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2019年04月06日

年収700万ポスト捨て「ボブスレー選手」に それでも出たかった五輪


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2005年長野合宿にて。左が長岡さん=長岡さん提供

2005年長野合宿にて。左が長岡さん=長岡さん提供

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中学から大学までは陸上競技で活躍するも、日本一の座だけはとれなかった長岡千里さんが、選んだのが「氷上のF1」と呼ばれるボブスレーでした。20代前半で年収700万円の支店長だったキャリアを捨て、無職のまま長野に向かいました。ゼロからのスタートが決意できた理由。五輪代表になれたことで見えたマイナースポーツの魅力を聞きました。(ライター・小野ヒデコ)

「1番」は諦めていた陸上選手時代

<ボブスレーは約1.5キロのコースを、鉄製のソリに乗って時速100キロ以上で滑走します。2006年のトリノ冬季五輪で女子初のボブスレー日本代表として出場した長岡千里さんが、ボブスレーを始めたのは社会人になってからでした>

中学から大学まで、陸上部で円盤投げに取り組みました。地元では優勝するも、全国大会では決まってベスト8位止まり。ライバルに、あのアテネ五輪に出場した室伏由香選手がいました。最初から彼女には勝てないと思っていました。その一方で1番になれない悔しい気持ちもありました。

大学4年生で将来を考えたとき、就職する道を選び、金融企業に入社。それまでは常に目標を掲げて生きてきたので、社会人となって何を目標にするか考えたとき、営業で一番を取ることでした。

営業で好成績をとれば、給料に反映するためわかりやすかったですね。それを対価にキャリアを積み、支店長にもなり、20代前半で年収700万円ほどありました。次は部長を目指してもっと稼ごうと思っていました。

そんな中、24歳のときに大学時代の友人に「ボブスレーしてみないか?」と誘われて、試しにやってみることに。何にでも興味を持つ性格だったため、軽い気持ちで体験しました。

現在は廣瀬無線電機に勤める長岡さん

現在は廣瀬無線電機に勤める長岡さん

「今しかできないことをしたい」

<それまでボブスレーの試合を見たこともなかったという長岡さんが、本気で五輪を目指そうと思ったのは「今しかできないことをしたい」という決意でした>

2人乗りタイプのソリで、私が乗ったのは後ろ側の「ブレーカー」というポジションでした。その時はただ座っているだけだったのですが、本来ブレーカーの役割はスタート時に200キロ近くあるソリを押し、勢いをつけてスムーズに乗り込むこと。

あとは、前側に座る「パイロット」という運転手の操縦に身を任せるだけです。体験してみて、魅力的なスポーツだと感じました。氷上で時速100キロ以上のスピードで進む点など全てが新しかったですね。

当時、ソルトレイクシティ五輪直後だったのですが、ボブスレーの試合は見たことありませんでした。日本女子ボブスレーは五輪出場をしたことがまだなく、選手強化を念頭に人材を求めていたときだったんです。

その後、声をかけてくれた同級生に誘われてボブスレーの練習場所の長野を訪れました。同じような年代の選手たちがいるのを見た時、ボブスレーで五輪を目指すのも面白いなと思いが芽生えました。

今でもそうですが、「今しかできないことをしたい」ということは常に思っています。仕事は一生していくものだけど、ボブスレーは今しかできない。ボブスレーは経験も知識もゼロだったけど、これで日本一になり、五輪を目指してみようと思いました。

ボブスレーは経験も知識もゼロだったという

ボブスレーは経験も知識もゼロだったという

24歳でボブスレー五輪出場を目指す

<遠征のため年間の半分は仕事を休まなくてはならない現実。会社を辞めてまで競技に打ち込もうと決意したのは、陸上競技で1位になれなかった悔しさでした>

ボブスレーは危険な競技なので、18歳以上ではないとできません。野球やソフトボール、陸上など他の競技をしていた人がボブスレーに転向するケースが多く、幼少期から続けている人がいないんです。

体力勝負の「ブレーカー」の役割だったら24歳からでも勝機はあると思い、本腰を入れてボブスレーをするようになりました。
 
最初は働きながらボブスレーの練習を始めました。インプットする全てが新しく、楽しくて。でも、目標は五輪。趣味でやるのとは違います。遠征などで年間の半分は仕事を休まざるを得なくなります。

そのことを会社の上司に相談すると、「長岡、お前大丈夫か?」と言われ、みんなにも笑われました。それはとても印象に残っていますね。でもキャリアより、私は五輪を目指すことに価値を見出しました。

これまで陸上競技で1位になれなかった悔しさを、ボブスレーにぶつけようと思ったんです。ここが人生の岐路だと思い、思い切って会社を辞めることにしました。

長岡さん(右)とコーチの白谷さん=長岡さん提供

長岡さん(右)とコーチの白谷さん=長岡さん提供

無職のまま単身長野へ

<退路を断った長岡さんを助けてくれたのは、陸上部の顧問でした。競技生活に必要なお金の問題。辞めた会社とのつながりにも支えられ選手を続けていきます>

退職をしたとき、偶然にも高校時代の陸上部の顧問の先生から電話がありました。保健体育の非常勤講師枠が空いたからやってみないかという誘いでした。

私は教職免許をもっていて、大学卒業後に3年ほど会社勤めをして経験を積んだ後、教員になろうと思っていました。先生はそれを覚えていてくれたので連絡をしてくれたんです。

