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ネットの話題

「下手すぎてワロタ」批判の日光三猿 でも…「本当の姿」って何?

ネットで「下手すぎてワロタ」と酷評された日光東照宮「見ざる・言わざる・聞かざる」の顔。今春に修理を終え、顔が変わったのですが、果たして本当に「下手」なのでしょうか? 専門家のご助力を頂きながら調べてみると、問題はあるものの、実は正解は分からないという不思議ワールドでした。

今春、修理を終え、顔が変わった「見ざる」=栃木県日光市の日光東照宮
今春、修理を終え、顔が変わった「見ざる」=栃木県日光市の日光東照宮

目次

 日光東照宮の「見ざる・言わざる・聞かざる」の像が修理で塗り直され今春、テレビで報道されると、ネットでは「下手すぎてワロタ」などの批判がわき起こりました。果たして本当に「下手」なのか。専門家に検証してもらった結果は「過去の再現として問題がある」。でも、再現すべき真の姿って何? それって実は、本当には分からないんです。

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お披露目直後、ネットに批判

 「見ざる・言わざる・聞かざる」は正式には「三猿」と言います。昨年度、約40年ぶりに全面的に塗り直され、3月末にピカピカの姿で元の建物の壁に戻されました。ところが1カ月ほどあと、三猿はネット上での批判にさらされてしまいます。

 私も5月ごろ、フェイスブックでまわってきたまとめサイトを見て、びっくりしました。テレビ画面から切り取ったような猿の顔のアップ写真は目がとても大きく、素人目にはデッサンが崩れていて、修理前の方がりりしく見えました。

修理後の「言わざる」(左、2017年5月撮影)と、修理前のもの(右、日光社寺文化財保存会提供)
修理後の「言わざる」(左、2017年5月撮影)と、修理前のもの(右、日光社寺文化財保存会提供)

 ごめんなさい。直リン張れないので後で「東照宮」「下手」でググってもらってもいいですが、修理の前後の猿の顔をアップすると、すごく雰囲気が違います。そんなのが、まとめサイトに載っていました。

専門家もネット情報「無視できない」

 「これって問題なんと違う?」と思いましたが、私もど素人。専門家に取材を助けて頂こうと、奈良文化財研究所の元建造物研究室長、窪寺茂さんにお願いしました。すると窪寺さんも、ネットの批判に気づいていて、「無視できない問題」と思っておられたそうです。

 ただ、「修理前後の写真の比較だけでは判断できない」とも言われました。もちろん、現物を見なくてはダメだ、という部分もあるのですが、それ以上に「修理前のものが果たして正解なのか」という問題があったのです。

「塗り直し」は伝統

 日光東照宮は、元和(げんな)3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社です。
日光東照宮公式サイト

 江戸幕府、徳川家の威光を示す場として生まれた東照宮は、デラックスできらびやかな装飾が特徴です。風雪でそれが損なわれないよう、江戸時代にはおよそ20年周期で修理が繰り返されてきたといいます。

 当然ながら、江戸時代には写真なんてありません。しかも、数え切れないほど何回も塗り直されています。なので、そもそも「三猿」が生まれた時、どんな塗り方だったのかというのは分からないのです。

じゃ、「正解」って何?

 では、何を「正解」として修理をしたのでしょう?

 まずはそれを聞こうと、窪寺さんと一緒に、修理工事を担当した日光社寺文化財保存会の工事監督、浅尾和年さんを訪ねました。そこで分かったのは、なんと今回の修理前の猿、その前の修理時点での猿も、修理時に結構、改変されたようだ、ということでした。

修理を監督した浅尾さん(右)に話を聞く窪寺さん=栃木県日光市の日光社寺文化財保存会
修理を監督した浅尾さん(右)に話を聞く窪寺さん=栃木県日光市の日光社寺文化財保存会

