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ある日、イオンが消える……「残された」住民の思いを聞いてみた
ある日、イオンが消えてしまったら……。もはや生活の一部になっている大型ショッピングセンターの代名詞「イオン」の閉店を突きつけられた町が佐賀県にある。「イオンがあるから転居してきた」。そのイオンがなくなる。住民たちの思いと、他県での事例を追った。(朝日新聞鳥栖支局長・大野博)
栄枯盛衰がつきものの小売業界。中でも九州は「安売り競争が特に激しく、生き残りはたいへん」(関係者)という。
そんな中、佐賀県上峰町にある大型商業施設「イオン上峰店」が来年2月末に閉店することが決まった。
閉店決定を受けて記者会見した武広勇平町長の「イオンがあるから、と、この町に転居してきた人も多い」という発言に象徴される通り、閉店が正式に決定したことによるショックは大きい。
「このあたりでは、久留米の街中にでも住まない限り、年をとって車を手放したら生活が成り立たなくなる。銀行のATMから飲食店まで何でもそろうサティが隣にあれば心配ない、と思って越してきたのに」
年金暮らしの高木楠子さん(70)が福岡県小郡市から、イオン上峰店に隣接する上峰町内の「中の尾団地」に転居してきたのは10年前。1996年から2010年まで、前身の「上峰サティ」にテナントとして入っていたシネコンに映画を見に来たこともあり、もともとなじみがあったという。
「いろんなテナントが引き払ってしまい、店内はだいぶさびしくなったけれど、広島に住む娘のところに行くときに佐賀土産のお菓子をぱっと買えるのは便利だった。閉店後はどこで買えばいいのか、見当もつきません」
戸建て住宅が整然と並ぶ中の尾団地は1970年代に開発された。汚水の集合処理により水洗トイレを完備するなど当時の佐賀県としては先進的な団地だったが、郡部という立地のせいか、発売当初は不人気だったという。
「私が土地を買った1988年には210区画のうち40区画しか売れておらず、スカスカでした」と元自治会長の城野武敏さん(77)は振り返る。
それを一転させたのは上峰サティの進出だった。出店前後から人気が沸騰。あっという間に完売したという。
「当時のサティの商圏は福岡県久留米市や佐賀市にまで広がっていた。いろいろな所から人が集まる魅力的な街として一躍、好印象になったのでしょう」
サティによって人を集めた団地。その後継のイオンがなくなった後は、どうなってしまうのか。
武広町長は、イオン九州(福岡市)が所有するイオン上峰店の敷地を閉店後に町が買い取り、かつての商圏をカバーする広域的な交流拠点として整備する考えを表明している。
城野さんは「イオンを利用してきた住民の声にこたえるため、銀行のATMが残るなど、商業拠点としての機能を引き継げるような跡地利用をぜひとも実現して欲しい。町長の手腕に期待したい」と話す。
「イオン上峰店」の前身の「上峰サティ」がオープンしたのは1995年。既存商店街を守るという名目で大型店の出店を規制する役割を果たしてきた大規模小売店舗法(大店法)が廃止される前だった。
久留米市や佐賀市など商店街が強い地域には、まだ郊外型の大型店が少なかったため、幅広い商圏からの集客が可能だった。
ところが2000年に大店法が廃止され、規制が緩やかな大店立地法に移行すると、これらの地域への大型商業施設の進出が活発化。上峰サティは広い商圏があだとなって多方面の後発店との競合にさらされた。
そうした中、運営母体のマイカル九州が2001年に経営破綻(はたん)に陥る。
イオン九州への合併を経て、2011年に店名を「イオン上峰店」に変更。翌2012年のリニューアルなどでてこ入れを図ったが、建物の老朽化も進み、衰退に歯止めをかけることはできなかった。
もはや、地方に住む人にとって日常生活に不可欠な存在ともいえる郊外の大型ショッピングセンター。主要テナントの経営破綻という「イオン上峰店」と似た経緯をたどりながら、主要テナントを入れ替えて再生することに成功した施設がある。
山口県山陽小野田市の「おのだサンパーク」は、1983年の開店当初の主要テナント、「寿屋」が2001年に経営破綻し、翌年に撤退したが、代わりに「フジグラン」、さらには「ゆめタウン」が入った。
テナントを入れ替える間に全面リニューアルと増床も成し遂げ、現在も開店当初に勝るともに劣らない集客力を維持している。
おのだサンパークの運営会社である「小野田商業開発」の元社長、岩佐謙三さんは、九州方面への出張のついでに、開店当初話題を呼んでいた上峰サティを訪ねたこともあるという。
「宇部や下関といった近隣のより大きな都市を商圏にするウチと似ていた。広い商圏を支える上峰サティの2千台超の駐車場を見て、これはいけるな、と思ったものです」
では、運命の分かれ目はどこにあったのか。岩佐さんは「ディベロッパー(運営会社)の性格の違い」を挙げる。
上峰サティの運営会社は「九州ニチイ」から「マイカル九州」に商号変更、さらに「マイカル九州」を吸収合併した「イオン九州」と変遷した。
それに対し、おのだサンパークを運営するのは、小野田商工会議所の役員らが経営幹部に名を連ねる小野田商業開発という地域密着の会社だ。
「イオン九州の本社サイドが収益が上がらない店を閉じるドライな判断をするのは、商売である以上仕方ない。他方、小野田商業開発はまちづくりの使命感を背負っているから、閉店という選択肢は最初から存在しない。それが主要テナント候補と粘り強く交渉する原動力にもなったのです」
岩佐さんはイオン上峰店の跡地利用の行方を注視する。
「町役場と商工会、そして佐賀県経済界で重きをなす農協が連携関係を築き、主要テナントに対する交渉力を持てるかどうか。成否はそれ次第では」
【疾走!男のロマン】サンパークなう。
— おのだサンパーク広報担当者 (@SFsunpark) 2015年10月4日
本日10/3(日)10:30/11:30、このレーシングカーがおのサン駐車場を疾走します!!
