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連載

#12 平成B面史

エアマックス狩られた苦い思い出……突然、おわったブームの真相

小澤匡行さんが所蔵する復刻版「エアマックス95」。スニーカーは事務所や自宅などに計300足以上あるという=東京都港区
小澤匡行さんが所蔵する復刻版「エアマックス95」。スニーカーは事務所や自宅などに計300足以上あるという=東京都港区

目次

【#平成B面】Windows95でインターネット時代が幕を開けた1995(平成7)年、もう一つの「95」が世間をにぎわせました。ナイキの「エアマックス95」。「広末」から「キムタク」、「イチロー」まで、当時のインフルエンサーの足もとを飾ったスニーカーは高値で売買され、しまいには「エアマックス狩り」で若者の足もとが狙われました。あのブームとは何だったのか? 「東京スニーカー史」(立東舎)の著書がある、編集者の小澤匡行さん(昭和53年生まれ)とふり返ります。(朝日新聞記者・斉藤佑介=昭和57年・1982年生まれ)

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部室に鍵をつけるか議論

――「エアマックス」は、グラデーションの色使い、かかとに空気(エア)のクッションを備えた斬新なデザインがブームとなりました。中学生だった私はエアマックスが欲しかったけど、九州の田舎では縁がありません。ただ、スニーカーブームをふり返るとき、高校の入学祝いで買ったナイキの「エアフォースⅠ」がげた箱から盗まれ、スリッパで帰宅した苦い思い出がよみがえります。

 

小澤さん

「いま思えば、学校のげた箱って無法地帯でしたよね。エアマックスが発売された時、僕は高校生で陸上部でした。部活中にスニーカーを盗まれる人がいたし、部室に鍵をつけるかどうか、議論が出ていましたね」

ブームのはじまりは、ジョーダン?桜木花道?

――「エアマックス」をはじめとするスニーカーブームってなぜ起きたんでしょうか。

 

小澤さん

「いくつか伏線があります。一つはNBA。90年代はじめに、衛星放送や一部の民放で試合が放送され、シカゴブルズが人気を集めました。その中で、バスケットシューズ、『バッシュ』に注目が集まりました」
――マイケル・ジョーダンですね。

 

小澤さん

「ジョーダンって今で言う『スーパー・インフルエンサー』ですよ。日本に飛び火したスピードも速かった。さらに漫画『スラムダンク』の影響も大きかったと思います」
スラムダンク
原作井上雄彦。「週刊少年ジャンプ」で1990年に連載が始まった人気漫画。バスケ初心者で不良だった主人公桜木花道が、バスケットボールを通して成長していく。
スラムダンクの原作者、井上雄彦さん
スラムダンクの原作者、井上雄彦さん

バッシュがファッションに

――主人公の桜木花道は最初、体育館シューズを履いていました。

 

小澤さん

「その後、履いたのが『エアジョーダンⅠ』。一般の人たちとNBAの距離を一気に縮めたのはスラムダンクであり、『バッシュをはきたい』と思わせたと思います」

 

小澤さん

「エアジョーダンは、1年に1回後継モデルが販売されました。シリーズ最初の『Ⅰ』は85年に登場しましたが、日本でまったく売れなかった。当時国内では部活も含めて、白を基調としたバッシュしかダメで、ジョーダンⅠは受け入れられず、スポーツ店で売れなかった。ナイキはⅡ、Ⅲ、Ⅳの日本での展開を見送ったといいます」

 

小澤さん

「その後、NBAとかスラムダンクの影響で、バッシュがファッションとして見られ始めると、原宿の古着屋で日本未発売のⅡ、Ⅲ、Ⅳを求める人が出てきた。Ⅴ以降はNBAやスラムダンクで人気に火が付きましたが、Ⅰ~Ⅳはビンテージブームの中で再評価されました」
マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペン=1997年5月、ロイター
マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペン=1997年5月、ロイター

「キムタク」の表紙で拡散

――NBAやスラムダンクなどバッシュによってエアマックスが受け入れられる土壌ができた、と。では、なぜブームにまでなったのでしょうか?

 

小澤さん

「原宿のおしゃれな人たちがそのデザインに目をつけ、スポーツショップで根こそぎ買っていったんです。ランニングシューズであるエアマックス95が出た当時、靴を入荷するのはスポーツ屋さん。デザインが斬新すぎて『ちょっとこれは売れないのでは』と少量しか買い付けていなかった」

 

小澤さん

「いまって、毎週のように新作のスニーカーが出るんですが、当時は1年間を4期に分けて、色違いがリリースされました。1995年夏に有名な『イエローグラデーション』から始まり、次に『ブルーグラデ』が販売されます。おしゃれな人がイエローのエアマックスを入手し、入手できなかった人は次こそは、とブルーを狙う。スニーカー専門店が少なく当時のアカウント(窓口)だったスポーツ店に行列ができました」
――芸能人も履いていましたね。

