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<金正男暗殺を追う>2時間後の「死亡確認」見逃さなかった「異変」
マレーシアの空港で顔に謎の液体を塗られた金正男(キム・ジョンナム)氏は、空港の診療所で倒れた後、病院に向けて運び出された。ところが、容体悪化があまりに速く、病院に着く前に息絶えてしまう。残されたのは、素性も死因も分からない遺体。病院や警察は限られた情報を手がかりに、事件の闇に切り込んでいく。裁判が続く中、新たに明らかになった情報などから「その時」に迫る。(朝日新聞国際報道部記者・乗京真知)
2017年2月13日朝。空港の出発ホールで襲われた後、空港の診療所で体調不良を訴えた正男氏は、血を吐いて倒れ、意識を失った。診療所の医師や看護師らが1時間余り、薬剤や酸素を投与するなどしたが、反応は戻らなかった。
診療所では救えない――。そう判断した医師や救急隊員は午前10時半、正男氏を近くの病院へと運び出す。空港の監視カメラには、その様子が記録されている。
隊員3人が小走りで正男氏のストレッチャーを押す。仰向けの正男氏の胸や腹に動きはなく、自発呼吸が難しくなっている。
口には酸素を取り込むための器具があてがわれている。器具には袋が付いていて、この袋を隊員が押すたびに、充満した酸素が送り出される。
正男氏の腕や指には、血圧や血中の酸素量を測る器具がはめられている。救急隊員は何度も器具をはめ直し、モニターを見返す。数値が低く、測定が難しいようだ。
救急車で病院へ向かう。「搬送中に一度だけ脈が取れたが、それきりだった」。捜査関係者は後の取材に明かしている。
病院に着いたのは約30分後。外来担当の医師が迎え、すぐに心臓マッサージなどで蘇生を試みる。だが、呼吸や脈は戻らない。午前11時00分、死亡が確認された。
人が死亡すると、たいていは瞳孔が開ききる。ところが、正男氏は違っていた。「彼の瞳孔は固まり、縮んでいた」(医師の公判証言)。特異な現象として警察に伝えられた。
正男氏の遺体は、司法解剖を待つ間、病院の一角にある安置所に保管された。捜査資料によると、正男氏はポロ・ラルフローレンの青い半袖シャツと、XLサイズの灰色のブリーフパンツ姿で、仰向けに横たえられた。両手は胸を押さえるような形で重なり、白いヒモでくくられた両脚はつま先までピンと伸びていた。
遺体の様子について、医師の1人は「アジア風の大柄な男性で、髪は短く、鼻と耳は極めて正常」と文書に記録している。静かにつむった瞳や、八の字に広がった眉は、いまにも寝息を立てそうな穏やかな印象を与えていた。
ただ、この医師は口の周りに残る異変も、短く書き留めていた。「口の右側に、乾いた血が付いている」。口元からあご向かって伸びる、かすかな血痕。細く、赤黒い線は、血を吐いた臨終の苦しみを物語っていた。
正男氏は何らかの事件に巻き込まれたのではないか。正男氏が残した言葉や医師の報告をもとに警察が捜査に乗り出した。事件番号は「2017年2798号」。容疑は「殺人」だった。
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【正男氏が運ばれた病院】空港の診療所で容体が悪化した正男氏は、救急車で首都クアラルンプール郊外の主要病院「プトラジャヤ病院」へと搬送された。搬送中に死亡したため、病院で治療を受けることはなかった。遺体は病院内の安置所に保管されたが、2日後の15日午前、より設備が整った首都中心部の「クアラルンプール病院」に移送され、司法解剖が行われた。
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