連載
#4 AV出演強要問題
AV強要、元タレントも被害 ミスコン受賞歴、歌手の夢捨てられず…
社会問題化しているアダルトビデオ(AV)への出演強要の被害者は、「芸能人になれる」などの釣り文句に騙された一般女性に限らない。芸能界に関する知識がある元タレントも、巧みな「囲い込み」による被害に遭っている。DVDの販売が見込めることから大々的に売り出され、親や親族、友人たちが瞬く間に知ることになる。親との絶縁、自殺未遂などを経験することになった20代後半の元タレントの女性が取材に応じた。(朝日新聞経済部記者・高野真吾)
最初に芸能事務所に所属したのは、高校3年生の4月でした。その2カ月前に、東京・渋谷を歩いている時に、スカウトされました。浜崎あゆみさんや、「モーニング娘。」さんが好きで、「歌手になりたい」という夢をずっと持っていた。CMにたくさん出ているタレントさんがいたので、そこの事務所に所属しました。
すると幸運にも、ある雑誌のミスコンをすぐに受賞できた。グラビアからいい形で芸能界に入れた。高校を卒業してから3年ぐらいは、タレント活動に専念しました。グラビア以外にも、地方局のパチンコ番組と衛星放送の情報番組のレギュラーの仕事が2本あって、たまに舞台にも出ました。両親も応援してくれていました。
しかし、20歳になるぐらいから、将来が不安になってきた。その頃は、グラビアの仕事は10代の仕事という印象が強かったし、タレントとしてずっとやっていける自信もなかった。一番の夢だった歌手になれなかったということもあります。悩んだ末に、事務所を辞めました。安定した収入が欲しくて、雑貨店や洋服屋でのアルバイトを始めました。
1年半ぐらいした2009年の夏、渋谷で芸能事務所の名刺を持った、男性スカウトに会いました。離れてみたら芸能界は刺激があり、友人もできるし、楽しかったと後悔し始めていた。また、その人の事務所に入りたいと思ってお願いしました。
結果的には、以前に所属していた事務所との関係があるとかでダメでした。それでも、スカウトから「若いし、もったいない。俺の知っているすごい人を紹介する」と言われたのです。4カ月ぐらいして会ったのが、前所属事務所の社長でした。
初めて会ったのは、東京・渋谷のマークシティのレンタルオフィスでした。スカウトと3人で2時間ほどの面談でした。社長からは「どんな芸能人になりたいの?」と聞かれました。具体的なイメージができていなかったので「アイドルとか歌の活動をしたい」と答えました。
すると、社長は「俺だったら、日本だけじゃなくて、中国や海外に出て行けるような歌手、女優を目指すよ」と言いました。日本の経済は伸びていなくて、エンターテイメント業界も縮小しているから、と理由を説明しました。
「芸能活動を成功させるには、投資が必要だ。お金をかける価値があるとキミを認めるか分からないけど、毎週90分ぐらい話をしていこう」。その場で手帳を開いて、次の約束を決めました。私はまじめな性格なので、約束があると足を運んでしまうのです。
社長は面談で、私の売り出し方を詳しく語りました。
第一段階では、イメージDVD3本を出して、男性のファンをつかむ。同時に女性誌にも連載を持って、女性ファンもつかむ。
第二段階で歌手を始めて、中国で開催されるコスプレイベントやゲームショーにも参加する。日本の地上波で深夜番組にも出る。
第三段階では、ネットでコンテンツを流通させつつ、(マカオの)カジノ王とイベントを開いて、彼にスポンサーになってもらう。
最後の第四段階で、カジノ王の協力を得て、上海の大舞台でコンサートを開く、と。
彼の売り出し方にあわせるように、私も「ビジョンブック」と呼んだノートに自分の将来像を書き込んでいきました。見返すと、「世界」「中国」という単語がたくさん出てきます。
「世界一の歌手になるには、歌唱力が必要」「世界一の女優になるのは、演技力が必要」。「中国に私をイメージした遊園地をつくる」「世界中に私モデルの携帯を発売する」という項目も出てきます。
さらに、社長の事務所の女性相談係に手伝ってもらい、イメージをより形にする作業をしました。自分のコンサートのステージに馬車に乗って登場したいと考えたら、雑誌から馬車の写真を切り抜いて台紙にはる。ステージで着るドレスなども、同じように貼っていきました。
翌10年の2月に、社長らのアドバイスに従って、両親と離れて一人暮らしをしました。日常的に会うのは社長と事務所の女性相談係など、社長の関係者ばかりとなっていきました。2カ月後に正式に所属契約をしました。