 

小澤さん

「色んなつてで入手したスタイリストがまた、当時の人気芸能人に履かせていました。テレビや雑誌の影響力が強い時代です。そして、96年1月に『赤グラデ』がでる。雑誌『ブーン』(祥伝社)の当時の編集長いわく、赤が出るタイミングで木村拓哉さんが週刊朝日の表紙ではいて、一気に社会的に広がっていった、といいます」
――いわゆる、伝統的メディアに大きな力があった時代。広末涼子さんが履いていたのを思い出します。

 

小澤さん

「ポケベルのCMで広末涼子さんが履いていましたね。世代が近くて、撮影現場に使われた東京都品川区の公園に遊びに行った思い出があります(笑)。ほかにもイチローさん、鈴木蘭々さん、内田有紀さんら、当時のインフルエンサーが履いていました」
1997年1月発行の雑誌「Boon EXTRA VOL.5」には、エアマックスを履いていた広末涼子さんやロンドンブーツ1号2号のインタビューも。「オキニのスニーカーって光って見えるんですよ!」と当時、広末さんはコメントしている
1997年1月発行の雑誌「Boon EXTRA VOL.5」には、エアマックスを履いていた広末涼子さんやロンドンブーツ1号2号のインタビューも。「オキニのスニーカーって光って見えるんですよ!」と当時、広末さんはコメントしている 出典: Boon EXTRA NIKE エアマックス全搭載247(祥伝社)

「これはもうかる。お金に見えた」 エアマックス御殿も

――なぜあそこまで高値になったのでしょうか?

 

小澤さん

「原宿のおしゃれな人が履きこなし、みんなが『何だ何だ』とスポーツショップに行く。でも、もうそこにはない。『これは売れる』と考えた若者がどんどんアメリカに買いつけに行くようになったんです」

 

小澤さん

「この時、アメリカの現地ではエアマックス95が大量に買えるんです。当時買い付けした人に聞くと、『これはもうかる。お金に見えた』とみなさん口をそろえて言います」

 

小澤さん

「1995年当時、1ドル約80円の円高。20代前半で何のノウハウがない素人のバイヤーでも買えた。150ドルを1ドル80円で買ったら1万2千円、日本で定価は1万6千円。差し引きしても十分利益が出るけど、『もっと高値で売れる』『2万5千円だ、いや3万9800円でも売れる』となっていった」

 

小澤さん

「エアマックスでマンションを買った人もいて、取材で何度も『エアマックス御殿』の話が出ましたね。そのくらい、新しくて面白い時代だったようなんです」

 

小澤さん

「しかし、ここまで来ると、はやりものを金に換えてやろう、という人が出てくる。ナイキなら何でも売れる、何でも売ってやろうという悪質なショップが各地にできはじめました」
1995年5月の雑誌「Cut」の表紙を飾った世界的な歌手ビョークの足もとは、リーボックの「インスタポンプフューリー」。この靴も90年代半ばに人気を集めた
1995年5月の雑誌「Cut」の表紙を飾った世界的な歌手ビョークの足もとは、リーボックの「インスタポンプフューリー」。この靴も90年代半ばに人気を集めた

ヤフオク、メルカリのない時代

――悪質な店、あった気がします。96年、私はパフィーが履いた「ノースウェーブ エスプレッソ」が欲しくてお年玉や小遣いをためて買いました。でも宮崎の街角で手に入れた時、価格は3万6千円。定価より2万円ぐらい高かった。

 

小澤さん

「東京・神田だと1万円台で買えたでしょうね(笑)。あの頃って、買い手も売り手も未熟だった。商売が出来ない人が商売をし始めると、売値がどんどん上がってくる。そして、当時は今みたいにヤフーオークションやメルカリがなくて、フリーマーケット文化が花開いたとき。中古でもフリマで3万円で売れてしまう。そして3万円で買った人が次は4万円で売る。転売、さらに転売」

――自分がエアフォースⅠを盗まれたこともあって「エアマックス狩り」をよく覚えています。

 

小澤さん

「あれは96年ですね。日本経済新聞の当時の記事を調べたところ、この1年間で100件以上ヒットします。96~97年は世の中的にも一番おかしくなった時期です。朝日新聞の天声人語もエアマックス狩りを取り上げています。96年には30万円台でエアマックスが売られていた例も聞きました」
1996年9月27日の天声人語は「エアマックス狩り」や高値で売買されるスニーカーブームに苦言を呈す。「古い未使用のものも高値がつく。1970年代の品が十万円というように。まるでワインである」「学校での人気スニーカーの盗難は、日常茶飯という。靴どろぼうの横行なんて、半世紀前の敗戦後の日々のようではないか」
1996年9月27日の天声人語は「エアマックス狩り」や高値で売買されるスニーカーブームに苦言を呈す。「古い未使用のものも高値がつく。1970年代の品が十万円というように。まるでワインである」「学校での人気スニーカーの盗難は、日常茶飯という。靴どろぼうの横行なんて、半世紀前の敗戦後の日々のようではないか」

インスタのない時代のインフルエンサー

――振り返ってみると、スニーカーなのに、タレントの名前がたくさん出てきますね。

 

小澤さん

「アイコンも強かった。木村拓哉さんをはじめ、インスタがなくてテレビや雑誌が影響力を持った時代のインフルエンサーって、めちゃくちゃ強かった。『アムラー』を生んだ安室奈美恵さんのストレッチブーツ×バーバリーのスカートも、テレビで広がっていきました」
――ブームの到来は、商品としての性能、ではない?

