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小沢一郎氏、当選確実 衆院で現役最多の当選16回に
衆院選で、「生活の党」の小沢一郎代表が当選。政界での求心力低下もあり、「これまでで最も苦しい選挙」とされましたが、1969年の初当選以来衆議院議員で現役最多となる16選を決めました。
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衆院選で、「生活の党」の小沢一郎代表が当選。政界での求心力低下もあり、「これまでで最も苦しい選挙」とされましたが、1969年の初当選以来衆議院議員で現役最多となる16選を決めました。
14日に投開票された衆院選で、「生活の党」の小沢一郎代表(72)が岩手4区で当選を確実にしました。政界での求心力低下もあり、「これまでで最も苦しい選挙」と報じられる中、地元を精力的に歩く異例の選挙戦で自民前職の藤原崇氏(31)に競り勝ちました。1969年の初当選以来、衆院議員現役最多となる16選。生活の党が苦戦し、数的な影響力の確保が厳しい中、今後の国会でどう存在意義を示すのか、問われそうです。
日本政治の歴史とほぼそのまま重なる、小沢氏の政治家としての半生を振り返りました。
小沢氏は今回の衆院選で、党所属の衆院議員に「それぞれの政治生命をながらえることを考えてもらう。好きにしていい」と離党を認めました。自らは党首にとどまり、初めて比例代表に重複立候補。もし選挙区で落選しても、比例で復活当選できるようにしました。これまで選挙期間中にほとんど立ち寄らなかった地元に張り付き、ビールケースに乗って演説を重ねました。
93年に自民を離れ、新生、新進、自由、民主など各党を移ってきました。最近は支持者の高齢化も指摘されていました。一方、対抗馬の自民・藤原氏の元には、安倍晋三首相ら幹部が「重点選挙区」として次々と応援に入り、厳しい選挙戦でした。
小沢氏は1969年、衆議院議員だった父・佐重喜氏の急死に伴い、旧岩手2区の地盤を継いで自民党公認で初当選しました。
田中角栄元首相を「政治の父」と慕い、選挙のイロハや官僚の操縦術をそばで学びました。田中氏がロッキード事件で刑事被告人となった時には、裁判の全公判を傍聴したといいます。同期当選の橋本龍太郎、小渕恵三、渡部恒三の各氏ら、後に「竹下派七奉行」と呼ばれる有力政治家らと競い合いながら、後に首相になる竹下登氏の新派閥「創政会」に加わり、最大派閥を切り盛りしました。
89年には47歳の若さで幹事長に就任。公明党や民社党と連携しPKO協力法を成立させるなど、海部俊樹内閣を支えました。
92年に、「東京佐川急便事件」を巡って金丸信氏が議員辞職すると、羽田孜氏らと竹下派を離れました。著書「日本改造計画」で、二大政党制を目標とする政治改革や国連軍への参加による積極的な国際貢献などを掲げました。
集団離党した羽田派で新生党を結成。93年の衆院選で自民党が過半数割れすると、日本新党の細川護煕代表を担いで社会、公明など非自民8党派による連立政権をつくりました。
しかし、小沢氏が加担した唐突な「国民福祉税」構想を巡る混乱や佐川急便からの借入金問題などで94年、細川氏が首相を辞任。ここから、与野党をまたいで政党の離合集散を重ねる、小沢氏の「壊し屋」遍歴が始まります。
後継の羽田孜内閣には、社会党が不参加。同党の村山富市委員長を首班とする奇策を仕掛けられ、自民の政権奪還を許してしまいます。
野党に転落した各党を巻き込み、海部俊樹元首相を党首に新進党を結党しますが、その後は国政選挙や党首選のたびに路線対立が表面化。97年、党首として解党の道を選び、自らは翌年に「自由党」を結成します。
99年には、自民の小渕恵三首相との連立政権が成立。この間に、衆議院の定数削減や党首討論の導入などの国会改革を実現させました。
その後、公明党が連立に加わり、自由党の存在感が低下すると、00年に小沢氏は連立を離脱。その過程で、連立政権に残った勢力「保守党」と分裂します。
03年には最大野党だった民主党と合併し、06年に党代表に就任します。07年の統一地方選や参院選で民主が大勝し、自公が参院で過半数を割り込むと、衆参で勢力図が逆転する「ねじれ国会」に追い込みました。
途中、福田康夫首相との「大連立」構想で混乱を招いたほか、西松建設からの献金を巡る秘書逮捕などで党代表を辞めましたが、09年の衆院選では党代表代行として陣頭指揮をとりました。農家への戸別所得補償などの政策を掲げ、「小沢チルドレン」と呼ばれた新人議員らを大量当選させ、社民、国民新党と共に政権交代を実現させました。
10年、鳩山由起夫首相が政治資金問題や沖縄の普天間基地移転を巡る混乱で辞任すると、一緒に党幹事長を辞任。小沢グループが推す海江田万里氏が党首選に敗れると、12年に消費増税法案に反対した議員らを引き連れて離党。「国民の生活が第一」を結党しました。
ただ、脱原発や反TPPなどの主張は、過去の政治姿勢との矛盾も指摘されました。嘉田由紀子・滋賀県知事率いる「日本未来の党」への合流も唐突な印象を与え、12年の衆院選で惨敗。13年には「生活の党」に改称し、自ら代表に就きました。
13年7月の参院選では、生活の党の公認候補全員が落選。政界における求心力の低下が指摘されました。
その後も、「自民一強」を崩そうと、民主を中心とした野党の再結集を唱え続けましたが、消費増税を巡って対立した民主内の「小沢アレルギー」は根強かったといいます。
今回の衆院選では生活の党から前職2人を民主に合流させましたが、自らが“非自民”の結集の軸になることはありませんでした。
こうして小沢氏の歩みを振り返ると、そのまま日本の政治史につながります。良くも悪くも、政界は「親小沢」「反小沢」に割れて動いてきた時期がありました。強烈な個性を持った小沢氏は今後、政治家として活路をどう見いだすのでしょうか。