毎回変わる顔

 今回の修理後の猿は、まん丸目玉のゆるキャラのような顔。時代をさかのぼると、前回修理の1973年は、目は小さく、目尻がきゅっと引き締まっていて、やや本物っぽい雰囲気です。前々回の1951年の修理では、目は丸く、さらに小さくなります。その前の1923年前後の修理時後の写真は、塗装の損傷が激しくて分かりづらいものの、丸くて1973年並の大きさに戻りました。

歴代の「言わざる」。左から今回の修理後、1973年修理後、1951年修理後、1923年修理後(撮影は1951年修理直前)、今回の修理の手本にした「見取り図」。今回修理後写真以外は日光社寺文化財保存会提供
歴代の「言わざる」。左から今回の修理後、1973年修理後、1951年修理後、1923年修理後(撮影は1951年修理直前)、今回の修理の手本にした「見取り図」。今回修理後写真以外は日光社寺文化財保存会提供

 写真で分かる範囲だけでも、そのときどきの修理を担当した職人の書きっぷりが違うのです。

 と、いうわけで、修理前の塗装をきれいに再現する、というのは「正しい修理」にはなりません。前の塗装自体が「正しい」とは限らないのですから。その意味で、ネットの批判は的外れといえば的外れでした。

「手本」は見取り図 再現に「問題」

 保存会の浅尾さんは、今回の修理の方針を「推定可能な範囲で、できるだけ昔の修理後の状況を再現する」ことだと話しました。そして、数々の資料を検討した結果、昭和の時代に書かれた「見取り図」が1923年修理の面影を残すと考えられたため、それを手本に修理が行われました。

 窪寺さんも、この方針自体には納得でした。ただ、今回の猿の顔は「見取り図」よりもかなり大きな目。手本が正確に再現されていないため、今回の修理は「問題がある」という結論に至りました。

完成時と違う「日光」の今

 ただ、1923年の修理後の面影を目指すことだって、本当に「正しい」のですか? そんな疑問を覚えずにはいられない歴史も今回、勉強しました。

陽明門の白い柱は、完成時は褐色だった
陽明門の白い柱は、完成時は褐色だった 出典: 朝日新聞

 例えば日光東照宮を代表する豪華な建築物で、国宝に指定されている陽明門。彫刻の入った白い柱が素敵です。でもこの柱、3代将軍家光が1636年に今もあるほとんどの建物を「完成」させたとき、柱は赤っぽい褐色だったのです。白くなったのは遅くとも1800年代初めでした。

 もっと言えばこの陽明門の屋根、元々はヒノキの皮をひいた檜皮葺きでした。今の銅の瓦屋根になったのは1654年です。東照宮では他に何カ所も、江戸時代に変わった部分はあるそうです。

今のも慣れたら案外いい?

 今まで三猿について、顔をどアップした時の話だけをしてきました。でも、全体を見たらどうでしょう? いや、案外ええ感じなんですよ!

三猿の全体像=栃木県日光市の日光東照宮
三猿の全体像=栃木県日光市の日光東照宮

 私自身、まとめサイトでアップの写真を見て「これ、おかしいやろ」と思っていたのですがいざ、本物を見ると、余りの違和感のなさに驚きました。でも、撮った写真を会社に帰って拡大すると、やっぱり奇妙な感じです。

 いや、実は見慣れたら「これはこれでいい」のかも。だって今回の修理より前は、更に前とは違う顔の猿を、大半の人が「これが日光の猿の顔だ」と思っていたわけですから。それに、江戸時代の人も随時、建物を「より格好いい」スタイルに変えていたわけですし。

やっぱり「正解」って何だ?!

 保つべき文化財の姿って何だろう? 取材を進める中で、そんな哲学的な悩みにハマった私。窪寺さんや関係者の方々に疑問を投げかけ、なんとかそれを考えるヒントを教えてもらいました。

 そのレポートは別記事「「ド派手仏像」と「変顔サル」 日光で考えた文化財保護のあり方」にまとめます。読んで下さいね!
【関連記事】
日光「三猿」なぜ目が大きくなった? 専門家が問題視(朝日新聞デジタル)

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