてきた、ささやかだけど大事な積み重ねの成果がそこにありました。

ユスプさんは「日本に来て良かった。人生としては。いろいろありましたけど」と言いました。EPAのプログラム、日本政府の方針に影響された人生でした。

「でも日本は、対策をよく考えている国です。小さなこともそのままにしない。何か問題があったら、どうやって解決するか。そうやってゆっくりゆっくり改善しているんです。私はそういう日本から、すごく学びました」

でも、ユスプさんは「自分は外国人」という意識をいまだに持っています。「どうしても不安になる、それは私の性格の弱さなのかもしれません」。そう言って、笑いました。

「いつかインドネシアに帰りたい」「とても複雑な気持ちなんです」

表彰後、持ち場が変わってなかなか会えなくなった先輩たちが「本当によく頑張ったね」と声をかけた。ユスプさんはそのたびに、「みなさんのおかげさまです」と感謝を返した=2019年12月
表彰後、持ち場が変わってなかなか会えなくなった先輩たちが「本当によく頑張ったね」と声をかけた。ユスプさんはそのたびに、「みなさんのおかげさまです」と感謝を返した=2019年12月

複雑さを受け止めながら

来日する前に思っていたような人生設計とは違っていく日々。その時々で変わっていく自分の「役割」。その国で生活する複雑さは一言では表せないものだと思いました。

そして、その複雑さを受け止め、一緒に考えていくことが、外国人、外国にルーツのある人たちと一緒に社会をつくっていくことなのだと思います。

ユスプさんは10年を振り返って、こんなメッセージを寄せてくれました。

10年前、日本語が全然できなかった私ですが、今はできるようになりました。
10年前、漢字を書くこともできませんでしたが、今はできるようになりました。
10年前、日本の文化はまったくわかりませんでしたが、今はわかります。
国家試験に合格し、日本の看護師として働けるようになりました。 家族を日本に呼び寄せ、日本で平穏に暮らせるようになりました。
日本がとても好きです。できるだけ長く日本で暮らしたいです。
日本はもう私にとって第二の故郷です。

私を支えてくれ、プログラムを改善するのに尽力してくれたみなさんに感謝したいです。
日本で生まれた次男イズミくんの七五三に合わせて、家族で撮った。イズミくんは今年7歳、日本に来る時2歳だった長男アズミくんは中学3年になった。背も追いつかれた=ユスプさん提供
日本で生まれた次男イズミくんの七五三に合わせて、家族で撮った。イズミくんは今年7歳、日本に来る時2歳だった長男アズミくんは中学3年になった。背も追いつかれた=ユスプさん提供
 

 日本で働き、学ぶ「外国人」は増えています。でも、その暮らしぶりや本音はなかなか見えません。近くにいるのに、よくわからない。そんな思いに応えたくて、この企画は始まりました。あなたの「#となりの外国人」のこと、教えて下さい。

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