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連載

#30 #withyouインタビュー

クラス全員からの拒絶……ゲイ映画・橋口亮輔監督の居場所の見つけ方

橋口亮輔監督=山本和生撮影
橋口亮輔監督=山本和生撮影

目次

【8/26無料イベント開催】しんどい子が安心できる「居場所」を考えます

同性愛の男子学生が主人公の映画「二十才の微熱」でデビューして25年余り。映画監督の橋口亮輔さん(57)は、ゲイ映画の先駆者として、社会への違和感や人のつながりに焦点を当ててきました。誰も口をきいてくれない経験をしたという中学時代。「まじめな子ほど、自分で解決しなければと悩んでしまう」。両親の離婚、同性への告白、仕事のトラブル、そのたびに自分の居場所を見つけてきた橋口さんは「手を伸ばせば、握り返してくれる手は必ずある」と訴えます。
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<はしぐち・りょうすけ>
1962年、長崎市生まれ。長編2作目、浜崎あゆみ主演の「渚のシンドバッド」(95年)はロッテルダム映画祭グランプリ。2001年の「ハッシュ!」、08年の「ぐるりのこと。」は、いずれもキネマ旬報ベスト・テン2位。15年の「恋人たち」は同1位に選ばれた。

中1で感じた社会への違和感

――どんな子供時代でしたか

おとなしい、目立たない子供でしたね。親から「外で遊んできたら」と言われても、家の中で本や漫画を読んだり、人形で遊んだり。小学校でも中学校でも、成績はオール3。「平凡な人間だなあ」と自分でも思っていました。


――学校で嫌な思いをしたことはありますか

小学生のころは色白で太っていたので、「白ブタ」と言われることはありましたね。
中学1年の夏休みに転校をしたんです。転校する直前、クラス全員から拒絶される、ということがありました。誰も口を聞いてくれないんです。遊んでいる輪に入ろうとすると、みんな逃げていく。「俺たちはだまされないぞ」と敵意むき出しで言われたりして。仲の良かった男の子に「みんな変なんだけど、どうしてなのか教えて」と聞いても、口が重くて。そんな状態が続きました。


――思い当たることはなかった?

ないです。ショックでしたよ。1学期の最終日、先生から「橋口君は転校します。最後の挨拶を」と言われて、どう話していいか分からなかった。すると先生が、ある男の子を当てたんです。「A君、橋口君に何か言うことはないか」って。後で分かったんですが、このA君が、僕がひどいことをしたと周りに言いふらしたようなんです。


――先生から事情を聞かれなかったんですか

先生は僕に確かめもしないで、それを真に受けていた。公平であるべき先生が、一方の意見だけ聞いて、僕には弁解する機会も与えてくれない。悪いことをした子供を哀れむような目で見ている。自分が生きている社会は、こういう決めつけ方をするんだ、と違和感や不信感をもった出来事でした。

中3で両親が離婚 家がほしかった

――その当時、ご両親との関係は

僕は一人っ子でしたが、両親のケンカが激しい家庭でした。何かあると怒鳴りあい、刺す刺さないの騒ぎになる。近所とのトラブルもあって、中学1年で転校したのは、それも原因です。新築の家に引っ越して、2階に自分の部屋を初めて与えられた。でも1階から両親の怒鳴り声が聞こえると、自分の存在を消して、じっとうずくまっていた。両親は僕が中学3年のときに離婚しました。


――寂しかったですか

変な話ですが、親がいなくてもよかった。親よりも家がほしいと思っていたんです。自分が安心できる場所が。
母親から「私に付いてきて」と懇願されましたが、僕は自分の部屋を手放したくないという理由だけで、あまり好きでもない父親と暮らすことを選びました。母親からは随分なじられましたよ。「あんたは計算高い子だ」って。


――映画との出会いは、そのころでしょうか

中学から高校にかけ、「未知との遭遇」や「スターウォーズ」を見て夢中になりました。父親につけこんで8ミリビデオを買わせたんです。「両親が離婚した、かわいそうな子」を演じたんですね。

自分で脚本を書き、高校で入ったブラスバンド部や、演劇部の子たちに出演してもらって、SFやミュージカルの映画を撮りました。映画づくりは自分の救いだったし、ほっと息をつける場所でした。

