連載
#8 #半田カメラの巨大物巡礼
解体を待つ伊達政宗の「巨大な木造船」〝津波〟乗り越えた数奇な運命
地元民のため帆を上げ続けた「復興の象徴」
東日本大震災で、4000人近くの死者・行方不明者(関連死含む)が出た宮城県石巻市。この地の住民の心を支えている「木造船」があります。江戸時代に完成し、国際交流の象徴として活躍後、平成期に復元されたものです。震災の津波により、崩壊の危機に瀕(ひん)しながらも、その形を保ち続けました。老朽化に伴い、近年中の解体が決まった今、どれだけ多くの人々に愛されてきたか改めて伝えたい。そんな思いから、大きな物を撮り続ける写真家・半田カメラさんが、現地の様子をつづりました。
2011年3月11日の東日本大震災発生から、間もなく10年の節目を迎えようとしています。今回は石巻復興のシンボルとなった船「サン・ファン・バウティスタ」について紹介したいと思います。
サン・ファン・バウティスタとは、宮城県慶長使節船ミュージアム(愛称サン・ファン館)にある、全長約55メートル、高さ約49メートル、重さ約500トンの木造洋式帆船のことです。
この船は、2021年度をめどに解体されることが決まりました。そして現在、最後のイルミネーションが点灯されていると聞き、私は最後の輝きを見ようと、2020年11月末、石巻を訪れたのです。
そもそもサン・ファン・バウティスタとはどのようなものか。サン・ファン館で学芸員を務める中澤希望(なかざわ・のぞみ)さんに詳しくお話を伺いました。
今から約400年前の1613(慶長18)年、仙台藩主であった伊達政宗公は、領内でのキリスト教布教と引き替えに、ノビスパニア(現在のメキシコで当時はスペイン領)との直接貿易を求め、外交使節団を派遣しました。
これが慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)で、そのために建造された木造の洋式帆船がサン・ファン・バウティスタ号です。
使節は政宗公の家臣、支倉常長(はせくらつねなが)と、宣教師ルイス・ソテロを代表とする20〜30名で構成され、商人らを含む総勢180名が乗り込み、1613年に現在の石巻を出航。3か月後にメキシコに入港し、翌年にスペインの戦艦でメキシコからスペインへと渡り、一行は大西洋を渡った初の日本人となりました。
スペイン国王やローマ教皇への謁見(えっけん)を果たしますが、当時の江戸幕府はキリスト教弾圧の流れに傾いていたため、スペインから良い返事は得られぬまま、資金も底をつきます。
石巻を出航してから7年後の1620年、支倉常長は失意の中、日本に帰国。わずか1年後に病死したと伝えられています。
結果として目的は果たせませんでしたが、太平洋と大西洋の横断が偉業であることは間違いありません。「現代の私たちに例えれば、宇宙旅行にも等しいものだろう」と中澤さんは言います。
ですが日本は後年、キリスト教を禁止し、海外との行き来を制限する鎖国を行いました。使節の存在は長らくトップシークレットとされ、明治期になるまで知られることはなかったそうです。
現在あるサン・ファン・バウティスタは、もちろん400年前のものではありません。今から約30年前、原寸大で復元されたものです。
1990年、郷土の偉業を後世に伝えるため、サン・ファン・バウティスタを復元しようという県民運動が起こりました。この運動は盛り上がり、建造費用15億円のうち、5億円が県民の募金によりまかなわれます。
そして1年8か月の工期を経て、1993年に現在の復元船が竣工(しゅんこう)しました。
ここでひとつ、大変重要な史実があります。1611年12月「慶長大津波が仙台藩を襲った」という複数の記録が残されているのです。仙台藩の正史とされる「貞山公治家記録」によれば、慶長大津波は藩内だけでも1,783人の死者を出し、甚大な被害を及ぼしました。
これは伊達政宗公が使節派遣の構想を明らかにした、わずか2週間前のことです。つまり、政宗公は被災地に雇用を生むための復興事業として、造船を行ったのではないか。災害で荒れた藩を海外との交流で立て直すため、使節を派遣したのではないか――。こんな仮説が生まれるわけです。