 

小澤さん

「いいえ。プロダクトとして優れていた点も指摘したいですね。サッカーシューズだとはやらなかった。まともにスニーカーを履いたことがない人も当時多かったと思う。新しいテクノロジーを使った靴を履いてみると、クッション性が高くて歩きやすい。革靴とは違う魅力があり、スニーカーという技術の高さもあって、より社会に広がりを生んだと思うんです。斬新で履きやすい。『新しいランニングシューズだった』というのは当時のブームを考える上で大事だと思います」

ブームの終わりは突然に……

――ブームの終わりについても教えてください。

 

小澤さん

「98年にブームは終わります。実際この年はスニーカーのいいモデルが生まれていない。当時は『フューチャーオーダー』といって、半年先に届く商品を買い付けていました。エアマックスが売れたことでスニーカーを大量にオーダーをするんですが、この時はすでに一般消費者に広くナイキのスニーカーが行き渡っていた」

 

小澤さん

「一足二足あれば皆さん満足してしまいますよね。半年前に先を見越せずにしこたま発注してしまい、結局、在庫につぶされてしまった。売れると予測してオーダーをしたけど、しょせん商売のプロではない。そんな人たちが、全員読みをはずして、店は消えていきました」

履かずに「インスタ」投稿

――スニーカーは今も人気のアイテムです。

 

小澤さん

「いま当時をふり返って思うのは、スニーカーって永遠じゃない、ということです。僕自身、90年代の学生時代にレアなビンテージのスニーカーを買っていましたが、エアマックス95も含めて全部ダメになりました。加水分解して壊れてしまった。靴は履かないと意味がないんです」

 

小澤さん

「いまはインスタで承認欲求を満たそうと、履かずに撮影してインスタにアップして、『いいね』をたくさんもらって、履かずに転売する人がたくさんいます。買って撮って売るの繰り返し。その先に手に入れられるものが何なのか。スニーカーが好きと言うより、SNSの中でヒーローになりたい、承認欲求を満たすための一番手っ取り早いツールがスニーカー、という若者も最近は多いと聞きます。やっぱり、僕は履かないと意味がないと思うんです」
小澤匡行さんが学生時代に手に入れたビンテージのナイキ「マライア」は、ソールが加水分解してぼろぼろに。小澤さんは「スニーカーは永遠じゃない」と履くことを大事にしている
小澤匡行さんが学生時代に手に入れたビンテージのナイキ「マライア」は、ソールが加水分解してぼろぼろに。小澤さんは「スニーカーは永遠じゃない」と履くことを大事にしている

スニーカーからジェンダーレスに

――90年代のブームが今に残した教訓とは?

 

小澤さん

「ここ数年も、ニューバランス1400、スタンスミス、スーパースター、厚底でごつい『ダッド・スニーカー』人気とブームが続いています。それはナイキなどメーカー側が90年代の教訓をふまえて、流通を調整したりマーケティングをしたりして、コントロールしているからこそだと思います」

 

小澤さん

「僕自身は、スニーカーが普及したことでジェンダーレスな部分が加速したと思っているんです。革靴って男性と女性で見た目もはっきり違う。女性のヒールは、ある面で女性らしさを足もとで強調することも多い。でも、スニーカーによってストリートやスポーツ、ファッションに男女差がずいぶんなくなって、人の考え方、暮らし方にまで影響していると思っています」
世界的に人気のストリートブランド「オフホワイト」とナイキのコラボレーションモデル。小澤さんは「ロゴや形が崩れた不完全というか、未完成なスニーカーがここ最近のトレンドになりつつある」と話す。
世界的に人気のストリートブランド「オフホワイト」とナイキのコラボレーションモデル。小澤さんは「ロゴや形が崩れた不完全というか、未完成なスニーカーがここ最近のトレンドになりつつある」と話す。
――TPOをふまえつつ、仕事でスニーカーを履く人も多いですね。

 

小澤さん

「あの1995年を経験し、今のスニーカーブームを経験している人たちがさらに上の世代になれば、社会の中でスニーカーの扱い方はもっと変わるんじゃないかなと思います。会社や通勤でもっと履きやすい雰囲気も生まれるかもしれませんね」

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