大学生の時、同性に告白したが…

――自分が同性愛だと気づいたのはいつごろですか
初恋の相手は、小学校1年生のころ、初代仮面ライダーの主人公・本郷猛(ほんごう・たけし)でした。親戚が集まった宴会で、何を思ったか仁王立ちになって「本郷猛のお嫁さんになる!」と叫んだんです(笑)。

高校のブラスバンド部では男の先輩を好きになりましたが、プラトニックな関係で、自分が同性愛だとは思わなかった。「もう、ごまかし切れない」と気づくのは大学の時ですね。


――大阪芸術大学に進み、映画を学びます

父親からは「お前は平凡な人間だ」と言われていました。それでも「自分にしか撮れない映画を」と内面に向き合っているうち、自分が同性愛であることに気づいてしまった。当時、同性愛と言えば「変態」「ホモ」「オカマ」といった言葉がついてきましたから、自分は醜い存在なんだろうか、普通に生きてはいけないんだろうか、と真剣に悩みました。でもやっぱり、そうじゃないだろうと。社会の価値観とは一体何なのだろうって思った。それが自主映画のテーマにもなりました。


――学生時代に恋愛をしましたか

初めて告白したのは大学3年の時。同じ大学の男子に「あなたのことが好きです」と打ち明けたんです。清水の舞台どころじゃない、死ぬ思いでした。すると相手は「別にいいんじゃない?」と言ってくれた。世の中が急にパッと明るくなりましたよ。

2人で一緒にドキュメンタリーを撮ることにしました。「同性愛は気持ち悪いものか」がテーマで。でも、作品づくりに打ち込むあまり、相手の心に本当に差別はないのか、気持ち悪くはないのか、どんどん追い詰めてしまい、人間関係が壊れてしまった。作品は未完のままです。

もがいた20代 生きていいと証明するため

――大学を中退した後も、自主映画を撮り続けますね

20代は、出口の見えない暗いトンネルを進んでいる状態でした。自主映画を続けていましたが、激しく自分を突き動かすようなものはなかったし、生きている実感もない。映画監督になれるとも思っていなかった。ただ、映画は1人ではつくれない。世界と自分をつなぐ唯一のものでした。ひたすら自分と向き合いながら、生きていく道を探していました。


――24歳で、自主映画を制作する若者たちを描いた「ヒュルル・・・1985」が「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」で入選します

東京で受賞パーティーがあって、そこで大島渚監督に初めてお会いしました。「なぜ映画をつくったの」と聞かれて、子供時代のことや、親が離婚したことを話すと、「そうか。でもね、映画監督にとって、思春期のころに親の離婚を経験するのは、大切なことなんだよ」と言ってくれた。これほど優しい言葉はない、というくらいの響きでした。

講評では「優れた映画監督が一生に一度撮れるか撮れないかの青春映画だ」と、ほめてくださった。平凡でしかない自分に個性があるんだ、という喜びで満たされましたね。

――27歳の時、男子高校生の親友への恋心を描いた「夕辺の秘密」でPFFグランプリを獲得。その奨学金として、劇場用作品の監督デビューが決まります

男に体を売る青年の青春物語を撮ろうと考えましたが、プロデューサーからは「ホモの気持ちが分からない。なんで男が男と寝るのか」と言われ、2年間、脚本を書き直し続けました。スタッフからも「監督も無名、役者も無名、内容がホモ。こんな映画、いったい誰が見るんだ」と散々でした。


――その映画「二十才の微熱」は1993年に公開され、大ヒットを記録しました

日本中から手紙が300通ほど来ました。「同性愛が親にばれて死のうと思ったけど、この映画をみて、やめました」「人とうまくやっていけなくて悩んでいたけど、自分は人と違っていいんだと気づきました」。若い人たちからの真剣で率直な言葉でした。

当時はバブル経済の延長で、「明るいことが正しい、暗いのは悪」という風潮があった。でも僕と同じように、無理して明るいノリをしているけど、本当の自分は違う、という人たちが絶対いると思った。その人たちのための映画をつくったら、届いた。 