(それ以外の時間はサンフェスタに展示)
ラグビーJAPANの勝利に続き、「男のロマン」ご堪能を♥ pic.twitter.com/9MBxmlmLln
佐賀県で生活する中で感じるのは、コンビニや郵便局に行くときもクルマを使うのが当たり前、という、過度なクルマ依存社会であることだ。
記者が暮らす佐賀県鳥栖市は、福岡市や福岡県久留米市に電車で通勤する人も多く、県内では最も「大都市型」の生活スタイルに近い地域だが、それでも日常生活に必要なこと・モノが徒歩圏で賄える「コンパクトシティー」にはほど遠い、というのが現状だ。
記者が暮らす賃貸マンションは、十数台の駐車場が満杯なのに対し、駐輪場には自転車が1台しかない。
もともと半径10~20キロ圏内からのクルマでの集客を見込んでできた上峰サティ(現・イオン上峰店)が、徒歩圏で何でもそろうコンパクトシティーを上峰町に出現させたものの、それは永続的なものではなかった。
上峰町の人たちはイオン閉店後、同じような利便性を求めるならば、逆に10~20キロ離れた佐賀市や久留米市の大型商業施設にクルマで行かなければならない、とうことになる。
今回、閉店決定という第一報を朝日新聞デジタルで配信したところ、大きな反響があり追加取材をした。バブル崩壊後、「ダイエー」や「マイカル」など、大型商業施設を運営する会社の多くは経営が傾いた。
主に大都市部では、大型商業施設ができると周辺が都市化されて地価が上がる→施設の敷地の含み資産を担保にして資金を調達する→それを新規出店の原資にする、という「含み資産商法」が行き詰まったのが原因だという。
かつて栄華を誇ったショッピングセンターに閑古鳥が鳴き、最終的に閉店に追い込まれる例は、大都市、地方を問わず、全国各地でみられた。
「今は見る影もないけど、あそこも昔はにぎわっていたよね」と、多くの人が身近に感じ、小売業の栄枯盛衰の「戦国絵巻」に思いをはせたのではないだろうか。
「おのだサンパーク」のように、地元商工会議所が母体の地域密着の運営会社が大型商業施設を運営しているところは、全国を見渡しても数例しかないという。
跡地を買い取って商業・交流機能を維持・発展させることをめざす上峰町の取り組みは、お手本となる先行事例がほとんどないなかでの挑戦となる。
上峰町はもともと、財政状況が厳しい自治体だ。跡地買収にあたっては、民間の資金やノウハウを公共事業に採り入れる「PFI」と呼ばれる手法を活用し、町の財政負担を圧縮する方針を打ち出している。
PFIといえば、東京・霞が関のど真ん中に官民のオフィスが入る33階・38階のツインビル「霞が関コモンゲート」を出現させた文部科学省などの庁舎建て替え(2007年完成)が有名だが、郡部というそれとは正反対の立地で、PFIの典型的成功例をつくりあげることが出来るかどうかが注目される。
今回の取材を通じて、郊外型の大型商業施設は、旧来の四角い建物を主体とした「箱型」と、細長い敷地に回遊できる通路を配した「モール型」に大別できる、ということを知った。
箱形だと、おのずと建物の「表」と「裏」ができ、店の位置によって立地の優劣がはっきりするのに対し、モール型だと、どこが正面だかはっきりしない構造のため、表・裏ができず、テナントから立地条件についての不満が出づらいのだという。
ちなみに、イオン上峰店は「箱形」、おのだサンパークは「モール型」だ。業界内では常識なのかもしれないが、「10年に一度の頻度で改装しないとお客が寄りつかなくなる」と言われる消費者の心の移ろいやすさとあわせ、競争の激しい小売業の世界の奥深さを改めて感じた。
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