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ゲバラが射殺された「理由」 CIAの「生け捕り」作戦、なぜ変更?
10月9日はチェ・ゲバラが死んだ日です。1967年のことでした。ボリビアの山中で捕まったゲバラは、裁判にかけられることもなく、射殺されました。当初は「生け捕り」だったという作戦。10月には映画「エルネスト」(阪本順治監督、オダギリジョー主演)も公開され注目を集める「ゲバラの最後」を振り返ります。
チェ・ゲバラは、1928年、アルゼンチンに生まれ。大学で医学を学びます。メキシコ亡命中のカストロ氏と出会い、バチスタ独裁政権下のキューバに潜入。1959年にキューバ革命を成功させました。
アフリカのコンゴやボリビアで社会主義革命を目指し、ゲリラ戦を指導。1967年10月8日にボリビアの山中で捕らえられ、翌日、銃殺されました。
当時、東西冷戦のさなか、米国は共産主義の拡大を防ぐため、親米のボリビアを支援していました。
ゲバラを捕まえるため、米中央情報局(CIA)から派遣された工作員がフェリックス・ロドリゲス氏によると、CIAのミッションは「ゲバラを生け捕りにすること」でした。
生きたまま中米パナマに連れて行き、そこで尋問する。CIAは、1965年にキューバから突然姿を消したゲバラが、ボリビアのアンデス山中にいるらしいとの情報をつかんでいました。
ゲバラは1967年10月8日、ボリビアの山中でゲリラ戦を戦っている中、捕らえられます。
その場にいた、CIA工作員だったロドリゲス氏は「ボリビアで共産主義が広がるのを食い止めるのに役だった」と語っています。「もし、ボリビアでチェの革命が成功していたら、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、チリ、ペルーへも、チェは革命を広げていただろう」
しかし、当初、CIAが想定した「生け捕り」はなぜ射殺に変わったのでしょうか?
当時、ボリビア政府は、ボリビア軍に捕まったフランス人作家のドブレ氏釈放を求める海外メディアの圧力にさらされていました。
そんな中、「反米の象徴」として影響力のあるゲバラの裁判が始まれば、世界中で釈放を求める声が高まる可能性がありました。
射殺されたのは「事態を複雑にする。ゲバラは裁判にかけるべきではない」という判断からだったと言われています。
当時のボリビアに死刑はなく、最高刑は禁錮30年。さらに、警備が厳重な監獄はありませんでした。仮にゲバラが有罪になれば、ゲリラ仲間が監獄を襲って脱獄させるおそれもありました。
射殺を告げられた時、ゲバラはどんな言葉を発したのでしょう。
CIAの工作員だったロドリゲス氏が「残念だ。努力したのだが……」と告げると、ゲバラは驚いたようだったそうです。
そして「それでいい。自分は生きて捕虜になるべきではなかった」と言い「フィデルに、間もなく南米で革命が成功するだろうと言ってほしい。妻には再婚して幸せになるよう伝えてくれ」と言い残したそうです。
ロドリゲス氏は射殺役の兵士に「頭は撃たず、首から下を狙え」と指示。その後、短い銃声が聞こえたと語っています。
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