作品が完成した時は30歳。同性愛の自分は醜い存在ではない、生きていいんだ、ということを証明するまでの20代でした。初めて、自分は映画監督になれると思いました。でも僕の作品で誰かが傷ついたり、もしかしたら死んでしまうこともあるかもしれない。表現するというのは、それだけ重いことなんだということも学びました。

どん底で、握り返してくれる手があった

――10代や若い世代に伝えたいメッセージはありますか

子どもたちは敏感です。大人のうそや偽善を、すぐに見抜く。まじめな子ほど、誰にも相談できず、自分で問題を解決しなければと悩んで、命を絶ったり、孤独を募らせて引きこもったり、ということがあると思います。こうやって僕が話しても、本当に苦しんでいる子の耳には入らないかも知れない。

でもね、絶望の中でも、助けてほしいと手を伸ばせば、握り返してくれる手は必ずある、と思うんです。


――監督自身、2008年の「ぐるりのこと。」の後で、苦しい経験をしたと聞きました

映画関係者からの詐欺にあい、被害に苦しみました。精神的にも金銭的にも行き詰まってしまった。友人たちも去って行きました。「誰も助けてくれない。みんなうそつきばかりだ。愛や希望を語ってきたけど、もう何もかもおしまいだ」。僕は40代後半で、どん底の何年かを過ごしました。

でも、ある映画プロデューサーが、お弁当を持って毎日のように自宅を訪ねてくれて。恨み言ばかり言っている僕に、「橋口さん、映画をつくりましょう」と辛抱強く言い続けてくれた。それで少しずつ立ち直り、まだ映画は撮れなかったですが、俳優志望の人たちを集めた演技のワークショップを開くことになりました。2015年の映画「恋人たち」には、ワークショップで知り合った俳優たちが出演しています。

――演技のワークショップは、どんな感じでしたか

40人くらい、若手の役者や新人、未経験者もいました。僕自身どん底だったから、全てをさらけ出しました。生徒に即興の恋愛劇をやってもらったんです。「自分らしさを出して」とアドバイスすると、「私は不細工だし、個性なんてないです」と、ぽろぽろ泣き出す人もいました。


でも何度も何度も繰り返すうちに、その人の生活や考えていることがにじみ出て、心打たれる瞬間があった。見ているみんなも泣いている。芝居の原点に立ち戻った感じで、とっても美しかった。僕に伝える力はもうないと思っていたんですけど、伝えることは意味があるんだなって思えた。

ものを伝えれば、笑ってもらえる、泣いてもらえる、感動してもらえる。僕は映画づくりしかできないですが、そんな瞬間を引き出すことができれば、と思っています。

 

withnewsでは、生きづらさを抱える10代への企画「#withyou ~きみとともに~」を続けています。

今年のテーマは「#居場所」。 

 目に見える「場所」でなくても、本や音楽…好きなことや、救いになった言葉でもいいです。生きづらい時間や不安な日々をしのげる「居場所」をみなさんと共有できたらと思います。 以下のツイートボタンで、「#居場所」について聞かせてください。


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いろんな相談先があります


・24時間こどもSOSダイヤル 0120-0-78310(なやみ言おう)
・こどものSOS相談窓口(文部科学省サイト
・いのち支える窓口一覧(自殺総合対策推進センターサイト

「居場所」を考えるイベント開きます

イベント

2学期が始まる。しんどくて、逃げたい……。夏休みが終わるのを前に、そんな思いを抱える子どもたちの「居場所」について考えるイベントを8月26日に昼と夜の2部構成で開きます。

(昼の部)10代が安心して過ごせる「居場所」とは?@日本財団ビル 14:30~17:30
子どもの問題を取材してきたノンフィクション作家の石井光太さん、自分の不登校経験をマンガ「不登校ガール」で描いた女優の園山千尋さん、フリースクールネモ代表の前北海さんが、「居場所」について考えるトークイベント。無料です。詳細や申し込みは→https://withyou-ibasho.peatix.com/view

(夜の部)本音トーク!「#居場所」@Twitter本社からTwitterライブ配信(@withnewsjp) 22:00~23:30
不登校経験があり、今は俳優や漫画家などとして活躍する個性的な面々が、つらい日々によりどころにした「居場所」について、本音トーク! ハッシュタグ「#わたしの居場所」に寄せられたアイデアもシェアしていきます!

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