ですが、この仮説は長らく信じられてきませんでした。なぜなら「そんな大きな津波など来るはずがない」と思われていたからです。
しかし慶長大津波からおよそ400年後の2011年3月11日、東日本大震災が東北地方を襲いました。これにより仮説は真実味を持ち、慶長大津波は見直されることになったのです。
サン・ファン館の企画広報課・課長を務める髙橋正法(たかはし・まさのり)さんは、東日本大震災が起こったとき、事務所にいました。テレビが落ちてきて、これはただ事でないと、すぐにお客様や職員の避難誘導を行いました。事務所のある建物の屋上に皆で避難し、サン・ファン・バウティスタを撮影していたそうです。
津波の第一波はそこまで大きくありませんでした。40分後にやってきた第二波が建物壁面のガラスを破壊、サン・ファン・バウティスタを上下左右に大きく揺さぶりました。髙橋さんは「襲ってくる津波より引き波の力が凄まじかった」と言います。海底が見えるぐらいに引いて、木造船以外のほぼ全ての展示物を持って行ってしまったのです。
幸いにもお客様、職員は無事でした。津波には踏ん張ったサン・ファン・バウティスタでしたが、翌月の強風で帆船の命とも言えるマストを折損。施設も激しく傷つき、サン・ファン館は長期の休館を余儀なくされました。
休館中、高台にあるサン・ファン館と、隣接するサン・ファンパークは、被災者や復興に携わる自衛隊員が寝泊まりする場となりました。サン・ファン・パークでは、それまで漁港で行われていた大漁祭りが催されるなど、まさしく石巻の復興拠点となったのです。
破損したサン・ファン・バウティスタは、カナダよりマストの木材が寄贈され、修復が行われました。そして震災から2年8カ月後の2013年11月、サン・ファン館は営業を再開します。
開館直後の同年11月3、4日の2日間に、施設を訪れたのは約9,400人。これは震災前の3か月間の来館者数に匹敵する数だったそうです。
こうして再開したサン・ファン館でしたが、震災の傷は大きいものでした。サン・ファン・バウティスタの老朽化が進んでいることがわかり、このままでは5年も維持できないことが調査で明らかになったのです。再開からわずか3年後の2016年には乗船中止となり、とうとう2021年度をめどに解体されることが決まってしまいました。
石巻の人々とともに歩んできたサン・ファン・バウティスタです。何とか残せないかと検討がなされましたが、老朽化が著しいことに加え、木造船の船大工が高齢であること、修繕に多額の資金が必要になることなどから、このまま維持するのは難しいと判断されたそうです。
私は解体されることを悲劇的にとらえていました。ですが、髙橋さんは「たとえ船自体がなくなっても、その意志は残る」と言います。
復元船の形を残すことだけが、復元船が伝えてきたものの本質ではないのではないか。むしろ復元船が、この30年間で伝えてきた400年前の人々の意志、そして震災を乗り越えた、この10年間の経験を皆でつないでいくことが大切ではないか。そう話すのです。
さらに「震災と強風による大きな被害から立ち直り、人々の気持ちを奮い起こすため、ここまで持ちこたえてくれたことに感謝したい」と語ってくださいました。
約400年前、慶長大津波による甚大な被害から造船事業を興した伊達政宗公。そして、その歴史をなぞるかのように、東日本大震災で被災後、復興の拠点としての役割を果たし、木造船をよみがえらせたサン・ファン館。数奇な運命をたどった施設だからこそ、伝えられることが必ずあると、私は思います。
サン・ファン館は、2024年にリニューアルする予定です。たとえどのような形になっても、きっと来館者が色々なことを感じられる場所になるはず。髙橋さんのお話を聞き、私は明るい未来を思い描きました。
サン・ファン・バウティスタを約4万球の電飾が彩る、最後のイルミネーションは、2021年1月24日まで行われます。震災を乗り越え、なお前に進もうとする木造船の雄姿を、目に焼き付けてほしいと思います。
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