5月には、関係者10人ほどが集まって、東京・西麻布のレストランで、私のためにサプライズパーティーを開いてくれた。出席者は「俺たちは家族だから」「私たちは家族だから」と語りかけ、「一緒に夢をつかもう」と盛り上がりました。
その10日後、イメージDVDの撮影だと言われて、東京・原宿のスタジオに向かいました。洋服を着たままの撮影の後、監督が当然のように命令したのです。「じゃあ、脱いでくれる?」。驚いてどこまでかを聞くと、「全部だよ」。
驚いて、大泣きしました。撮影が絡みのあるAVだと、初めて知りました。急きょ駆けつけた社長は「言ったよね」と大声で怒鳴り舌打ちしました。
この日の撮影が中止になった直後、社長と話し合いました。
「今までずっと話をしてきたよね。AVはほんの最初だけで、1、2年、長くて3年やるだけ。その向こうの夢のためには頑張らないのかい」
「いくらお金をかけているか分かる? 雑誌とか色々なメディアで宣伝して1億円ぐらいかけている。撮影が無理だと、親に請求がいくよ」
親へのお金の請求が怖くて、6月上旬の撮影には応じざるを得なかったです。
秋に雑誌で私がAVデビューするという記事が出ました。社長は、タレント活動をしていた時の名前をAV女優名に使い、雑誌のミスコン受賞者ということも全面に押し出しました。相談はありませんでした。当然、両親に知られる「親バレ」になります。母は「私はあなたを産んだことが人生の汚点だ」。父は「二度と帰ってくるな」。両親と絶縁状態になりました。
女性相談役に話しました。彼女は、親とのことを「大丈夫?」と心配しつつも次のように言ってきました。「目指している夢を邪魔するのは、実の家族でもダメだよ。私たちこそが家族だから支える」。続けて、一緒にいた男性マネジャーが「携帯の番号を変えなよ」と提案しました。「囲い込み」下だった私は、素直にその通りにしました。
その後は、月1回の撮影が続きました。11年に念願だったCDデビューをしましたが、今思うと、それはAVを続けさせるための私への投資だったのでしょう。
次第に体に異変が起きてきました。食事をしても、お茶を飲んでも吐いてしまう。摂食障害でした。電車やバスに乗ると、急に動悸(どう・き)が起こり、過呼吸になるパニック障害も発症します。ほかの乗客が自分の悪口を言っているように聞こえる幻聴にもなった。社交的な性格だったのが、対人恐怖症になりました。
13年夏になると、もう心身共に限界でした。当時、1年ほど付き合った後に、実はAVに出ていると打ち明けた彼氏がいました。その彼の目の前で「死にたい」とベランダに向かったのです。
何とか私をなだめた彼が、社長に電話をした。私は「もう無理です。夢とか言っていたけど、雑誌の連載やテレビ出演もなかった。結局、私をAVに出させたかっただけですよね」と訴えました。すると社長は冷たく言い放ちました。
「俺、今から上海なんだよね。忙しいんだけど、何、死にたいの? 俺には分からないよ、別に脱いだって減るものじゃないし。死にたかったら死ねばいいじゃん」
当時、私はこんな文章を書いています。「正直夢を叶(かな)えてあげるから頑張ろうってずっと言われて頑張ってきた。でもどんどんどんどん自分の心も身体(からだ)も歪(ゆが)んでそれでもずっとずっと耐え続けた。でも夢より結局ビジネスね」
この年の冬、AV引退を発表しました。もう十分に稼いだと思ったのか、社長は強く引き留めませんでした。
両親との関係は現在も修復中です。母親がどうしても過去のことで色々と言うことやご近所の目が気になって、今もって実家に住むことはできません。私の人生をめちゃめちゃにした社長のことは許せません。現役AV女優の香西咲さんと一緒に、刑事、民事の訴訟準備をしています。相応の責任を取ってもらいます。
AV出演強要に関して言いたいことは、やりたくない人間を巻き込まないで下さいということ。イメージDVDだとウソをつかずに、最初からAVだとの説明を怠らないで欲しい。私のような女性を二度と生んで欲しくないです。
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AVに関係する情報を募集しています。出演強要被害に遭った男性、業界の内情を語ってくれるAVメーカー、プロダクション幹部からの連絡をお待ちしています。
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