連載
#22 #啓発ことばディクショナリー
「自己実現」に殺されたくない…まっとうに働くために必要な〝物語〟
企業が用いる言葉と正しく向き合う方法
「人財(人材)」など、職場で用いられる〝意識高め〟な造語やフレーズ。それらの語彙(ごい)は、企業が望む労働者像を生み出します。仕事に従事する人々を奮起させる反面、理想的な働き方を押しつけ、追い込む恐れもあるのではないか。就職活動で苦悩し、自己啓発セミナーにまで参加した筆者は、そう思ってきました。権力を持つ企業の言葉と適切に距離を取り、心を惑わされないために何が必要か? 「自己実現」という概念を引きながら考えます。(withnews編集部・神戸郁人)
「もはや日本型雇用は崩壊した。企業の力に頼らず、職務スキルを高めよう。そして自分の力で未来を切り開く『人財』になろう」――。いわゆるビジネス書や、働き方の指南本を読むと、檄文(げきぶん)にも似た文章が目に入ります。
こうした主張と、しばしばセットで用いられる単語があります。「自己実現」です。
「自己実現」の定義は、キャリア形成にまつわる議論でよく引用される、米国の心理学者アブラハム・マズローが提唱した、「欲求5段階説」が分かりやすいかもしれません。
上記の理論で「自己実現の欲求」は、「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」のヒエラルキーの最高位に据えられます。衣食住と身の安全、所属集団における承認欲が満たされた後、社会生活で内面的欲求を実現する。そのような構図です。
自らが生きた証として、人々の記憶に残る功績を打ち立てたいと願うのは、至極自然なことでしょう。向上心や功名心は、日常に張りをもたらしてくれるものです。一方で肥大化しすぎれば、心を抑圧する重しにもなりかねません。
「自己実現」と聞くたび、筆者の頭の中を、昔の記憶がよぎります。就職活動に奔走していた、大学生の頃の出来事です。
就活を象徴する営みに「自己分析」があります。経歴の中から、採用面接でアピール可能な体験などを抜き出す作業です。サークル活動もアルバイトも長続きせず、学内で孤立しがちだった筆者。企業に提示できそうな過去は見当たりません。
〝就活マニュアル〟本を読んでも、「強みはあなたの生き方に表れます」とあるだけ。自信など持ちようもなく、面接は惨敗続きです。何者にもなれず、社会へと伸びる蜘蛛(くも)の糸をたぐり寄せては弾かれる。耐えがたい苦痛でした。
そんなとき偶然参加したのが、数日間の日程で行われた、いわゆる自己啓発セミナーです。講師からは「叶(かな)えたい夢について発表する」という課題が与えられました。簡単に未来など描けるものかよ……と胸の内で毒づいたものです。
そんな心情を知ってか知らずか、講師は繰り返し言いました。「過去は変えられない、現在の自分を変えよう」。反復された言葉は脳裏に刻まれるもの。筆者は同年代の受講者らと、いつしか熱っぽく将来について語らうようになったのです。
自己啓発セミナーへの参加中は、白昼夢を見ているような、不思議な心持ちでした。マズローの「欲求5段階説」の全レイヤーを、一気に駆け上がったかと思うほどの全能感に浸れたのです。目標の就職すら果たせていなかったにもかかわらず。
夢を持つことは、企業が望む労働者像に近づき、自己実現を果たすための第一歩である。そうすれば世界の一員になれるのだ――。
当時の筆者は、そう思い込んでいました。社会を駆動させる、「勤労」という考え方に囚われすぎていたのです。
一般に社会人とは「企業に勤務したり、自ら事業を起こしたりして、生活費を稼いでいる存在」と言えるでしょう。そして良い業績をあげ、出世や昇給といった恩恵を受けていることが、世間でのステータスとみなされることもままあります。
その意味で、セミナーを受けていた頃の筆者は、大げさに言えば「人間になる資格を得た」と舞い上がっていたのかもしれません。空虚で内実を伴わない夢であっても、自分と社会を強く結びつけ、自己実現を促す〝物語〟としてすがるほかなかったのです。
当然ながら、仕事だけが生きる手段ではありません。そして労働の可否を問わず、一人ひとりが安らかに生きるため、人権が保障されています。そうした前提を忘れ「働かねばならぬ」と思わせるだけの強度が、〝物語〟には備わっているのです。
この図式は、「自分の力で未来を切り開く『人財』になろう」などと、企業が働き手を鼓舞する状況とも相似形をなしています。
人事権を持つ企業の経営者層が流布する、「好ましい働き手」のイメージ。そのような価値観が支配的になれば、あらゆる労働者が同調しようとするでしょう。
そしてうまく適応できず、安定した仕事に就けなかった人々は、自己責任論のもとで切り捨てられかねません。「自由な働き方」を求め、劣悪な待遇でプラットフォーム企業に搾取され続けるギグワーカー(ネット経由で単発業務を請け負う労働者)の増加など、その片鱗(へんりん)は社会のあちこちで見え始めています。
では、私たちは自己実現の〝物語〟と決別できるのでしょうか? 働き方に関わる言葉について、筆者が取材した辻田真佐憲さんは、「それは不可能だ」と語りました。「ゆえに、その〝物語〟が本当に正しいかどうか検討すべきです」とも。
生きている限り、人間は「自己実現したい」と思い、理想的な生き方を求めてしまうものです。向き合い方によって、未来を切りひらく原動力にも、私たちを追い詰める刃にもなり得ます。
だからこそ、その内容を表象する言葉を、常に点検しなければならない。筆者は、辻田さんの発言をそう解釈しました。
当たり前とされる考え方や言葉を疑い、対峙(たいじ)する意義を教えてくれる映画もあります。アドルフ・ヒトラーが現代ドイツに現れ、騒動を巻き起こす筋書きの『帰ってきたヒトラー』(監督:デヴィッド・ベンド/ドイツ/2015年)です。
劇中、オリヴァー・マスッチ扮するヒトラーが街へと繰り出し、出演者ではない一般市民らと政治討議をする映像が挿入されます。彼ら・彼女らの多くが公然と語ったのは、「数を増やして職を奪う」移民の排斥や、「民族浄化」への希望でした。こういった欲求を糾合したのが、かつてのナチズムです。
戦後のドイツにおいて、ナチズムは徹底的に排除され、関連する意匠の使用なども厳しく禁じられてきました。しかし同作は、ある思想をタブー視することで、かえって人々の耐性を弱めてしまいかねないという、皮肉な現実を示唆しています。
映画のテーマと、企業が駆使する言葉を同一視することはできません。しかし現状を捉え直すための、豊かなヒントを含んでいると思います。職場で働き手に用いられる言葉を、過度に拒絶も追認もせず、冷静に吟味するという姿勢です。
「人財」などの言葉に込められた、企業の要請が絶対化される社会では、その期待に応えることこそが正義となります。経済格差が容認される環境に順応できず、貧困に苦しむ人々が、自ら死を選んでしまう事態も生じるかもしれません。
そのような状況を意識的に避けるためには、権力を持つ側に好都合な言説を相対化する、別の〝物語〟をつくることが不可欠です。
自己実現の欲求に殺されないために、精神的な寄る辺となる〝物語〟を、よりよいものに更新し続けていく。今ほど、そうした態度が求められる時代はないのではないでしょうか。
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