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MAXのNANA、実家に書いた「ウソの手紙」、成功するまで帰れない…

沖縄のタレントスクール初日に受けた衝撃

「MAX」結成前の、タレントスクール時代のNANAさん=本人提供
「MAX」結成前の、タレントスクール時代のNANAさん=本人提供

沖縄出身のダンスボーカルグループMAX。1995年にデビューしてから今年で25周年を迎えました。10代だった「スーパー・モンキーズ」時代から音楽業界が様変わりした今、第一線で走ってきた4人は何を思うのでしょうか? 仕事や子育て、自分自身の活動など、それぞれが切り開いた道について語る「MAXコラム」。沖縄出身のスターを数多く輩出した沖縄のタレントスクールに入学したNANAさんは、がむしゃらに練習をし、念願のデビューを果たし東京へ。当時の新生活の苦労話をつづります。

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親を説得し、タレントスクールに入学

いつもの散歩道が色とりどりになり、お天気がいいだけでもワクワクしてくる春。
新しい環境での生活がスタートする人も多い季節でもありますね。

たくさんの出会いと別れの中で今の自分が作られて、今いる場所へ導かれている気がしています。その中で私にとって大きなターニングポイントとなった出会いは、沖縄のタレントスクールとの出会いでした。そこでの学び、出会った先輩や後輩、そして仲間たちとは絆が生まれ、今もつながりがあります。また、つらかったこと、楽しかったこと、たくさんの思い出が今もなお私の活動の原動力になっています。

小学生の頃、アイドルグループの『おニャン子クラブ』が大人気でした。それを見て、「私もいつかTVの中の世界に入ってみたい!」という気持ちが湧いてきました。そんな憧れを抱きながら中学生になり、勉強や部活に、充実した学校生活を送っていた中、学校の友達に誘われてレコード会社のオーディションを受けることに。それがきっかけとなり、沖縄で人気だったタレントスクールに入学することになりました。

母には「学業がおろそかになるのでは」と反対されましたが、どうにか説得して入れてもらったんです。あの頃、華やかな芸能界は夢のまた夢の世界で、ものすごく遠くに感じられました。タレントスクールに入るだけでも、少しは憧れの世界の近くに行ける気がして、どうしてもその一歩を踏み出したかったんです。

漠然とただアイドル歌手を目指していた私が初めて1人でレッスンに行った時のこと。見たことのないレベルの歌やダンスを披露(ひろう)する人たちが既にいっぱいいたんです!衝撃を受けました。まだ練習生なのに、みんなかわいく、きれいであか抜けている生徒さんばかり。その人たちは、すでに芸能人のようにキラキラ輝いて見えました。

親戚や近所の大人たちに「かわいいね〜」「すごいね〜」と言われて育ち、その気になっていた私の鼻は一気にへし折られました!(笑)。その時でしたね、相当な努力をしないと行きたい世界に行くのは無理だと思ったのは。それからは、とにかくがむしゃらに、ただただ一生懸命にレッスンに励みました。

憧れた先輩は牧野アンナさん

スクールでは先輩が後輩にレッスンの指導をするシステムでした。みんなそれぞれ憧れの先輩ができ、私は、のちに一緒にグループデビューをすることになる牧野アンナさんに憧れていました。当時の1990年代初期は、現代のネット社会とは違って、簡単に情報を取り入れられなかったので、とにかく先輩のマネから入りました!髪形、ファッション、歌い方、踊り方、話し方……一番近くの、憧れの先輩に近づくことが成長のカギとなっていました。

私は、本当に不器用で、何をするにもうまくこなせないタイプ。でも、優しい先輩たちから色んなことを丁寧に教わり、可愛がってもらいました。そのおかげで、技術的なことはもちろん、私にとってはそれ以上に、人としての優しさ、思いやり、強さ、たくましさの「内面」を育ててもらいました。2歳下の妹からは、「ジャイアンのようだったお姉ちゃんが、優しくなったのはタレントスクールに通い出してからだ」と言われています(笑)

そしてスクールに通って2年ほど経った頃、現在所属しているライジングプロダクションの平社長が沖縄のタレントスクールを訪れたのがきっかけで、同じスクールの仲間5人で、「スーパー・モンキーズ」というグループでデビューが決まりました。このデビューもまた、転機となりました。そしてすぐに家族、仲間、地元を離れ上京することに。それが私にとって初めて大きな"別れ"となりました。

「スーパー・モンキーズ」のデビューで上京した時のNANAさん(右)と牧野アンナさん(左)=本人提供
「スーパー・モンキーズ」のデビューで上京した時のNANAさん(右)と牧野アンナさん(左)=本人提供

実家に書いた「ウソ」の手紙

念願のデビュー!そして憧れの東京生活!
新生活に胸を踊らせていました。でも、あの時代はLCCなどなく、交通手段が今よりも充実していません。沖縄から東京へ行くのは、海外へ行くくらいの感覚でした。家族や地元の友人とのやり取りのツールといえば、手紙、固定電話、あとは公衆電話くらいだったので、一生の別れに感じるほどの寂しさでした。

東京では学校に通わなかったので、同世代の新しい友達が出来ることはなく、仕事よりレッスン時間の方が長い日々。成功しなければ帰ってくることも許されないようなプレッシャーに押しつぶされそうになる時も、正直ありました。つらさを紛らわすために、東京で活躍して忙しい毎日を送っているようなウソの手紙を実家に書いたりしていましたね(笑)

そんな中でもメンバーたちと一緒に暮らしていたのが救いでした。子どもながらにお互い励まし合い、時にはぶつかり合って仲直りして、切磋琢磨(せっさたくま)した生活は今でも自分の基盤となっています。

思えば、この10代の多感な時の経験が、一番「自分」というものを構築した気がします。

必然なのか偶然なのか、これからも続く出会いと別れ。それを繰り返しながら笑ったり泣いたり。楽しいことも苦しいことも含めて、人生に彩りをくれている出会いには感謝したいですね。

別れた後でも、その人のことを思い出すことで近くに感じられたり、会えなくても想像することでその人との関係の続きが作れたりすることも。
これからも素敵な出会いに巡り合いますように☆

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