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「坂路の申し子」ミホノブルボン逝く スパルタ調教師と天国で…
1992年の日本ダービーを制したミホノブルボンが2月22日、老衰のためこの世を去りました。28歳の大往生でした。坂道をひたすら駆け上がる練習で一時代を築き、「坂路(はんろ)の申し子」と親しまれた名馬でした。(東京スポーツ部・有吉正徳記者)
1985年、滋賀県栗東市にある日本中央競馬会の施設、栗東トレーニングセンターに新しい調教コースが完成しました。394メートルの直線コース(現在はさらに延長)で、しかも上り坂。「坂路」と呼ばれ、走路には木くず(ウッドチップ)が敷き詰められました。
参考にされたのは英国ニューマーケットにある調教場。ここには自然の丘陵を利用した上り坂のコースがあり、競走馬が連日、その坂を駆け上がっていました。「日本にも坂路を」という声が高まり、その第1号が栗東トレセンに作られました。
しかし平らなコースでの調教に慣れている当時の調教師たちは、新たに作られた坂路を使おうとはしませんでした。「方法がわからない」「馬が壊れたら元も子もない」。そんな消極的な声があふれる中、この「坂路」を積極的に利用しようという調教師が現れました。
それが戸山為夫調教師です。調教した馬が日本ダービーを制すなど、実績は十分でしたが、新しいことにチャレンジすることをためらわない性格の人でした。
戸山調教師の元にミホノブルボンがやってきたのは91年のことです。血統的には短距離向きで、スピードはありましたが、スタミナはトレーニングによって鍛える必要がありました。戸山調教師は、ミホノブルボンこそ坂路で鍛えるべき馬だと考えたのです。
これまでの馬なら、坂路を1日に2回も駆け上がると疲れた様子を見せていましたが、ミホノブルボンは違います。1日に5回も坂路を上らせても、根を上げない忍耐力を持ち合わせていたのです。
「スパルタの風」と言われるほどの練習をこなしたミホノブルボンは快進撃を続けます。91年12月の中京競馬場でデビュー勝ちを収めたのを始め、5戦全勝の成績で第59回日本ダービーに出場しました。東京競馬場の距離2400メートル。サラブレッドのスタミナが試される舞台でした。
小島貞博騎手に導かれたミホノブルボンは18頭立ての15番枠からスタートすると迷うことなく先頭に立ちます。「ついてくるならついてこい」。気迫の逃げを見せ、先頭でゴールした時には、2着のライスシャワーとは4馬身もの差がついていました。
すでに皐月賞を制しており、ダービーと合わせ、2冠馬となったミホノブルボンの次の目標は、史上5頭目の3冠馬となります。デビューからの連勝を7に伸ばして臨んだ京都競馬場での第53回菊花賞。スピードだけでは克服できない距離3000メートルが、ミホノブルボンの前に立ちはだかります。
レースでは先手を奪うことができませんでした。キョウエイボーガンという逃げ馬がミホノブルボンの機先を制し、先頭を切ります。長すぎる距離3000メートルといつもと違うレース運び。その時、取材で現場にいた僕には2番手につけたミホノブルボンに変調が起きたように見えました。
それでもゴール前、ミホノブルボンは懸命に踏ん張ります。ライスシャワーに敗れ、デビュー8戦目で初めての黒星を喫しはしましたが、2着を死守しました。
ライスシャワーはその後、3200メートルの天皇賞・春を2度制するほどの「長距離ランナー」でした。そのライスシャワーに敗れた菊花賞の2着は称賛に値する内容だったと思います。
残念ながらこの菊花賞がミホノブルボンの最後の実戦になりました。直後に足を痛め、復帰を目指して長期休養に入りましたが、結局94年1月に現役を引退したからです。その後、種牡馬(しゅぼば)になりましたが、中央競馬の重賞レースで優勝する子は誕生しませんでした。
そんなミホノブルボンが今年2月22日、28歳で死にました。老衰でした。
調教師の戸山はミホノブルボンを育てている頃からガンと闘っていました。病床で原稿をしたためていましたが、本の出版を見ることなく93年5月、61歳の生涯を閉じました。死後、出版された戸山の著書「鍛えて最強馬をつくる」はこの年のJRA賞馬事文化賞に輝きました。
それから24年が過ぎました。今ごろ戸山とミホノブルボンは、ようやく天国で再会していることでしょう。
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