その3ヶ月後に全日本の合宿があったのですが、日々高校生たちと体を鍛えているので、自信がありました。でも実際にふたを開けてみると、全く歯が立たなかったんです。

2005年長野合宿にて。左が長岡さん=本人提供

2005年長野合宿にて。左が長岡さん=本人提供

次のトリノ五輪まであと3年半。このまま高校教師を続けて五輪を目指すのでは、技術的にも、モチベーション的にも難しいと痛感しました。決心したことは、拠点を長野に移すことでした。

そのためには、教師を辞めないといけません。せっかく採用してもらったし、生徒たちとも良い関係を築けていた。それでも、今行動を起こさないときっと後悔すると思いました。

学校を退職後、無職のまま単身長野へ渡りました。とは言え、スポンサーがいないため、練習にかかる経費や海外遠征費などは全て選手の自己負担。生活費を除き、年間で100万円以上の出費がかかります。

働かないといけない。そう思い、前職の金融会社に連絡して事情を話し、パートで雇ってもらえないかと交渉をしました。全国に支店があったため、長野支店で働かせてもらうことを希望しました。

全部私のわがままだということは認識していました。それでも、元同僚に相談したところ、上司に話をしてくれたんですね。その結果、給料の良い営業職にパートで雇ってもらえることになりました。

2005年の長野合宿にて。長岡さん(右)と桧野さん(左)=長岡さん提供

2005年の長野合宿にて。長岡さん(右)と桧野さん(左)=長岡さん提供

悲願の五輪代表決定

<周囲の助けを得ながらのぞんだ選考会。ぎりぎりのところで代表選手入りを果たします。長岡さんの無謀に見えた挑戦が実を結んだのは責任感があったからでした>

2006年2月開催のトリノ五輪の選考にむけて、パイロットは桧野真奈美に決定をしていました。その後ろに乗るブレーカーを決める選考会が長野で開催されました。

この時、長野出身のライバルの選手がいたんです。地元の新聞記者などのメディアはその選手が間違いなく勝つと思っていて、「長岡千里って誰?」と言われたのを覚えています。

勝敗を分けたのは、自分と周りに対する責任感だと思います。仕事を辞めてボブスレーをするという選択をした責任は、自分の意識や生活を変えました。そして、ここで一番のパフォーマンスを出すことができたんです。ライバルの選手に0.14秒勝ちました。

プレッシャーは全くなかったです。これまでの努力に自身が納得していましたし、誰からも注目されていないという逆境が、最高のパフォーマンスにつながりました。

でも、その場で代表は決定しませんでした。実はその1か月前に、ソリを準備していたときに小指を切断する事故を起こしていたので、ケガのハンデも総合的に判断されることになりました。

ホテルに戻った後、監督に呼ばれて「お前に決まった」と言われました。その時の感情はよく覚えていないんですが、ただただ、ホッとしたというのが正直なところです。

トリノ五輪にて。長岡さんをボブスレーに誘った大学の同級生の小林竜一さんと=長岡さん提供

トリノ五輪にて。長岡さんをボブスレーに誘った大学の同級生の小林竜一さんと=長岡さん提供

人との距離の取り方

<念願の五輪の舞台に立った背景には、努力を始め、多くの人からの支援がありました。周りからサポートを得られたのは、長岡さんの人付き合いにおける特徴がありました>

代表入りは決まったものの、日本女子ボブスレーの五輪出場の可否は未確定でした。最終的に、五輪出場が決まったのは出発予定の3日前。バタバタと現地入りをするも、ボブスレー選手だけ選手登録が済んでなくて、最初選手村に入れませんでした。

 日本女子ボブスレーは前回のソルトレイクシティ五輪で出場が撤回になった経験があって。この時も気が気でなかったのですが、無事に五輪で滑ることができました。

スタートラインに立った時、周りの支援への感謝しかなかったですね。今まで助け、支えてくれた人に気持ちを伝えるパフォーマンスにしたいと思い、全力で臨みました。

私は出会った人との距離を縮めたいと思うため、「仲良くなりたい」アピールをし、相手に質問をよくします。それで嫌われたら、それはそれで仕方ないという考え方です。

前職を辞めた後、元同僚らに「最近どうですか?」「私はこんな感じです」というコミュニケーションを取っていました。無意識にしていたことですが、それが結果的に周りの人に助けてもらえるきっかけとなったと思います。

     ◇

長岡千里(ながおか・ちさと)1976年、兵庫県生まれ。天理大学卒業後、00年に金融企業に就職。2006年に冬季五輪トリノ大会に女子ボブスレー日本代表として出場。2014年に廣瀬無線電機に就職。

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開会式で入場行進する日本選手団=5日、林敏行撮影
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